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「出会いがある……校友会」「更に広げよう……同窓の輪」

○○・・・○○の旅

  2017/01/16  予定



2018/11/05 南米・ボリビアのウユニ塩湖の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2016.02.06~02.15)


 旅程マップ         ウユニ塩湖!        列車の墓場!        ウユニ塩湖の夕焼け!


 *クリックして、「南米・ボリビアのウユニ塩湖の旅」をご覧ください!



ウユニ塩湖の概要

 <ウユニ塩湖とは>
 ウユニ塩湖は南米、ボリビアの南西部に位置する広大な塩湖である。
 湖という名称がついているのは主に雨季に水が張ることで湖が形成されることに由来する。
 ただ乾季になると水はほぼなくなり、一面広大な塩の原野となるため、学術的にはウユニ塩原という呼称の方がされる(ただこのページでは便宜上ウユニ塩湖で統一する)。
 ちなみに当地ではトゥヌパ塩原とも呼ばれているが、これは塩原に食い込むようにそびえているを見下ろすトゥヌパ山(標高5321メートル)の名に由来している。
 ウユニ塩湖は標高3700メートルの高地帯に南北最大100キロメートル、東西最大250キロメートルも広がっており、総面積は1万平方キロ余りで、これは秋田県の面積に匹敵する。
 これだけの面積でありながら塩湖内の標高差はわずか数十センチしかなく、ほぼ真っ平らに近い。
 南米を縦断するアンデス山脈の中部には山脈に挟まれた高原地帯(アルティプラーノ)があり、ウユニ塩湖はその一部である。塩湖には流入する川はなく、湖を作り出す水源はすべて雨水である。
 実は塩原のあちこちには地下に通じる穴があいており、その下には地下水の層がある。
 雨季になってこの地域に雨が降ると、その穴から雨水が入り込み地下水位が上昇する。
 そして水位が塩原の地表面を越えて溢れ出ることで湖が形成されるわけである。
 もしも当地が平らでなく傾斜があれば、あふれた水はどんどん流出してしまうところだが、前述のように当地は標高差がほとんどないため、こうした流出が起こらず、天空の鏡とも呼ばれる湖が形成されることとなっている(一方でわずかながら高低差があることで、雨季でも水が張らない場所や逆に乾季でも水が残る場所もある)。
 
 〔ウユニ塩湖の歴史〕
 ウユニ塩湖にこれだけの塩があるのは、かつてこの地が海だったからである。
 今から1万年以上前にアンデス山脈地帯の隆起によって、今のアルティプラーノは陸地となった。その後塩原を含む当地は乾燥気候となり雨が少なかったこと、ウユニ周辺には川がなかったため塩の流出が起こらなかったことから塩の蓄積が起こり、結果今の環境が出来上がったとされている。
 
 〔ウユニ塩湖の観光〕
 かつてはボリビアの首都ラパスからバスで10時間以上かけて訪問しなければならない、まさに秘境であったが、2011年に空港ができ、格段に利便性が向上した。
 ただ,それに伴う観光客の増加によるごみ問題が発生している。
 宿泊施設はウユニの町にたくさんのホテルがあるほか、塩湖のほとりにここから切り出した塩のブロックを積み上げて造られた塩のホテルが数件あり人気である。
 
 

もっと知りたい「ボリビア・ウユニ塩湖」

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2018/10/15 フィリッピン・セブ島スキューバーダイビングの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2014.12.03~12.05)


 旅程マップ         セブ島・ヒルトウガン!   可愛い人気者!クマノミ!  宿泊のホテルの風景


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フィリピン及びセブ島の概要

 <フィリピン共和国>
 東洋の真珠といわれるフィリピン共和国は、7,107もの島から成り立っている。(インドネシアについで世界第二位)その中心は首都マニラのあるルソン島、次に大きいのが南部ミンダナオ島、その間にはリゾート観光地としてのパラワン、ビサヤ諸島があります。
 最近の実情としては、日本からいちばん近いエキゾチックな外国と賭して人気が高かったのに、今では近隣各国に引き離された感がある。これはひとえに経済の立ち遅れと国内を取り巻く情勢不安が原因として挙げられます。
 日本におけるフィリピンのイメージはまず第一に「危険な国」ということのようです。それは新聞屋テレビで報道されるフィリピンに関する記事の内容の大半が犯罪や汚職による政治腐敗などに関わるものが多くどうしても否定的な印象しか残さないのです。
 それは日本の報道機関が報道ネタとして捉えているからだと言わざるを得ません。事件、何かが起こるということを前提としてフィリピンを捉えているということに他ならないのです。
 フィリピンはそうまで危険な国かというとそうではないと思います。実際、フィリピンの人たちは人が良く、国家や会社のことより自分自身や家族のことを思い毎日何を食べて生きていくかということを考える善良な市民であると思います。国民の7割以上が貧困にあえいでいるとはいえ互助の精神を失わず、厳しい状況に立たされても、けっしてフィリピン人独特の「人なつっこさ」、「素朴さ」を失わないフィリピン、毎日一生懸命生きるフィリピン人達を頼もしく思います。
 
 〔プロフィール〕
 正式国名 フィリピン共和国
 独立記念日 1946年7月4日(フィリピン国内では6月12日が独立記念日になっている)
 人口 約 7.950万人
 面積 約 30万平方キロメーター
 元首 Gloria Macapagal Arroyo (2001.01.20.)
 政治体制 共和制
 
 〔フィリピンの国旗〕
 左側、白地に三角の中央には、自由を象徴する黄金の太陽、周囲の八つの光芒は、反スペインに立ち上がり独立運動に加わったマニラ、カビテ、ラグ―ナ、バタンガス、ブラカン、パンパンガ、タルラック、ヌエバエシバの8州を意味している。
 三角形の角にある星はルソン、ミンダナオ、ビサヤ、を象徴している。右側のブルーは清潔を、赤は勇気を表している。
 
 〔フィリピンの公用語〕
 フィリピン語と英語。学校教育ではフィリピン語の使用が義務づけられてはいるが実際には英語が併用されている。フィリピン語の母体はルソン中央部、マニラとその周辺州、ミンドロ島で多く使われているタガログ語である。フィリピンでは120を超える言語がありその地方によって特有の言葉を使っているのが現実です。
 
 〔フィリピンの教育制度〕
 義務教育は、初等教育6年間、中等教育4年間、高等教育(大学)は4年間であるが学部、専門分野によって変わってくる。識字率は95%を超える。日本人学校や、インターナショナル・スクールがある。
 
 〔フィリピンの英雄〕
 フィリピンの英雄を挙げると最初はザゼランと戦った「ラプラプ」、近世では解放運動の父「ホセ・リサール」武力闘争の「アンドレ・ボニファシオ」民族独立運動の指導者「エミリオ・アギナルド」たちが挙げられる。
 
 〔7.107の島々〕
 熱帯の海域に北から南に扇状に広がる群島それがフィリピンです。フィリピン最大の島「ルソン島」南端の二番目に大きな島「ミンダナオ島」そしてその間に「ビサヤ諸島」がある。ビサヤ諸島にはパラワン、ミンドロ、パナイ、マスバテ、ネグロス、セブ、ボホール、レイテ、サマールがある。
 
 〔気候〕
 フィリピンは熱帯性モンスーン気候に属し、年間の平均気温は26~27℃。雨季は6から11月。乾季が12~5月となっている。しかし広大な地域の為すべてがこれに当てはまるわけではない。特に7月~9月、11月の台風には注意が必要である。台風の警報には4つのランクがありシグナル3,4になると学校会社は休みとなります。またフィリピンは火山島としても有名である。現在も22の火山が活動しており「マヨン火山」常には危険な状態にある。
 
 〔宗教〕
 フィリピンはスペインの植民地時代が長かったせいもありアジアでは珍しくカトリック教徒の多い国である。ローマカトリックが85%プロテスタントを含めると全人口の93%がキリスト教系である。
 
 〔フィリピン人の気質と言葉〕
 「フィリピーノ・ホスピタリティー」という言葉があるように、見知らぬ人に対しても親切であるといわれている。円滑な人間関係を思考するが、恥の意識が強く無神経な言動から思わぬ事態を招くことがある。南国特有の楽観的な性向もある。
 
 〔在留邦人の数〕
 長期滞在者 約8,600人 永住者 約1,500人
 
 <セブ島>
 セブはもっともポピュラーなリゾートとして日本人には知られており南北に長いセブ島とビーチリゾートエリアを持つマクタン島とその他小さな島からなる島の総称です。セブ島はビサヤ諸島の中あり、ルソンとミンダナオの間にある島です。ビサヤ諸島は7つの主要な島々で構成されています。
 パナイ、ネグロス、セブ、レイテ、サマル、ボホールとマスバテです。地理的は、ルソンとミンダナオの間にあり共に航空路線と海の航海のためのハブとなっています。すでにご存知かと思いますが、ここセブ島はフィリピンの歴史が始まった場所でもあるのです。スペインの探検家マゼランが最初に上陸したところとしてはあまりにも有名です。そして植民地の文化と歴史で浸されてきた所でもあるのです。
 
 〔セブ島の温かい、優しい人々〕
 セブ島(フィリピン)の温かい、優しい人々について。
 セブ島は素晴らしいビーチがいたるところにあり、平和的、友好的な人々が住む穏やかな場所です。地元の人やフィリピン各地の観光客、そして外国の観光客に人気が高い島です。セブ島、それはスペイン(マゼラン)が最初にフィリピンに上陸した所での最も古い地である。そしてマニラに次ぎ観光とビジネスにおいて2番目の主要都市である。
 真新しいマクタン国際空港はマニラや他の空港とは違い整然とした雰囲気がある。定期便は成田、大阪、シンガポール、マレーシア、香港、オーストラリア、からの国際線も就航している。それはセブ島がフィリピンの中核をなすハブとなっていることを意味するものでもあるのです。それに同じく近隣の島々を結ぶ海運の中心地でもあるのです。セブ島概要
 「フィリピン最古の都」 "The Queen Cit of South" これはセブを表現するときよく使われる言葉です。1521年のマゼラン上陸から始まりアメリカ、日本の支配下から独立て現在のセブに至る多くの歴史がある都市である。スペイン時代の名残りはカトリック信仰とともにここセブだけではなくフィリピンのいたるところにその足跡を見ることができる。
 
 〔人口・言語〕
 人口はおよそ 300万人である。現地の言葉としては セブアノ語 が一般的に使われるがフィリピンの公用語である タガログ語と英語 は広く理解される。セブ市には多くの中国系の人たちが住んでおり彼らだけの言葉を使う人たちも入る。英語についてはセブの人々の80%以上が理解する事が出来る。
 アメリカの英語資格試験に置いての結果ではフィリピン人の英語力は超一流のものがあり、アジア地域2ヶ国の中ではシンガポールに次いで第二位の結果である。ちなみに日本は北朝鮮と同じ24位である。(1999年度調査結果)セブ人の気質は温和で、平和協調的であるが反面、志操堅固、反骨精神も旺盛であるようです。
 
 〔セブ島経済状況〕
 ビサヤ地域への政府の基本政策は西部ビサヤ地域は農業、漁業、中部ビサヤ地域は製造業、サービス業、観光業、東部ビサヤ地域は重工業という分業政策を取っている。
 なんといってもセブの産業に革命的変化をもたらしたのは1979年に開発されたマクタン輸出加工区である。この加工区には、現在100を超える企業が進出していてそのうちの約6割が日系の企業である。セブの主要輸出品は半導体、電子時計、カメラ、解散加工品、家具となっており主要輸出先は米国、日本、欧州、韓国、台湾の順である。
 
 〔セブ島観光〕
 戦略的産業のもう一つは観光産業である。マクタン島の東海岸には数多くのリゾートホテルが立ち並びマリンスポーツのメッカとなっている。外国人観光客の約40%は日本人が占めている。毎月約9000人以上の日本人が訪れており、治安、衛生、その他累積する悪い習慣(タクシー料金、日本の暴力団関係者に入国の制限など)の一掃に務めているのが現状です。
 
 〔セブ島タウン情報〕
 「セブ島は治安がいい」 というのは日本の旅行者の間ではほぼ常識になっています。それはマニラ国際空港やタクシー、歓楽街で恐い思いをしたことのある人にとってはセブ、マクタン国際空港に降り立った時に感じる雰囲気はまた特別なものがあると思います。リゾート地にやって来たという開放感は首都マニラでは感じられないものでしょう。


もっと知りたい「セブ島」

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2018/09/24 世界遺産白神山地の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2014.09.20~09.22)


 旅程マップ         白神山地 暗門の滝!    奥入瀬渓流の風景      十和田湖湖畔の風景


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白神山地の概要

 <地形・地質>
 白神山地の地質は、主として9000万年前(中生代白亜紀)にできた花崗岩類を基盤に、2000万年~1200万年前頃(新生代第3紀中新世)の堆積岩(凝灰岩、泥岩、砂岩)とそれをつらぬく貫入岩類(地中のマグマが上昇してできた岩。流紋岩、石英閃緑岩等)で構成されています。 白神山地は深い渓谷が密に入り組んでおり、青森県側の岩木川、赤石川、追良瀬川、笹内川、秋田県側米代川水系の粕毛川などの河川が、世界遺産地域を源流部として日本海に流れています。隆起地域のため、河川の谷壁が急傾斜をなし、崩壊や地すべりが多く見られます。尾根沿いには県境沿いの小岳や二ツ森、青森県側の白神岳、向白神岳など、標高1000m級の山々が連なっています。
 
 <ブナ>
 白神山地には、原生的なブナ林が広大な面積にわたって残されています。ブナは、北は北海道の渡島半島から南は九州の大隅半島の日本各地の山地に生育する日本の冷温帯林を代表する落葉広葉樹です。ブナの寿命は約250~300年程度とされ、その樹高は25m程度に達し、幹の太さは1.5m以上になるものもあります。ブナは5月頃に雄花と雌花を開花させ、実は10月頃に熟します。ブナの実には豊凶のサイクルがあり、豊作は5~7年に一回程度と言われています。ブナの実はたんぱく質や脂肪に富み栄養価が高いため、豊作の翌年にはネズミが大発生することもあります。ブナの森では多くの動植物がブナを中心とした豊かな生態系を形作っています。また、ブナの森は渇水や洪水を防いだり、土砂崩れや雪崩を防止するなどの機能を持っています。
 
 <植物相>
 ブナの極相林が大部分を占め、渓流沿い等ではサワグルミやトチノキなどの林、尾根部ではキタゴヨウやミズナラが見られます。雪崩が多発する急傾斜地では森林は発達せず、高茎植物の草原、または地表をはう低木林となっています。山頂部の風衝地では、一部でハイマツや高山植物の小さい群落も見られますが、チシマザサの草地か、ミヤマナラ、ダケカンバなどの低木林が大部分を占めています。白神山地では約500種の高等植物が確認されており,この中には,アオモリマンテマやツガルミセバヤなどの準地域固有種も含まれています。
 
 <動物>
 中大型哺乳類に関しては,東北地方に分布する中大型哺乳類16種のうち、非常に多い積雪量のため生息が困難なニホンジカ、イノシシを除く14種が生息しています。この中にはニホンザル、ツキノワグマや特別天然記念物に指定されているニホンカモシカも含まれています。

 <鳥類>
 天然記念物に指定されているイヌワシやクマゲラ、その他クマタカ、シノリガモなど貴重な種を含め、94種の生息が確認されています。

 <昆虫類>
 非常に豊かで、代表としてはフジミドリシジミとオオゴマシジミの2種類が挙げられ、分布の北限、南限を含む2,000種以上の生息が確認されています。特にフジミドリシジミについてはブナを食樹とする唯一のもので、その水色光沢の姿を見ることは稀と言われています。

 <両生類・は虫類>
 ハコネサンショウウオ、トウホクサンショウウオ、アズマヒキガエル、カジカガエル、モリアオガエルを含む両生類13種、ニホントカゲ、カナヘビ、シマヘビ、ヤマカガシを含む爬虫類7種が確認されています。

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2018/09/03 南エチオピア秘境縦断の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2013.11.11~11.20)


 旅程マップ         これがムルシ族ダッ!    アリ塚         チャモ湖でボートクルーズ



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エチオピアの概要

エチオピアは、アフリカの東部にある内陸国。
 東にソマリア、南にケニア、西にスーダンと南スーダン、北にエリトリアとジプシに接する内陸国である。
 <概要>
 エチオピア連邦民主共和国(英:Federal Democratic Republic of Ethiopia)はおよそ日本の3倍の面積にあたる1,127,127km²の国土を保有しており、人口はアフリカではナイジェリアに次ぐ第2位の約8,100万とされている。
 この人口はドイツと同じくらいである。公用語はアムハラ語。なお宗教は東方諸教会に分類されるエチオピア正教とイスラム教が多数を占めている。
 国全体がほぼ高地に位置しているため年間平均気温が13℃と、同じ緯度の国に比べかなり涼しい。首都の標高は約2400mである。
 文明の発達は欧州の辺境より遙かに早く、その歴史は遅くとも紀元後1世紀、早ければ紀元前10世紀にまで遡るとされ、エチオピアは現存するアフリカ最古の独立国および世界最古の独立国の一つとして認識されている。
 エチオピアの歴史においては、紀元前8世紀のダアマト王国期から1975年の帝政廃止までがエチオピアという一つの連続した国家の「帝国時代」と認識されている。
 一方、王朝中心の歴史観を持つ日本においては、実在した確かな同時代資料が残る復興ソロモン朝のイクノ・アムラクが即位した1270年から帝政廃止の1975年までのエチオピアを、一つの「エチオピア帝国」という国家として扱うことが多い。
 公用語はアフロ・アジア語族に属するアムハラ語である。文字体系はゲエズ文字を用いる。
 あと、この国の歌謡曲はかなり演歌に近くて面白い。
 
 <経済>
 17年に及ぶ内戦の影響は現在では払拭されたが、工業があまり発達していない。
 主要産業は農業で労働者の8割が農業に従事しており、森林と水があふれる豊かな国土を最大限利用している。
 コーヒー、ゴマ、切花などを生産しており。国の輸出の約半分をコーヒーとゴマだけで担う。だが、これだけではあまり収入がよろしく無いのでエチオピアでは合法のチャット(カート)と呼ばれる麻薬を製造して非合法の国に輸出したりしている。
 しかし急な人口増加と生産拡大に土地が疲弊し、旱魃が発生するなどして一時期GDPがマイナスに転んだ。埋蔵資源は鉄鉱石、ニッケル鉱、タングステン鉱など多くの鉱床があるものの、現在は金と銀の採掘が中心となっている。
 また、アフリカで一番家畜を飼っている国で、4100万頭の牛、2500万頭の羊、7300万頭のヤギがおり、革製品なども人気だ。
 日本からは自動車が多く輸出されている。
 輸入品目としてはコーヒーが上げられる。ちなみにこの国のコーヒーもイエメンのコーヒー同様にモカと呼ばれている。
 広く普及しているアラビカ種はこの国が発祥であり、昔から安価で大量のコーヒーを輸入していたが、2008年にこの国のコーヒー豆から有害物質が検出されたのをきっかけに、輸入が2010年代前半まで自粛されたため入手が困難となったが、近年再開された。ただし安価ではなく他の国のコーヒー豆より高めの価格になっている。

 <軍事>
 エチオピアはアフリカでも有数の軍事国家であり、軍隊が近代化されている。
 2006年末、アメリカ海軍の空母戦隊による航空支援を受けてソマリアに侵攻したエチオピア軍は主力戦車とヘリ空挺によって編成されていたのが確認されており、アメリカの軍事支援を受けていることがわかった。

 

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2018/08/13 アメリカ大陸横断単独ドライブの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2013.09.10~09.25)


 旅程マップ         Mt Rushmore N,M!    Badlands N,P!     Yosemite N,P 道中風景・・



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アメリカ大陸の概要

<米国の祝日「コロンブスの日」にまつわる本当の歴史とは>
 米国では毎年、10月の第2月曜日はコロンブス・デー(コロンブスの日)として、クリストファー・コロンブスが1492年10月12日にアメリカ大陸へ到着したことを祝います。
 しかし、コロンブスが航海したのはスペインのためであり、実際に上陸したのは西インド諸島です。しかも、コロンブスはかなり嫌な人物でした。
 それなのに、どうして米国ではこの日を祝うのでしょうか?

<コロンブスの所業>
 ジェノバの探検家であったコロンブスは、「新世界」を植民地化しようとスペインの旗の下で航海をしました。
 当時、たどり着くことが大変困難であった伝説の東インドを目指して大西洋を横断した後、目的だった日本や東南アジアのかわりに、ヒスパニオラ島(現在のハイチ、ドミニカ共和国)に上陸します。
 この島で、コロンブスは植民地を建設し、大西洋を横断する奴隷貿易をはじめ、原住民を金鉱山で働かせたり、腕を切り落としたり、先住民のジェノサイド(大虐殺)に精を出しました。
 こうしたすべての所業がキリスト教の名のもとに行なわれたのです。そして、この土地の先住民が今でも「インディアン」と呼ばれているのもコロンブスのおかげだったりします。
 
<コロンブスが英雄になった3つの理由>
 なのに、どうして米国はこのような人物を国の英雄に祭り上げているのでしょうか?
 私は3つの理由があると思われます。
〔1つ目の理由〕 
 とった手段がどうであれ、コロンブスは大西洋を横断する貿易ルートの確立に貢献し、植民地化を促進。最終的に米国が今の形を成す礎をつくったことです。
 もちろん断言はできませんが、もしコロンブスが失敗していたら、世界はかなり違った形になっていたことでしょう。
 
〔2つ目の理由〕 
 ロナルド・レーガンや、1937年にこの日を連邦の祝日に制定したフランクリン・D・ルーズベルト、1892年にコロンブス上陸の400周年を祝うようにアメリカ国民に呼びかけたベンジャミン・ハリソンなど、何人もの大統領が「コロンブスの新世界発見」神話にロマンチックな夢を抱いていたことです。
 しかし、事実ははっきりさせておかなければなりません。コロンブスはアメリカ大陸を発見していません。
 アメリカ大陸にはすでに先住民が住んでいました。
 また、あくまでヨーロッパ人が発見したと主張するのであっても、バイキングの探検家レイフ・エリクソンのほうがはるかに早く上陸しています(コロンブスの数百年前)。
 
〔3つ目の理由〕 
 3つ目が最も重要なのですが、米国民がコロンブスの日を祝うのは…(ここでドラムロール)…イギリスが大嫌いだからです!
 コロンブスが上陸したのはカリブ海地域であって、北米大陸ではないことを覚えていますか?
 それに、11世紀以降で、北米大陸を初めて発見したのは、ジョン・カボットという名のヴェネチアの探検家です。なぜ米国民は毎年「ジョン・カボットの日」を祝わないのでしょうか?
 その理由は、カボットがイギリスの旗の下で航海したからです。
 
 コロンブスもカボットも、死後数百年の間は、ほとんど無名に近い存在でしたが、1776年にアメリカの植民地が独立すると、突然事態が動き出します。
 米誌Smithsonian MagazineのBrian Handwerk氏が説明するように、アメリカに入植した人々は、新しく生まれた国家のために「英雄の象徴」を必要としていました。
 本来ならカボットが選ばれるべきでした。彼らの新しい土地に実際に上陸したのはカボットであり、先住民の大虐殺もしていません。
 実際、カボットは先住民と一切接触せず、上陸時も「クロスボウの射程距離を越えて」は進行しませんでした。
 しかし、Handwerk氏が言うとおり、カボットは不都合な旗の下に航海しました。独立を勝ち取った米国の民の誰もが、自分たちをイギリスのために働いた探検家と結びつけたいとは思わなかったのです。
 18世紀の後半から米国でコロンブスの日が祝われるようになり(300周年にあたる1792年には大規模な祝典が開かれた)、1905年にコロラド州の祝日に定められ、1937年には連邦の祝日となったのはこうした理由があるわけです。
 しかし今日では、多くの都市で10月の第2月曜日は「アメリカ先住民の日」と定められています。米国の60以上の都市が、コロンバス・デーのかわりに、この日をアメリカ先住民の文化と歴史を称える日とすることを選んだのです。
 

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2018/07/23 アメリカ東海岸・四大都市と三大ミュージアム巡りの旅


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 (旅行日)  (2012.08.21~08.27)


 旅程マップ         世界遺産・自由の女神!   ホワイトハウスの構成!   ボストン美術館!



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アメリカ東海岸の概要

<概要>
 アメリカ東海岸には、世界的に有名な都市ニューヨークを筆頭に、首都であるワシントンD.C.、フィラデルフィア、ボストン、マイアミなどの都市があります。
 日本との時差は?14時間(サマータイムのときは?13時間)。ニューヨーク、ボストン、ワシントンD.C.には日本から直行便もあるため、毎年多くの日本人観光客が訪れます。

<アメリカ東海岸は政治、経済、文化の発信地>
 大都市ニューヨーク、合衆国誕生の地フィラデルフィア、学術都市ボストン、アメリカの首都ワシントンD.C.、ビーチリゾート地マイアミの5都市が東海岸の主な都市。
 政治や経済、文化などあらゆる分野の中心地で、新しいムーブメントの発信地としても広く知られる地域です。
 ニューヨークのブロードウェイからフィラデルフィアの独立記念館、ボストンの史跡、マイアミのビーチまで、それぞれの都市に魅力的な見どころがたくさん。エンターテインメントや芸術、グルメなども充実していて、各国から人々が集まり、常に躍進し続けています。
 
<アメリカ東海岸を代表する都市主な観光スポット>
〔ニューヨーク〕 
 マンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタテンアイランドの5つの行政区からなる全米最大の都市。
 自由の女神やタイムズスクエア、ブロードウェイ、セントラルパーク、エンパイアステートビル、メトロポリタン美術館など世界的に有名な観光スポットが集結しています。
 映画のロケ地巡りやグルメ、ショッピングのほか、スポーツ観戦、ミュージカル鑑賞もニューヨークの楽しみ方のひとつです。

〔フィラデルフィア〕 
 アメリカの独立宣言が採択された地であり、独立の鐘や独立記念館など、アメリカの独立に関連するスポットがたくさんあります。
 また、ワシントンD.C.が首都と定められる前の臨時の首都が置かれた場所でもあり、今でも当時の国会議事堂や裁判所などを見学することができます。
 時間があれば、ランドマークでもある市庁舎や全米屈指といわれるフィラデルフィア美術館も訪れてほしい名所です。
 
〔ボストン〕 
 アメリカの中で長い歴史を持つ都市のひとつで、世界的に有名なハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などがあります。
 「フリーダムトレイル」と呼ばれる道路に引かれた赤い線をたどっていくと、ボストンコモンからバンカーヒル記念塔まで、ボストンの歴史的な観光スポット16カ所をまわることができます。
 そのほか、ボストン美術館やトリニティ教会なども見どころ。メジャーリーグのレッドソックスの本拠地でもあるので、野球観戦もおすすめです。
 
〔ワシントンD.C.〕 
 アメリカの首都。大統領の住むホワイトハウスは、観光客用の見学ツアーに参加すれば建物内を見ることができます。ナショナルモールと呼ばれる国立公園が観光の中心エリアで、ワシントン記念塔があります。
 そのほか、リンカーン記念堂や白亜の国会議事堂も見どころ。美術館や博物館もたくさんあり、スミソニアン協会の美術館・博物館、自然史博物館、アメリカ歴史博物館、宇宙博物館、アメリカインディアン博物館などもおすすめです。
 
〔マイアミ〕 
 一年中温暖な気候で、国内有数のリゾート地として知られています。
 特に、美しい海が広がるマイアミビーチが有名。また、マイアミからキーウエスト諸島までの7マイルブリッジは、まるで天国のような絶景が見られる場所として人気があります。
 イチロー選手が所属する(2017年現在)マイアミ・マーリンズのホームスタジアム、マーリンズ・パークがあるのもこの地。メジャーリーグ観戦もおすすめです。
 
 
 

もっと知りたい「アメリカ東海岸」

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2018/07/02 太平洋に浮かぶ島・パラオの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2011.08.29~09.03)


 旅程マップ          パラオの碧い海!!    Plau Pacific Resort!   ロックアイランドの風景!



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パラオの概要

<地理と自然>
 パラオ共和国(Republic!of!Palau)は、北緯2度から8度、東経131度から135 度の太平洋西部の北半球側、ミクロネシア、キャロライン諸島の西端に位置する。
 首都は 2006 年にコロール(Koror)市からバベルダオブ(Babeldaob)島のメレゲオク/マルキョク(Melekeok) 州ゲルルムッド(Ngerulmud)に遷都された。
 国土面積は 444km21で、これは種子島(445km2)とほぼ等しく、八重山諸島(586km2)より一回 り小さい。北端のカヤンゲル(Kayangel)島から南部のアンガウル(Angaur)島までは東北から 南西方向に連なる約150kmのパラオ群島となっている。北部のバベルダオブ島が国土面積の89.2% (396km2)を占める。
 パラオ群島の南西約360kmに位置するソンソロル州、および南西約600km に位置するハトホベイ州の南西諸島(Southwest!Islands)も国土に含まれる。
 バベルダオブ島と そのすぐ南に位置するコロール島、マラカル(Malakal)島、アラカベサン(Ngerekebesang)島は 火山起源、それ以外は石灰岩の隆起珊瑚礁である。
 国土の最高地点はバベルダオブ島北部のゲ レラウース(Ngerchelchauus)山の海抜242mである。
 パラオの気候は熱帯雨林気候(Af)に分類され、年中多雨で気温の年較差が 少ない。年平均雨量は 3,631mm で、東京の 1,400mm は言うに及ばず、バリ島デンパサールの 1,741mm、プーケットの2,417mmなど熱帯地域の主要海浜観光地と比べてもかなり多い。
 パラオは通常の台風のルートより南に位置するため台風の来襲は稀だと言われてきたが、2012 年、2013年、2014年と、近年になって 毎年一本のペースで台風の被害が発生している。
 またフィリピン海プレートと太平洋プレート の境界に位置し、また周辺に地震多発地帯があるため、地震と津波のリスクがある。

<歴史>
先史時代  
 パラオで人類の居住が始まったのは約3000E3500年前とされ、パラオはグアムなどマリアナ諸島 と並んで、ミクロネシアでは人類の居住がもっとも早い時期に始まった地域である。
 遺跡の発掘 調査から最初期のパラオの住人はネグリトと呼ばれる人々だったが、その後インドネシアやメラ ネシア方面から移住が進んだと考えられている。

西洋人との接触  
 16世紀以降、スペイン人やポルトガル人、後にイギリス人がミクロネシア地域に来航するように なった。
 1783 年にパラオ近海で英国東インド会社のアンテロープ号が座礁し、これがパラオと 西洋社会との実質的な最初の接触となった。
 船長のヘンリーウィルスンはコロールの酋長と親 交を深め、その息子リーブーを英国に連れて行ったことが、パラオが西洋で知られるきっかけと なった。
 アンテロープ号の座礁によって火器がパラオ社会に伝わり、村落単位で小規模な戦争を 繰り返していたパラオ社会の政治的統合を促し、コロールを中心とする南部とメレゲオクを中心 とする北部の同盟が成立した。

スペインとドイツによる統治(1885-1914)
 1885 年にパラオを含むミクロネシアはスペインの植民地となり、カソリックの布教が開始された。
 米西戦争に敗北したスペインは 1899年にミクロネシアをドイツに売却し、ドイツは商業的 なヤシ栽培やアンガウル島のリン鉱石の採掘を導入した。
 
日本による委任統治(1914-1945)
 第1次世界大戦の開戦に伴い日本はドイツに宣戦布告して1914年に独領ミクロネシアを占領し、 1920年には国連による委任統治が認められた。
 日本はミクロネシア地域を統治する南洋庁の本庁をパラオのコロールに置き日本人の入植を進めた結果、1935年のパラオの日本人人口は25,760 人に達した。
 パイナップル栽培やカツオ節工場、アンガウルのリン鉱石採掘などによって、パラ オは日本時代にミクロネシアの首都として飛躍的に発展したが、太平洋戦争末期に激戦地となり、 戦後日本人入植者のほとんどが引き揚げたため、こうした殖産興業の努力は灰燼に帰してしまっ た。!

米国による委任統治(1945-1994)  
 1945 年の第二次世界大戦終了後米軍がパラオを占領し、1947 年からパラオは、マーシャル、ミク ロネシア、北マリアナとともに、米国を施政権者とする国連の太平洋諸島信託統治領の一部を構 成した。ミクロネシア地域独立の動きが強まる中、パラオは単独で独立する道を選択し、1981年 にパラオ憲法を発布して自治政府を発足させた。パラオ独立の条件とされた米国との自由連合 盟約(コンパクト,!Compact!of!Free!Association!with!the!USA)の締結は、憲法の非核条項と抵触したため住民投票で7回否決され、独立が他のミクロネシア諸国より大幅に遅れた。憲法修正の末、 1993年の 8回目の投票でコンパクト締結が承認され、1994年 10月 1日に独立を果たし、国連に 加盟した。!
 
独立後(1994ー)
 パラオは憲法の非核条項にこだわったことで独立が遅れたことからもわかるように、国民の環境 意識が高く、環境政策において急進的である。
 パラオ憲法の非核条項は、同じミクロネシアにあ るビキニ環礁で1946年から 58年までにわたって繰り返された米国の核実験に対するパラオ国 民の感情を率直に反映していると言われる。
 パラオが委任統治領だった1980年代に導入された漁業振興策が乱獲を引き起こし、1994年の独 立前後のパラオでは密漁やダイナマイトフィッシングなどの違法操業が横行していた。
 パラオ 社会には酋長の決定によって産卵場所などの一定の海域での漁を禁止する「ブル(Bul)」と呼 ばれる伝統的な禁漁制度があり!、当時は乱獲を抑制する法律が存在しなかったため、1994年にカ ヤンゲルとガラロン州で「ブル」が宣言された。
 同年にNGOパラオ保全協会(PCS:!Palau!Conservation! Society)が設立され、海洋保護法(Marine!Conservation!Act)が制定されるなど、パラオは独立と 同時に環境立国へ向けて大きく舵を切った。
 

もっと知りたい「パラオ」

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2018/06/11 南太平洋の楽園・タヒチ島の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2011.05.02~05.07)


 旅程マップ         モーレア島・トアテアの展望台から! タヒチ島・アラフラフのマラエ! 色鮮やかなブーゲンビリアの花!



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タヒチ島の概要

<概要>
 オーストラリアの東7000km、南太平洋中央部の広大な海域に、5つの群島に118といわれる島々が点在し、これらをあわせて「フランス領ポリネシア」といいます。
 日本からは約9500km離れています。
 タヒチ島は、この中のソシエテ諸島 (Society Islands) にある中心となる島で、美しい海や森の緑など、その自然景観から「最後の楽園」と言われています。
 タヒチ島を含め、周辺の島々はすべて珊瑚礁で囲まれ、モーレア島やボラボラ島、タハア島やライアテア島のように島の外側に環礁を形成して、島と環礁の間が波静かなラグーンになっている所も多くあります。
 また北部のツアモツ諸島 (Tuamotu Islands) のランギロア島もスポットの一つで、完全な環礁の上のわずかな陸地が人間の活動場所となっているような島もあります。
 この地域にはもともとポリネシア系の民族が住んでいて、王国を作っていました。
 そこへ、1521年のマゼランの上陸以後、たびたびヨーロッパの航海者たちが探検に訪れ、さらにキリスト教を伝道して人々の信仰を変えていきました。
 1842年、フランスが圧力をかけて、タヒチ女王に保護領となる条約を締結させて、実質的にフランスの植民地になりました。
 1891年から1903年まで、画家ゴーギャンが生涯の最後をこの地で過ごし、1914年には第一次大戦の中でドイツにパペーテが砲撃されています。
 以後、1957年にフランスの海外領に昇格し、1977年に自治権が設定され、自立化の方向に進んでいます。
 さらに、1995年のフランス・シラク大統領のムルロア環礁での核実験再開発表以降、独立への機運が高まっています。
 国際線は、タヒチ島の中心地パペーテに成田空港からの便があります。
 所要時間は11.5時間程度です。
 また、主なリゾートの島へはパペーテから国内線が飛んでいます。
 
<バウンティ号の反乱> 
 1788年にあの有名な「バウンティ号」の反乱事件は発生しました。
 パンの木の苗木採集が目的だったバウンティ号で乗組員フレッチャー・クリスチャンとその仲間はジャマイカに向かう途中で反乱を起こし、それによりウィリアム・ブライ艦長と艦長に忠実な乗組員たちを救命艇に乗せて追放しました。
 その後、オーストラル諸島のツブアイ島に上陸するものの住民に拒否され、やむなく反対派の多くはタヒチで逮捕されました。
 反対派の中でタヒチ島からさらに無人の孤島ピトケアン島へわたった少数は、最後まで逃げのび捕まることはありませんでした。
 この頃から地域全体には商人や流れ者なども立ち寄るようになり、武器や売春、島民が免疫のない伝染病などにより人口は激減しました。
 さらに1797年にイギリスの宣教師団、1838年にフランスのローマン・カトリック宣教師団が入島しました。
 宣教師団は官能的なタヒチアンダンスや土着の宗教を否定し、神殿のマラエを破壊しました。キリスト教の教えにそぐわない事柄すべてに対し禁止され、プライ ドを奪われていったタヒチの人々は、次々とキリスト教化されていき伝統的なポリネシア文化は急激に衰退していきました。
 時期を同じくしてポリネシア人[トゥ]がタヒチ島を中心とした全島征服を開始し、1797年にポマレ王朝を打ち立てポマレ一世として諸島の大半を支配するようになりました。
 しかし、支配下の多くの島を統合するために奮闘していた女王ポマレ4世もフランスの圧力に屈し、1842年にタヒチ、モーレア両島をフランスの保護領とする条約を強制され署名をしてしまいました。
 そして1880年、ポマレ5世はフランスに主権を譲渡し、タヒチはフランスのオセアニアにおける初めての植民地となりました。
 
<フランスによる核実験>
 フランスの植民地となったタヒチは、急速な商業化が進み、フランス領ポリネシアの経済を支える重要産業地となりました。
 しかし、フランスが核実験を行って いたアルジェリアのサハラ砂漠が、アルジェリアの独立によって使用できなくなったため、新たな核実験場が必要になりました。
 そして1963年、当時のフランス大統領であったド・ゴール将軍はツアモツ諸島 にあるムルロア 珊瑚とファンガタウファ という小さな環礁群を新たな核実験場にすると発表しました。
 こうして太平洋実験センターが誕生し核実験は開始されるものの、フランスは世界各国から非難され、1981年になって実験は地下で行われるようになりました。
 1995年に、ジャック・シラク大統領は地下核実験を新たに実施すると発表。世界中から抗議や非難の声が上がり、タヒチ島の首都パペーテでは抗議集会がこ れまでにない大規模な暴動に発展。実験は1996年1月まで行われましたが、フランス政府が核実験の終了を宣言して終了しました。

 

もっと知りたい「タヒチ島」

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2018/05/21 西アフリカ8カ国の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2010.11.04~11.21)


 旅程マップ       世界遺産・ジェンネの大モスク&月曜市!頭上に物を載せ歩く女たち! サンガの村の一風景!



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西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)概要

1.名称(西アフリカ諸国経済共同体)

2. 設立経緯及び沿革
 1963年:「西アフリカ産業協力ラゴス会議」(国連アフリカ経済委員会(ECA)後援)において,西アフリカ地域
     経済協力のための常設機関設立に向けた,暫定機関設立につき合意。
 1968年:共同市場を目指した西アフリカ地域グループ結成(しかし経済共同体設立構想は,その後,ナイジェリア
     内戦等により進展が遅れた)。
 1975年5月28日:西アフリカ諸国経済共同体設立協定正式合意(於:ラゴス)。

3. 設立目的及び任務
 1975年(設立当初):西アフリカの域内経済統合を推進する準地域機関
    ・持続的経済開発のための基盤整備
    ・地域内の関税障壁の撤廃
    ・域内・域外貿易の促進等
 
 1981年:「防衛相互援助に関する議定書」調印
    ・防衛・紛争解決機能等を備える
     (経済統合の基盤となる,政治的安定の確保を目指す)
 1998年:「紛争予防・管理・解決・平和維持・安全保障メカニズム」規約採択
    ・安全保障機能の本格的整備に着手

4. 加盟・脱退
 原加盟国は西アフリカ15カ国。現在の加盟国15カ国(ベナン,ブルキナファソ,カーボヴェルデ,コートジボワール,ガンビア,ガーナ,ギニア,ギニアビサウ,リベリア,マリ,ニジェール,ナイジェリア,セネガル,シエラレオネ,トーゴ)。
 (注)カーボ・ベルデが新規加盟(1977年)。モーリタニアが通貨統合等に反対して脱退(2000年12月)。
 

もっと知りたい「西アフリカ8カ国」

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2018/04/30 パプアニューギニアの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2010.06.09~06.19)


 旅程マップ         マウントハーゲンのカルチャーショー!   歴代村長やご先祖の遺骸! キミサベ村訪問と泥人間踊り!



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パプアニューギニアの概要

<概要>
 パプアニューギニアは、太平洋に点在する22ヶ国の中で最大の、560万人の人口を有し、800もの言語が話されている多民族国家です。
 約46万3,000平方キロメートルに複雑な地形が広がるこの国は、自然災害の影響を受けやすく、この10年だけでも地震、津波、火山噴火、洪水、干ばつ、冷害など、死者や国内避難民をだしたり、耕作物や家畜など生活の糧を破壊されたり、また保健や教育といった社会サービスを崩壊させる災害に見舞われています。
 パプアニューギニアは、2000年にポリオ根絶を宣言しました。
 しかしながら、予防接種の普及率はこの10年滞っており、1歳未満の乳児の半数しかポリオとはしかの予防接種を受けられていず、また破傷風トキソイド予防接種を受けられる妊婦は44%に留まっています。はしか、肺炎、下痢といった予防できる病気が、この国ではまだまだ疾病率や死亡率の主な原因になっています。
 また、妊婦ケアが普及していなかったり、出産に助産師が立ち会うことが少ないため、分娩における母子の危険が増加しています。
 安全な水や衛生的なトイレを使える人も、いまだ都市部に限られています。
 
<パプアニューギニアの歴史> 
 パプアニューギニアでは、およそ5万年前に存在したと思われる人類の痕跡が発見されてます。
 発見された先住民族は、およそ5万年から7万年前のアフリカ人を起源とする東南アジア人だと推測されています。
 ニューギニア(以前の名称)は、アフリカ大陸とユーラシア大陸に現代人が居住後、次に人類が居住した陸地の一つと言われ、オーストラリアと同時期に人類の居住が始まったと言われています。
 
 紀元前7,000年頃よりニューギニアの高地で農業が独自に開発され、独自の農作物が栽培されたと考えられています。
 およそ2,500年前、海岸地域に多くのオーストロネシア語圏の人々が移住し、陶器作り、養豚、および独自の漁業技術を広めました。
 また、およそ300年前にさつまいもがニューギニアに入ってからは、収穫量が増え、伝統的な農業も変革をとげました。
 これにより、さつまいもがそれまでの定番であったタロイモの生産量をはるかに超え、高地の人口も大幅に増加しました。
 
 16世紀初頭、南太平洋を航海中に最初にパプアニューギニアを発見したヨーロッパ人は、ポルトガル人とスペイン人と言われています。
 1526-27年頃、ポルトガル人のドン・ジョルジェ・デ・メネセスがパプアニューギニアの主となる島を発見しました。
 その後約170年間、ヨーロッパ人の航海士がパプアニューギニアの島々を探検しましたが、19世紀後期に至るまでパプアニューギニア人についてほとんど知られることはありませんでした。
 
入植時代 – ニューギニア
 1884年、国の北半分はドイツの支配下となり、ドイツ領ニューギニアと呼ばれるようになりました。
 ヨーロッパでココナッツ油のニーズが高まるにつれ、当時、太平洋地域で最大の貿易会社であったハンブルグのゴドフロア社は、ニューギニア諸島でのコプラの取引を開始しました。
 1884年、ドイツは正式にニューギニア島の東北部の統治をすることになりました。
 そして1899年、ドイツ帝国政府は領土を直接統治することになり、ドイツ領ニューギニアとして知られるようになりました。
 1914年、オーストラリア軍は、ドイツ領ニューギニアを占領し、その後1921年までオーストラリア軍により統治されました。
 
 1920年、英国政府が、オーストラリア連邦に代わって、国際連盟よりニューギニア領土を委任統治する権利を受けました。
 その後1941年12月に日本軍が侵略したことでオーストラリアの統治は途絶されました。
 1945年に日本が降伏すると、パプアとニューギニアの民政が復元され、パプアニューギニア行政法により、1945年から1946年にかけてパプアとニューギニアは統合され、パプアニューギニアが誕生しました。
 
パプア
 1884年11月6日、ニューギニアの南沿岸エリア(パプアと称されるエリア)とその近隣諸島はイギリスの保護領であると宣言されて、1888年9月4日にイギリス領ニューギニアと呼ばれる保護領が完全統合されました。
 そして1902年にはオーストラリア連邦の支配下に置かれました。
 1905年にパプア法が成立し、イギリス領ニューギニアはパプアという領土となり、1906年より正式にオーストラリアの統治が始まりました。
 
 1941年に日本が島の北部に侵攻しポートモレスビーに前進し始め、それまでパプアはパプア法の下で行政管理されていましたが、民政が途絶しました。
 第ニ次大戦中はパプアはダグラス・マッカーサー最高司令官が司令部本部を置いたポートモレスビーから軍事政権で支配されました。
 前述したように、日本の降伏後、1945年から1946年にかけて、パプアとニューギニアが統合し、パプアニューギニアが誕生しました。
 
パプアニューギニアの植民地時代
 第一次世界大戦中、パプアニューギニアはオーストラリアに占領され、イギリス領ニューギニアと呼ばれていた南部地域が1904年にパプアとして再命名されました。
 第一次世界大戦後、オーストラリアは国際連盟によって、旧ドイツ領ニューギニアを統治する権限を与えられました。
 一方パプアは1975年以降法的にはイギリスの領土とされていましたが、オーストラリア連邦の外部領土と見なされていたため、1975年の独立以降の法体系に大きな問題を残しました。
 上記の違いの為、法的にはパプアもニューギニアも同じオーストラリアの統治下であるのに変わりはありませんでしたが、パプアとニューギニアは完全に別々の行政が行われるという状況になりました。
 
 ニューギニアの戦い(1942年-1945年)は、第二次世界大戦の主な戦いの一つでした。
 約216,000人もの日本、オーストラリア、アメリカ合衆国の兵士、水兵、航空兵がこの大戦中、戦死しました。
 第二次世界大戦後、パプアとニューギニアの二つの領土は統合され、後にパプアニューギニアと呼ばれるようになりました。
 パプアの行政は国連の監督下のもと、オーストラリアに委託統治されました。
 
 その後1975年にパプアニューギニア独立国として独立を果たしました。
 
 


もっと知りたい「パプアニューギニア」

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2018/04/09 中米7カ国の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2010.03.07~03.23)


 旅程マップ         世界遺産・ティカル遺跡!  マヤの遺跡に住む動物!  マヤの先住民・チチカステナンゴ

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中米7カ国の概要

<グアテマラの概要>
 国土面積 108,889k ㎡(日本の約 3.5 分の 1)、人口約 1,436 万人(出典:2010 年国立統計院推計、中米 5 か国 中大)を有し、国民の約 38.4%を先住民族が占めるグアテマラ共和国においては、長年にわたり軍事政権が続 いていたが、1985 年の民主的選挙により 1986 年に 16 年ぶりに民政移管が実現した。
 また、1996 年 12 月にア ルスー大統領(現グアテマラ市長)は、反政府ゲリラ(グアテマラ国民革命連合)との間で「終和平協定」 に署名し、36 年間にわたり継続した中米長の内戦に終止符が打たれた。
 2007 年のグアテマラの人間開発指数は 182 か国中 122 位であり、中南米地域においてハイチ、ニカラグアに 次いで低い。
 また、貧困率は 51.0%、極貧率は 15.2%であり、中でも農村地域における貧困率は 70.5%、極貧率 は 24.4%、さらに、先住民族のうち 74.8%は貧困層、27.2%は極貧層に属し、貧困率及び極貧率の地域・民族間格 差は依然として大きい。
 2008 年 1 月に就任したコロン大統領は、「連帯」、「ガバナビリティ」、「生産性」及び「外交」の四つを柱と する政権の基本方針をもとに、特に貧困層や先住民等の「持たざる者」がより裨益するような施策を優先に実 行している。
 さらに、極貧世帯の児童の教育及び保健サービスへのアクセス向上を目的とした「条件付支援金 交付制度(Mi Familia Progresa)」、青少年の非行防止等を目的として週末に校舎を開放し文化・芸術・スポーツ 活動を奨励する「青少年児童センター(Escuelas Abiertas)」、そのほか「基礎的食糧配給プログラム(Bolsas Solidarias)」、「貧困者用給食施設プログラム(Programa de Comedores Solidarios)」等の貧困者・地方農村地域に 重点を置いた新たな社会福祉プログラムを大統領夫人の主導のもと推進し、貧困撲滅及び格差是正に努めてい る。
 現在、コロン政権は、大の輸出相手国である米国向けの輸出の停滞、税収の減少、米国からの海外移民送 金及び観光収入の減少等の影響を受け低迷している国内経済の活性化に向け、経済危機対策緊急国家計画の実 施および財政の適化に努めており、優先事項として、雇用対策(農村開発プログラム、公共インフラ事業、 中小零細企業支援プロジェクト、エネルギー関連プロジェクト等の推進)、社会的セーフティーネットの整備(条 件付支援金交付制度等)及び財政の透明性確保を挙げている。
 税収不足等により国家予算の確保が困難な状況 に対しては、同予算の縮小は行わず、国家予算の組み替え及び国債の発行により対処している。 
 
<ベリーズの概要>
 ベリーズは、グアテマラが領有権を主張したため他のカリブ英語圏植民地よりも若干遅れて 1981 年に英国から の独立を達成した。
 1998 年に成立した人民連合党(PUP:People’s United Party)のムサ内閣は長期政権として、鈍 化した経済の改善、急増した中米難民への対応等に取り組んできたが、積極財政政策の推進に伴って対外債務が 急増し、政府の財政運営やその他行政に対する国民の不満が高まり、2008 年 2 月の総選挙で民主連合党(UDP: United Democratic Party)が大方の予想どおりに勝利し、10 年ぶりの政権交代となった。
 新首相はディーン・バー ロウ氏である。これまでベリーズは、国連中心の外交を展開してきており、また、英連邦の一員及び CARICOM 加盟国として、伝統的に英国及びカリブ諸国とは緊密な関係を有してきたが、2001 年には SICA にも正式加盟し、 中米諸国との関係をも重視した外交を展開している。かかる方向性は新政権の下でも維持されている。
 ベリーズの経済規模は小さく、2007 年の GDP(名目:世界銀行)は 11 億ドルである。
 基本的に農業国であり、 農業は最も多くの国民が従事している産業であるが、近年では観光業の発展がめざましく、外貨収入源としては 農業を超えて第 1 位になっている。
 輸出は柑橘ジュース、エビ等海産物、サトウキビ等で、主な輸出先は米国、 英国、カリコム諸国等。2006 年には、内陸部に油田が発見され、採掘を開始。ベリーズにとっては重要な新産業 になっている。
 2007 年は、サービス、石油業は伸びたものの、エビ養殖業の業績が悪化したこと、8 月にベリー ズ北部を襲ったハリケーン・ディーンの影響等の原因から、年間 GDP 成長率は 3%にとどまった。前政府の積極 財政・金融政策の結果膨らんだ債務が GDP 比約 92%(2006 年末)に及んでおり、深刻な問題となっている。

<エル・サルバドルの概要>
 エルサルバドル共和国は中米諸国の中で最も国土面積が小さく、人口密度は中南米で一番高く(316人 /km2)、また自然資源の乏しい国である。
 また、79年以降、90年代初頭にかけてゲリラ勢力(主に80年代に団 結したファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN))と政府軍との間で激しい内戦が続き、エルサルバド ル国の治安情勢の悪化が顕著になった。
 かかる状況下において我が国は、大使館機能及び経済協力規模を縮小 した経緯がある。
 しかし、92年1月、クリスティアーニ政権下において和平合意/内戦終結が成立したことを受け、我が国は同 年に館員常駐を再開、93年より常駐大使を派遣すると共に、経済協力についても「復興」を中心とした支援を 再開、当国の和平プロセスも、国連の監視・検証の下、順調に履行されてきている。
 特に 95年に「国連エル サルバドル監視団(ONUSAL)」、96年には「和平合意完遂のための国連ミッション(MINUSAL)」が派遣され、 内外より国連平和維持活動の成功例として高い評価を得た。
 我が国も国際平和協力法の下、94年の大統領選挙・ 総選挙にあたり、延べ30名の選挙監視団を派遣している。
 そして98年、ガルデロン政権時に、和平合意を完全 履行する旨宣言された。
 04年3月の大統領選挙においては、若く清心なイメージを持ち、「安全な国」を政策目標に掲げた国民共和同 盟(ARENA:与党)のエリアス・アントニオ・サカ大統領候補が圧勝し、同年6月より大統領(任期5年)に 就任した。

<ホンジュラスの概要>
 ホンジュラスは北米大陸と南米大陸を結ぶ中米地峡に位置する日本のおよそ3分の1ほどの小さな国で(隣国はグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア)、この地域の最も貧しい国のひとつに数えられています。
 国を支える主要産業(主にコーヒーとバナナ)が脆弱な上、数世紀に及ぶ欧州列強による植民地統治に端を発する搾取的社会と文化の形成により激しい貧富の格差が存在し、多くの国民が深刻な貧困に喘いでいます。
 また汚職による政治腐敗が著しく政府はその責務を果たさず、更に麻薬犯罪組織の暗躍と警察組織の退廃により極めて治安が悪く、日々暴力と犯罪が絶えません。
 社会福祉はほとんど提供されず医療レベルも極めて低く、また教育システムも必要な機能を果たしていません。
 これらの現実を生きるホンジュラス国民は明日への希望を持つことが極めて困難です。

<ニカラグアの概要>
ニカラグア手話
 ニカラグア手話は、ニカラグア・マナグアの聴覚障害を持つ児童たちによって生み出された。手話は年月と共に年少者へ受け継がれ、進化・複雑化していっており、80年代前半までの初期のものをLSN、80年代後半のものをISN、と呼称する。また、聴覚障害者と健常者の間での手話をPSNと呼ぶ。
 ISNはLSNに比べ、使用空間が小さくなり、口の動きを伴うものが減少している特徴がある。
歴史
 1979年のサンディニスタ革命以前のニカラグアには聴覚障害者社会と呼べるものはなく、聴覚障害者は家庭などで孤立し手真似で家族らと最低限のコミュニケーションをとる程度だった。革命の直前の1977年に最初の聾学校がマナグア近郊に50人ほどの規模で誕生し、革命の年には生徒数は100人程度にまで増えていた。
 サンディニスタ革命により誕生した新政府の政策のひとつとして掲げられた「識字率の向上」をきっかけとして、1983年、首都マナグアの2つの全寮制の学校に聴覚障害を持つ思春期の少年少女約400人が集められた[1]。
 児童が、それまで家庭内において必要最低限の事項を伝達するために用いていたパントマイム的な手真似(ホームサイン)は、スペイン語でものまねを意味するミミカス(mimicas)と呼ばれていた[3]。マナグアに集められた彼らは、こうした独自の手真似を用い、他の児童とのコミュニケーションを図り、手真似の中からいくつかの原始的なピジン言語が誕生した。
 新政府が作った学校ではソ連の影響を受けた聴覚障害者教育を行っていた。この学校では本来、手話を教えてはおらず、主にスペイン語を用いた指文字と読唇術による教育手法を採用していたが[1]、単語や文字という概念を持たなかった彼らのコミュニケーション生成に全く影響を与えず[3][4]、彼らに対するスペイン語教育は成果を収めず挫折した。しかし生徒たちは校庭や道端、農場との行き帰りのバスなどでミミカスを組み合わせたピジン言語を急速に発展させ、第一段階といえるLSN(Lenguaje de Signos Nicaragüense)が誕生した。
 学校の教師たちが目撃したこの謎めいた意思伝達手法の正体を確認するため、ニカラグア教育省は1986年、南メーン大学(英語版)の手話言語学者ジュディ・ケーグル(英語版)を招聘し、現地へと派遣した[1]。ケーグルは児童たちが使用している手話言語の糸口を探るため、チェコの有名な漫画『Mr.Koumal』を聞かせ、その文法を探る方法を試みた。これにより、ケーグルは年長者の使用する手話よりも年少者の使用する手話が明らかに複雑であり、ニュアンスに富んでいる、クレオール化が発生していることを発見した[1][4]。最初の在校生たちは各家庭での手真似をすり合わせて初歩的なピジン言語を作り出したが、そのあとから入学した5、6歳の子供たちが先輩らからピジン言語を習い、はるかに複雑で洗練された言語へと進化させたのである[3]。
 年長の生徒の使うLSNに対しISN(ニカラグア手話、Idioma de Signos Nicaragüense)と名づけられたこの明らかに系統立った言語の発見は、「人間が言語を生み出すための能力は、生得的である」というノーム・チョムスキーをはじめとする言語学者達の意見(「言語獲得装置」仮説)を裏付ける画期的なものとなった[3]。それまでは異なる言語の接触からクレオール言語が発生するありさまが研究されてきたが、ホームサインと手真似以外のコミュニケーション手段がない無の状態から言語が発生したニカラグア手話は稀有な事例といえる。
 ニカラグア手話は聾学校を通じて若い世代にも伝わり、その発展は以後も続いている。ケーグルらは、生徒たちに他の手話(特にアメリカ手話)を教えないようにしながら、この孤立言語が発達するさまを観察し続けた。ケーグルらが主導し、1995年からブルーフィールズ(英語版)やコンデガ(英語版)など、別の町の学校へもこのニカラグア手話を浸透させようというプロジェクトが開始された[1]。

<コスタリカの概要>
 コスタリカ共和国は北米大陸と南米大陸のほぼ中間に位 置し、面積は四国と九州を合わせた程の大きさです。
 その国土は太平洋とカリブ海に無数の美しいビーチを持ち、中央には優美な姿の火山の連なる山脈が走っています。
 変化に富んだ地形に恵まれたコスタリカの熱帯雨林や海、川には豊かで多彩 な動植物が育まれ、世界の5%の動物種、鳥類にいたっては世界の10%の種が生息。
 世界中のバードウオッチャーの憧れの地と呼ばれています。
 国と国民が一体となって守ってきたこの自然保護先進国はエコツーリズム発祥の地として広く知られ、世界中から多くの観光客が訪れています。
 またこの国は平和憲法を掲げ、日本とともに軍隊を持たない国でもあります。その反面、教育には国家予算の22%をさき、中米随一の教育レベルを保っています。
 また、近年ペンシオナード政策(年金生活の外国人に居住ビザを与える)に力を入れ、中南米にあっては比較的治安の良いこともあってアメリカや日本からの移住者が増加しています。
 コスタリカには現在約350人の日本人が生活し、日本人経営の高級ホテルや和食店、スーパーマーケットなどとともに地域に根付いています。
 日本人のほとんどは首都のサンホセかその周辺に居住していますが、年間を通 して半袖で過ごせる(年間平均気温24度)快適な環境にあります。

<パナマの概要>
 首都はパナマ・シティー、日本との時差は、−14時間(GMT-5)日本より14時間遅れ
 面積は、75,517 Km2
 国土は、山脈によって2つに分けられています。
 一方は熱帯雨林に覆われた大西洋側、もう一方は太平洋側になります。東部の北東アーチと呼ばれる弓 形にそった地形の部分にはサンブラス山脈が走り、南東部の弓形の部分(アーチ)にはコロンビア山脈が連なっています。とはいえ、標高1000メートルを超える山はごくわずかしかありません。
 最も高い山は標高3475メートルのバルー火山です。
 気候は、沿岸部は暖かく雨量が多く、山岳地帯は過ごしやすい気候で雨が多く降ります。
 年間平均気温は沿岸部で29℃(84F)、山岳地帯では18℃ (64F)。季節は大きく2つに分かれており、雨期(冬)が5月から12月、乾期(夏)が1月から4月。大西洋沿岸の年間降雨量は3270ミリ(129イ ンチ)、太平洋側は1750ミリ(69インチ)。

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2018/03/19 ナミビアと南アフリカの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2009.08.19~09.02)


 旅程マップ        神々の花園・ナマクワランド!  孤高のヒンバ族!    フィッシュリバ・キャニオン


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南アフリカの概要

<概観>
◎アフリカ及び開発途上国のニューリーダー
 1991年のアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃と94年の民主政権の発足により、南アフリカは、対話による人種対立解決と融和の象徴の国とされている。
 ムベキ前大統領はアフリカ自らの力で紛争、貧困、独裁、汚職などの問題を克服しようとする「アフリカの新しい流れ」を代表する指導者として知られ、途上国と先進国との間の「南北の架け橋」としての役割を積極的に追求した。同大統領は、九州・沖縄サミット(2000年)以降の毎年すべてのG8サミットに参加。2009年4月に民主化後4回目となる総選挙が実施され、ズマANC総裁が新大統領に選出された。
 
◎温暖な気候と豊かな自然
 アフリカ大陸の最南端、インド洋と大西洋を結ぶ要衝の地に位置する。太陽の国と言われるほど年間を通じて晴天の日が多く、全体的に気候は温暖。また、2000m級の山脈、砂漠と森林、高原と平野など多様な地形と気候を反映して、動植物の宝庫でもある。自然や文化遺跡も豊かであり、「スタークフォンテン・スワークランズ・クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群(アウストラロピテクスなどの人類化石が発見された遺跡群)」、及びロベン島(ケープタウン沖にあるアパルトヘイト時代の刑務所島)などの文化遺産、「グレーター・セントルシア湿地公園」、「ケープ植物区系の保護地域群」などの自然遺産等、計7カ所が世界遺産に指定されている。

◎七色の国民
 広い国土と複雑な歴史により、黒人(ズールー族、コーザ族、ソト族、ツワナ族等)、白人(オランダ系、イギリス系等)、カラード(混血)、アジア系(インド人等)で構成されている。アパルトヘイトという苦難の歴史を克服し、復讐ではなく和解を追求した南アの国民は、敬意をもって「七色の国民(レインボー・ネイション)」と呼ばれている。
 
◎アフリカ最大の経済大国
 群を抜いたアフリカの経済大国であり、サハラ以南アフリカ地域諸国のGDPの約4割を占める。わが国と南アとの貿易額はわが国と同地域の貿易額の約5割、直接投資額は同地域(リベリアを除く)の約7割を占める。豊富な天然資源を有し、特に金、クロム鉱、白金(プラチナ)、バナジウム等の生産量、埋蔵量は世界上位に位置する。

<歴史>
◎英国からの独立、アパルトヘイト
 17世紀半ばからオランダ、19世紀前半からは英国の植民地となる。
 1910年、南アフリカ連邦として独立したが、白人政権は黒人の政治的・社会的・経済的権利を剥奪するアパルトヘイト(人種隔離政策)を実施し、国際社会から厳しい非難を浴びた。
 国連では69年にアパルトヘイト政策を非難する総会決議が採択され、各種安保理決議により武器等の禁輸や人的交流の禁止などがなされた。 

◎民主的政権の発足
 1990年以降、デ・クラーク大統領(当時)の下でアパルトヘイト撤廃に向けた国内改革が進展し、94年4月に初の全人種参加による総選挙が行われた結果、アフリカ民族会議(ANC)総裁として反アパルトヘイト運動を主導したネルソン・マンデラを大統領とする民主政権が発足した。旧白人政権時代には、弾圧とテロが頻発し、民主化前夜には「内戦は不可避」とまで言われたが、マンデラ大統領の国民和解路線の下で情勢は安定した。99年6月には二度目の総選挙が行われ、ANCから後継者として指名されたムベキ大統領が選出された(04年4月の三度目の総選挙で再任)。その後、09年4月に四度目の総選挙が実施され、現在はズマ大統領が政権を担っている。
 
◎混迷する政局
 南アの国際的地位の向上並びに着実な経済成長を成し遂げたムベキ政権であったが、07年12月のANC全国大会での総裁選でジェイコブ・ズマ副総裁が新総裁に選出されたのを契機としてムベキ大統領の党内での影響力は急激に低下、そして、汚職容疑でのズマ副総裁に対する起訴プロセスにムベキ政権の政治的圧力があったとする司法判断を背景にANC執行部は同大統領の解任を決定し、08年9月、ムベキ大統領は辞任した。ムベキ大統領の辞任は、ANC新執行部の党の運営振りに不満を抱くANC幹部の離党、新党(国民会議:COPE)結成にまで発展し、ANCが分裂する事態となった。09年4月にに民主化後4度目となる総選挙が実施され、与党ANCが約66%の得票率で勝利し、ズマANC総裁が新大統領に選出された。


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2018/02/28 ヴァヌアツとニューカレドニアの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2009.05.13~05.20)


 旅程マップ         ヤスール火山の噴火!   イル・デ・パン島     ホテル ル・メリディアンの風景!


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ニューカレドニアの概要

<ニューカレドニア>
 ニューカレドニア(フランス語: Nouvelle-Calédonie)は、ニューカレドニア島(フランス語でグランドテール Grande Terre、「本土」と呼ばれる)およびロイヤルティ諸島(ロワイヨテ諸島)からなるフランスの海外領土(collectivité sui generis、特別共同体)である。
 ニッケルを産出する鉱業の島である一方、リゾート地でもある。ニューカレドニアの珊瑚礁は世界遺産に登録されている。
 
<概要>
 オーストラリア東方の島で、南太平洋のメラネシア地域にあり、面積は1万8575.5km²(四国ほどの大きさ)である。
 フランス語ではヌーヴェルカレドニー (Nouvelle-Calédonie) と呼び、ニューカレドニアは英語: New Caledoniaから来ている(Caledoniaはスコットランドのラテン語名なので、新スコットランドとなる。ノヴァ・スコシアとは関係ないので注意)。現地語ではカナキー (Kanaky) とも呼ばれる。
 人口は2016年の調査では27万5355人。政庁所在地で人口最大の都市はヌーメア(2014年の人口は9万9926人[2])。
 インターネットの国別コードトップレベルドメインは「.nc」。通貨はウォリス・フツナ、フランス領ポリネシアと共にCFPフランを使用している。主都ヌーメアは、太平洋地域の地域協力機構、太平洋共同体の本部所在地である。
 1985年以降、メラネシア系先住民カナックによる激しい独立運動が行われ、現在では沈静化したが一時は暴動や内戦に近い状態を呈していた。1986年、国連非植民地化委員会 (United Nations Committee on Decolonization) はニューカレドニアを国連非自治地域リストに掲載した。ニューカレドニアは1998年のヌーメア協定で、2014年~2018年の間に行われる国民投票によってフランスにとどまるか独立国になるかを決定することになっている。
 
<地名>
 「カレドニア」とは、今日のスコットランドにあたる地域を指すラテン語名である。一方、カナキー (Kanaky) という名もフランス語、英語、現地の先住民であるカナックの言葉では一般的に使われており、メラネシア民族主義者の間では「ヌーヴェルカレドニー」より「カナキー」のほうが好まれる。
 カナキーという名は、ポリネシア語で「人間」を意味し、ポリネシア人の自称として使われる「カナカ (kanaka) 」から来ている。 カナカという語は後に、フランス人がポリネシア・メラネシアを含めた全ての太平洋先住民を指して使う言葉になった。一方、フランス語化したカナク (Canaque) は侮蔑語として使われていた[3]。
 1960年代から1970年代にかけ、ニューカレドニアのメラネシア系先住民が政党を結成し独立への訴えを開始したとき、侮蔑語だったカナクはメラネシア人の政治的解放と民族の誇りのシンボル的な言葉となった。1983年、政治的混乱がニューカレドニアを襲った時期、カナク (KANAK) とカナキーは政治的な標語となり、カナクという語が政治的主張の強い言葉へと変わったことが広く認識されるようになった。
 
<歴史>
  1774年にキャプテン・クックによって「発見」され、1853年にフランス領となっている。当初は流刑植民地だったが、19世紀後半のニッケル発見後は鉱業の島となった。20世紀後半には独立闘争で島が揺れ、1998年のヌーメア協定で将来に関する合意がなされた。
・先住民族
 西太平洋に人が住み始めたのは5万年前であった。その後パプア諸語の民族がメラネシアに拡散した。他にも、ラピタ人 (Lapita) がメラネシアの島々に移り住んでいる。紀元前1500年、ラピタ人たちは現在のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島に到達し、高度な航海術や農業、土器作りは太平洋の広い範囲に影響を及ぼした。その土器などの痕跡は今もニューカレドニアに残るほか、彼らの前に住んでいた民族による1万年前のペトログリフ(岩刻)も残っている。
 その後、オーストロネシア語族が台湾などを起点にオセアニアに進出している。11世紀ごろ、オーストロネシア語族のポリネシア人がニューカレドニアに到達し、パプア系などの先住民族と混血した。
 ニューカレドニアのメラネシア人は、27のメラネシア系言語とウォリス・フツナ人よりもたらされたポリネシア系言語、合わせて28の言語を有している。その共同体社会は、クラン(clan、氏族)を基本単位にして細分化している。実際の居住は、いくつかのクランが集まり集団(tribu)を構成している。これらの集団において首長権限に違いが出ている。たとえば首島のグランド・テール(Grande Terre)では首長権限は緩やかだが、ウベア、リフー、マレなどのロイヤルティ諸島では、首長支配が強い[4]。
・ヨーロッパ人到達
 ヨーロッパ人のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島到達は18世紀後半のことだった。イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック)が1774年、海上からニューカレドニア本島(グランドテール島)を「発見」し、山の多いスコットランド(カレドニア)を思わせる眺めからニューカレドニアと名づけた。同じ航海で、彼はニューカレドニア北方の島にニューヘブリデス諸島(現在のバヌアツ)と名づけている。
・ニューカレドニアの地図、1888年
 イギリスとアメリカ合衆国の捕鯨業者および白檀(サンダルウッド)貿易商がニューカレドニアに関心を示すようになり、ヨーロッパ人と先住民との間に緊張が高まった。ヨーロッパ人の先住民への接触も次第に不正直なものとなり、高慢な態度と詐欺が横行するようになった。英米人はアルコールやタバコを物々交換の品物に混ぜ、先住民を中毒にした。またヨーロッパ人との接触で天然痘、インフルエンザなどさまざまな疫病が先住民の間に蔓延し多くの人々が死んだ。緊張は敵意に変わり、1849年にはカッター号の船員がポウマ族 (Pouma) に殺され、食べられる事件が起きた。
 白檀貿易が衰退すると、新たな商売が誕生した。ニューカレドニア、ロイヤルティ諸島、バヌアツ、パプアニューギニア、ソロモン諸島などで先住民を捕らえ、フィジーやクイーンズランドのサトウキビプランテーションで奴隷労働をさせる「ブラックバーディング」である。こうした奴隷貿易で島々の社会や文化は荒廃したが、20世紀初頭まで終わることはなかった。
 カトリックやプロテスタントの宣教師がやってきたのは19世紀である。彼らが先住民の文化に与えた効果は重大なものがあった。宣教師は人々に服を着て肌を隠すように言い張り、多くの風習や伝統を根絶やしにしてしまった。
・フランス領有
 ニューカレドニアは1853年9月24日、イギリスのオーストラリア・ニュージーランド領有に対抗しようとしたナポレオン3世の派遣した提督オーギュスト・フェヴリエ=デポワント(Auguste Febvrier-Despointes)によってフランス領と宣言された。同年9月29日、パン島も領有宣言した。1864年には、ロイヤルティ諸島もフランス植民地として組み込んだ。 イギリスのオーストラリア植民の例に倣い、1854年から1922年までの間、有罪を宣告された重罪犯およそ22,000人が、流刑地とされたニューカレドニア島南西岸地域に送り込まれた。この中には通常の凶悪犯もいれば、パリ・コミューンの共産主義者、アルジェリア北部のカビリアで逮捕されたカビル人民族主義者ら政治犯も数多くいた。
 ニッケル鉱山の発見により流刑植民地の時代が終わり、鉱山労働者の需要が増え、ヨーロッパからの自由意志での移住者(前科者なども含む)や日本人などアジア人契約労働者が多くなった。また鉱山で強制労働をさせられる人数も激増した。同時期、先住のカナク人の人口は疫病や、彼らの生計・移動の自由・土地所有を厳重に制限するアパルトヘイトに似た先住民に対する法制 ("Code de l'Indigénat")によって激減していった。
 ガダルカナルへ出撃する米海軍プレジデント・アダムス号、ニューカレドニアは太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点だった
 第二次世界大戦では、ニューカレドニアは自由フランスの側に付いたため、太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点となった。島にはフランスと違うアメリカの文化や物資が豊富に流入した。この出来事は、フランス人支配下であえいでいた現地人には肯定的に受けとめられている。一方、日本人労働者や日系人は「敵性外国人」としてオーストラリアなどへ強制移送された人や、戦中の交換船により日本へ帰国した者や敗戦まで捕虜として収容された者もいた。
・独立闘争
 1985年、先住民文化復興活動の先頭に立っていたジャン=マリ・チバウ(英語版)率いる社会主義カナック民族解放戦線(fr:Front de libération nationale kanak et socialiste、FLNKS)は独立への扇動を行った。ジャン=マリー・チバウらは独立国家「カナキー」の樹立を主張した。FLNKS指導者の暗殺に端を発してカナックによる暴動が始まり拡大し、ニューカレドニア全土に非常事態宣言が出される事態となった。特に1988年4月22日、独立過激派が27人のフランス国家憲兵隊員と1人の裁判官を人質にとってロイヤルティ諸島ウベア島の洞窟に監禁し、4人を殺害した事件が最大の危機となった。この事件は5月、海軍特殊部隊、GIGN、EPIGNなどによる突入で過激派を殺害することで解決したが、特殊部隊側にも犠牲者が出た。なお、GIGNの隊長が1990年に発表した手記によれば、制圧後に無抵抗だった過激派は暴行・射殺され、その事実をフランス政府は隠蔽したとしている[7]。
 動乱の中、フランス政府は1987年に約束どおり住民投票を行い、翌1988年にマティニョン合意が成立し自治拡大が約束された。合意を結んだジャン=マリー・チバウは独立過激派により1989年に暗殺されてしまいFLNKSは混乱に陥っている。
 この後も自治への運動や協議が行われ、1998年にはヌーメア協定が結ばれた。この協定では住民への権限譲渡プロセスを「不可逆なもの」と位置づけ、フランス市民権とは別の「ニューカレドニア市民権」を導入すること、ニューカレドニアのアイデンティティを表す公的なシンボル(ニューカレドニア「国旗」など)をフランス国旗とは別に制定すること、フランス政府がニューカレドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡し、最終的には外交、国防、司法権、通貨発行以外の権限はニューカレドニアに全面的に譲渡されること、2014年から2018年にかけてのいずれかの時点で独立かフランス残留かの住民投票を行うこと、などが定められた。
 

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2018/02/05 世界遺産・屋久島の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2009.02.21~02.28)


 旅程マップ         樹齢3,000年の紀元杉!   白谷雲水峡の2代大杉!  ヤクスギランド!


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屋久島の概要

 <洋上のアルプス>
九州本土の南端、佐多岬の60Km程南にあって淡路島より少し小さい島ですが、九州一高い1936mの宮之浦岳がそびえる山の島です。海岸からそそり立つ山々は屋久杉をはじめ、さまざまな樹木におおわれており、島の90%が森林です。  サンゴ礁には熱帯魚が遊び、砂浜にはウミガメが産卵に上陸します。それでも、山頂には雪と氷の冬が訪れます。屋久島は亜熱帯の海にそびえる雪山の島なのです。  山々に降る多量の雨と輝く太陽が、豊かな森を育てました。海と山、森と水、そして雨と太陽がひとつになって、表情豊かな屋久島の自然をつくり出しています。  はるか縄文の昔から人々は森に暮らし、黒潮の海に乗り出して生きてきました。あふれる自然は恵みとともに、多量の雨と激しい風をもたらします。屋久島には、激しくも豊かな自然とともに生きる人々の知恵が蓄えられているのです。
 
<屋久杉ってなあに?>
●屋久杉はスギ  屋久島の標高500mを超える山地に自生しているスギを屋久杉と呼んでいます。秋田杉や立山杉、北山杉、魚梁瀬杉などもスギの地域名称です。スギはスギ科スギ属の樹木で、屋久島から青森県の津軽半島にかけて分布している日本の特産種といわれています。  
 屋久杉が育つ森林は、残された最大のスギ群落です。世界遺産登録に際しても、日本の自然景観の重要な要素であり、固有植物であるスギのすぐれた生育地と評価されています。  スギはまっすぐで軽く、加工しやすい木材として縄文時代から利用されてきました。また、御神木や並木などとして親しまれてきた樹木です。  日本人にとって身近であったスギだけに、自然林は多くは残されていません。屋久杉は日本の森林のなりたちを教えてくれる貴重な自然のスギなのです。
●長命な屋久杉 
 スギは5百年余りが平均的な寿命といわれていますが、屋久杉では2千年を超える巨木が見られます。新鮮な水に恵まれながら、栄養が乏しい花崗岩の山地に育つ屋久杉はたいへん成長が遅いスギです。  屋久杉自然館展示の屋久杉は1660年で直径が180cm余りですが、500年のときの直径が40cm程しかありません。日光の杉並木の例では、360年程で150cmを越えるものが多数あります。  ゆっくり育つ屋久杉は材質が緻密で樹脂分が多く、腐りにくいので長生きすると考えられています。成長は遅いのですが、スギとしては長命なの で巨木になるといえるようです。
●屋久杉と小杉 
 屋久島では、およそ1000年を超える杉をとくに「屋久杉」、若い屋久杉を「小杉」と 呼んでいます。  江戸時代には、真っすぐな屋久杉を選んで抜き切りしました。伐採跡の明るい場所に次の世代がたくさん育ちました。切り株更新という現象です。樹齢数百年の「小杉」の多くはこうして誕生したものです。  豊富な日照を得て成長が早いのが特徴で、のびやかなスギらしい姿をしています。
 これに対して1000年を超える「屋久杉」は、人間が手をつける以前に誕生したものといえます。  伐採跡に育った「小杉」に比べて光に恵まれず、 成長が遅く木目が詰まっています。  現在みられる「屋久杉」の多くは凹凸が激しく利用しにくいので切り残されたもので、縄文杉や紀元杉など名のある巨木が代表的な例です。  現在見ることができる屋久杉は、小杉の大群と利用に不適として切り残された異形の巨木ということになります。  

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2018/01/15 羅平の菜の花畑と元陽の棚田の旅


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 (旅行日)  (2009.02.21~02.28)


 旅程マップ         双龍橋           元陽の村の風景!     可愛い部族の子供!


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羅平の菜の花畑と元陽の棚田の旅の概要

 <吉岡範明さんのホームページ「旅いつまでも」より抜粋>

 「羅平の菜の花畑」については写真を見てこれは凄い!と引き込まれた。見渡す限りの黄色いジュータン!是非写真に撮りたいと気持ちが動いた。
 聞けば最近この羅平は菜の花の名所として一躍有名になって中国国内は勿論、海外から多くの写真愛好家が訪れるようになったとか。
 2-3月が花の最盛期で同じ行くならこの時期でなければならない。
 見渡す限りの葉の花風景も平面的な美しさはあるが、金鶏山のようなカルスト地形の中に見る花畑や牛街のように幾何学的模様の花畑など多面的な美しさも素晴らしい。羅平ならではの風景に感動した・・

 「元陽の棚田」については以前から話はよく聞いており、インターネットでもその素晴らしい写真など見ることが出来た。
 こちらも棚田に水が引かれたこの時期が適期である。写真愛好家必見の地である。
 行ってみて驚いた!余りに沢山の観光客!1,000人を越すカメラマン!早朝から夕暮れ時までシャッターを切る音が絶えない。
 認識を新たにしたのが、ただ棚田の風景だけと思っていたが、中々奥が深い!朝日に輝く水面、夕暮れ時に紅色に染まる風景、雲海の下に広がる雄大な景観・・、時間帯や見る角度、天候や季節によって様々な表情を見せてくれる。
 まるで水田が生き物のように光り輝やくのだ。限られた時間の中でどのシーンに出会うことが出来るのか・・天候状況を含めてカメラ運!である。オーロラ撮影と同じようにリピーターが多いことがうなずける。
 写真を撮ることは難しいが楽しい!旅をする楽しさが倍増する・・

 今回は菜の花と棚田だけではなく雲南省に多く住んでいる少数民族の生活を見る機会があってよかった。
 朝市の風景やそれぞれの部族の民家訪問など面白かった。中国全土で55の少数民族がいるがその内雲南省には半数に近い25の部族が住んでいる。
 それぞれが独特の文化や習慣を持って生活していることに興味をひく。
 民族衣装一つを見ても部族それぞれに異なっている。外に出ている時は美しい民族衣装が普段着だという。自分たちの文化に誇りを持っていることが素晴らしい・・。
 面白い少数民族・サニ族の風習を一つ紹介しよう。石林を中心に雲南省最大の少数民族で人口約300万人と云われているが、そのサニ族の帽子は、上部両端に角が2本あよいが、角に触った男は結婚しなければならない!し、結婚したらその地を出ることが許されないと言う。男性はご注意ください!真偽のほどは分からないが変わった話だ・・
 
 中国と一口で云っても一つの中国ではない。56の国と同じ文化があるに等しい。全人口の82%は漢民族であり、大半は同じ一つの文化を持っているが、国(政府)が残りの少数民族を認めていることが素晴らしい。
 それだけ旅行者にとっては面白味が大きくなる。私自身は西部地域の雲南省や四川省や貴州省が大好きである。まだまだ未開発の大自然も多く残っており、また少数民族の文化や素朴さ、純真さに大きく引かれるのである。
 大中国を語るにはまだまだ時間が必要である・・
 
 今回の旅で世界遺産は「石林」のただ一つであった。
 元陽の棚田は現在申請中だそうだが、早晩登録の可能性は大きいだろう。世界に誇れる規模であり、少数民族の長年の手造りによるその光景には感動する。
 さて、世界遺産「石林」はカルスト地形の石柱群で林立する石柱があたかも森のようだという所から名前が付いたようだ。「天造奇観」2007年に世界遺産に登録されている。
 一日の観光客が1万人を越すと云われるほど大人気のスポットである。当日も凄い人で押し合いへし合い割り込みなどでゆっくり見るような雰囲気にはない。
 此処で気になったのは大きな石には文字が彫りこまれていることだ。正面に「石林」と赤字で彫りこまれている。
 この石だけではない彼方此方にも加工がなされているのは如何なものか!自然遺産は自然な状態で保存すべきであり、決して人工的な手を加えてはならないと思うのだが・・。日本人の感覚と中国人の感覚のずれにいささか驚いた・・  
 
 雲南省に来て最初から、少数民族の女性はよく働く!という印象を強くした。畑で働いている人や物を運んでいる人、家畜の世話をしている人など働いている人を見ると殆どが女性である。
 男性は?というと座り込んで、バズカー砲のような大きな竹の筒に顔をくっ付けてなにやらしているのだ。
 後で分かったがこれは煙草を吸っていたのだ。この雲南省で見かける独特な「水煙筒」という吸煙器具である。他では見かけない珍しいものだ。
 大きな竹筒の底には水が入っており、筒の下方に出た雁口に刻み煙草を詰め、火を付けて吸う。薫煙は水の中を通りろ過されて体に優しいマイルドな味になるという。
 上方の筒に口を付けて吸い込むがコツが必要なようだ・・。
 市場に行けばタバコ屋があり、刻み煙草を量り売りしている。まとめ買いしなくても時間制限で色んな煙草が吸えるそうだ。雲南省で見かける独特な煙草の吸い方!であった。 
 
 雲南省の生活情報については前回の旅で触れているので割愛するが、やはり気になるのは一人っ子政策の その後である。
 前回も書いているが1,979年に始まったこの政策は実施後30年を迎えている。この政策には世界から大きな反響があり多くの論議をよんだ。
 世界最大の人口国としては、人口抑制という制度の効果は、1,970年代の出生率5~6%が1,992年に1.84%まで低下していることから認められるが、逆に高齢化率は上がり2,030年には65才以上の老齢人が15%を越す問題を生んだ。
 これら一人っ子政策による様々な問題については改革が迫られているが、その後の一部見直しでは一人っ子同士の結婚では第2子の出産を認めている。
 政府として一人っ子政策を放棄したわけではなく、政策に協力する家庭には奨励策として教育や医療、住宅などへの優遇方針を出している。
 大中国が抱える大きな問題の一つである・・           
 
 今回の旅もまた面白かった!いろいろ想像を越える環境の中での文化や大自然の雄大さに触れることができ、考えさせられたり刺激を受けることができた。
 やはり世界を歩き新しい文化を見て体験して感じることができる喜び・・・これが生きているという実感に繋がるのである。やはり旅は楽しい!      

もっと知りたい「羅平と元陽」

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2018/01/01 まるごとマレーシア縦断の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2009.02.21~02.28)

 旅程マップ         双龍橋           元陽の村の風景!     可愛い部族の子供!



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マレーシアの概要

<マレーシアの概要>
 南にアジアの金融センターであるシンガポール、北に東南アジアの工場と言えるタイに挟まれたマレー半島の中心に位置するマレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部から成り立っています。面積は日本の9割弱であるものの、人口は約3,000万人と日本の4分の1ほどになっています。国教はイスラム教ですが、仏教徒やキリスト教徒、ヒンドゥー教徒も一定数おり、民族もマレー系、華人系、インド系、その他の民族と多種に及ぶ多民族国家です。公用語はマレー語ですが、中国語や英語も広く使われています。首都のクアラルンプールはバンコクに並ぶアジア有数の大都市圏を形成しています
 世界中からの非常に大きな移民コミュニティのすべてに関連づけられる固定観念、たくさんの左翼政治家、おいしい食べ物、そして連邦の他地域に向かって漠然と横柄(または気づかない)な態度を取る、これが本当の東海岸地域である。また、長い大西洋岸は、域内がヨーロッパと、旅行、文化、そして商業の面で、強い絆で結ばれている事を物語っている。

<マレーシアの地理及び気候>
 マレーシアはシンガポールの北に位置し、赤道に近いため熱帯雨林気候に属しています。そのため、一年を通じて常夏の気候となっています。年間を通して気温は高いのですが、マレー半島とボルネオ島、マレー半島でも西海岸、東海岸では、特に雨期と乾期の時期が異なっています。首都であるクアラルンプールの気温と降水量のグラフは下記になります。雨期乾期があると言っても乾期にも雨は降りますし、雨期と言っても常に土砂降りと言うわけではなく、季節によってそこまでの違いはないのも特徴です。


もっと知りたい「マレーシア」

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2017/12/18 アメリカ東海岸・三大ミュージアム巡りの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2008.09.13~09.18)

 旅程マップ         世界遺産・自由の女神!   議会議事堂!       スミソニアン・航空宇宙博物館!



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アメリカの東海岸の概要

 アメリカの東海岸は、ニューイングランド、中西部、南部、そしてカナダのオンタリオ州とケベック州と隣接しているため、その文化圏と最も広く融合している。それゆえ、個々の州、特に都市は、強いそれぞれのアイデンティティを持ち、その地元住民は、総じて東海岸で持たれるアイデンティティよりも、ニューヨーク市のトライステート地域、D.C.首都圏、ペンシルバニア州農村部、ニュージャージー州南部等のような主要な小地域ごとのアイデンティティを持つことになる。
 中部大西洋地域の重要性と地域の人口に応じてだけでなく、なお国内すべても引きつける大都市のために、高い人口密度となっている(動く項目を参照)。アメリカ合衆国の大都市圏のベスト10の3つは、域内で互いに1時間ないし1時間半の運転距離間隔のニューヨーク、フィラデルフィア、そしてワシントンD.C.である。これらの首都圏は、この地域の土地面積のかなりの部分を占める、都心から放射状に広がる不規則な広大な都市で構成されている。その非常に大きな人口により、道路が混雑し、ビーチがよく利用され、遊歩道は踏み固められる事になる。
 世界中からの非常に大きな移民コミュニティのすべてに関連づけられる固定観念、たくさんの左翼政治家、おいしい食べ物、そして連邦の他地域に向かって漠然と横柄(または気づかない)な態度を取る、これが本当の東海岸地域である。また、長い大西洋岸は、域内がヨーロッパと、旅行、文化、そして商業の面で、強い絆で結ばれている事を物語っている。
 これらの大都市以外の地域は、たくさんの名所があるにもかかわらず、はるかに少ない頻度で国際的な観光客の訪問があるが、チェサピーク湾は真の世界の宝物であり、エコロジー、セーリング、または魚介類に興味がある人々に惜しまれるべきでなく、美しい自然のままのアディロンダックス (Adirondacks) は米国本土で最大の公園面積を有しており、ゲティスバーグやアンティータムのような最も重要な南北戦争の戦場の一部がここにあり、ナイアガラ・フォールズ市は世界の壮大な自然の驚異のひとつであり、アパラチア・トレイルはハイカーの夢である。


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2017/12/04 インド最奥の地・花の谷への旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2008.07.12~07.20)

 旅程マップ         花の谷を求めて・・     幻のブルーポピー!    谷間のテント村!



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インドの概要

 インドの国家概要です。人口11億人は中国に次いで世界第二位であり、平均寿命も上昇傾向(直近統計で63.1歳)です。国連の人口統計では2030年頃に中国を抜いて世界一の人口になると推計されています。
 しかしBRICs諸国の中でも、最も経済発展の遅れているのがインドです。道路や上下水道、電気などの社会インフラは、一部の大都市以外ではほとんど行き渡っていないのが現状です。ムンバイなどの大都市では、平均月収が3万円近くになると言う統計もありますが、地方との格差はきわめて大きく、納税者が全人口の1%程度しかないという統計もあるくらいです。2003年度の国民一人あたりのGNI(所得)はわずか540ドルに過ぎず、これは世界でも159位という低さです(ちなみに日本は34180ドルで7位、1位はルクセンブルグの45740ドル)。
 貧困層の数がとても多く、失業率も50%を超えると言われており(インド自身も、戸籍等の不徹底により完全な統計は把握できていない)、中国やロシアなど「先進国」と呼んでも過言ではない国々と同列に扱うのは不適切だと言う声もある位です。しかし、耐久消費財すら満足に揃っていない訳ですから、逆に考えれば、インドは世界でも最も有望な、成長性の見込まれる市場だともいえるのです。
 インドの公用語はヒンディー語ですが、英語も「第二母国語」と言える位に広く普及しており、南部の都市では英語の方が主流になっています。そして、英語を使いこなせる事が、インド人が世界のビジネスシーンに進出しやすい根源となっています。近年ではIT分野を中心に、先進国の大企業に勤めるインド人が急増しています。



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2017/11/20 ブルガリアとルーマニアの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2008.06.02~06.09)

 旅程マップ        世界遺産・トラキア人の墳墓  世界遺産・ボヤナ教会   贅を尽くした国民の館



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ブルガリアとルーマニアの概要


<ブルガリアの概要>
1 概要
地 理: ブルガリア共和国(Republic of Bulgaria) は,ヨーロッパ大陸の東南端,バルカン半 島の東寄りに位置し,ヨーロッパと小アジ ア 半 島 の 接 点 に 位 置 す る 。 総 面 積 は 110,993.6平方キロメートルで,日本の面 積の 3分の 1よりやや小さい。
面 積:11万 k㎡(日本の約 1/3) 人 口:725万人(2012年,IMF) 首 都:ソフィア市 民 族:スラブ系ブルガリア民族(約 85 %) トルコ系(約 9 %),ロマ人(推定約 5%) 言 語:ブルガリア語 宗 教:ブルガリア正教,イスラム教 国祭日:3月3日(オスマントルコからの解放記念日) GDP:396億6705万ユーロ(名目GDP), 272億6873万ユーロ(実質GDP) 一人当たりのGDP:5436.06ユーロ インフレ率:2.4% 主要産業:農業,製造業,IT・アウトソーシング,観光業 貿 易:輸出―207億7020万ユーロ,輸入―242億3040万ユーロ
2 歴史
 現在のブルガリアの地には古代トラキア人が最初に定住し,世界最古の黄金文明を築 いたとされる。
 その後ギリシャ,マケドニアが勢力を拡大し,紀元前1世紀にはローマ 帝国が台頭した。
 7世紀,中央アジアからブルガール族が侵入し,スラブ人と同化して, 第 1次ブルガリア王国を建設した(681年)。
 同王国はシメオン1世(893~92 7)の治世下で最盛期を迎えたが,ビザンツ帝国に滅ぼされた。
 その後,ビザンツ帝国 支配(1018~1185年),第 2次ブルガリア王国(1185~1393年)を経 て,ブルガリアはオスマン・トルコ帝国に約500年間支配された。
 15~19世紀の 民族復興時代にはオスマン帝国からの解放を求め様々な反乱が起こるがいずれも失敗し た。
 露土戦争(1877~78年)の結果,ロシアがオスマン帝国に勝利し,ブルガリ アはオスマン帝国の支配から解放された。第一次・第二次バルカン戦争(1912~1 913),両世界大戦を経て,1946年には王制を廃止し共産党一党独裁の時代に入 り,旧ソ連とは16番目の共和国と言われるほどの親密な関係を築いた。
 その後198 9年に35年間政権を握ったジフコフ共産党書記長が辞任,共産党独裁体制が崩壊した。
 1991年には東欧諸国では初の民主的な憲法が制定,各種選挙が実施され,民主制へ の移行を果たした。
 1990年代はハイパー・インフレの発生等による経済状況の悪化 や経済政策等の失敗による頻繁な政権交代のため政治的・経済的に混乱したものの,2 004年にはNATO(北大西洋条約機構),2007年にはEU(欧州連合)への加 盟を果たした。
 
 <ルーマニアの概要>
 中欧で唯一ラテン民族の血筋を引いている。人々は陽気で明るく、開放的であたたかい国民性を持つ。
 国土の中央にあるトランシルヴァニア盆地を囲んでカルパチア山脈、アプセニ山脈が連なり、その周りには平原が広がっている。セルビアからブルガリア国境に沿って流れるドナウ川は、ルーマニア東部で黒海に流れ込む。
 ドナウ川の北に広がる大平原がワラキア地方で、「ルーマニア人の土地」を意味する「ツァラ・ロムネスケア」と呼ばれ、ルーマニアにとっては大切な場所と考えられてる。ワラキア地方の元になったのは、中世に生まれたワラキア公国。南のオスマン朝、北のポーランド王国やハンガリー王国、のちのハプスブルグ帝国やロシア帝国など数々の強国に翻弄されながらも、独自の文化を守り続け、現在のルーマニアの礎になった。
 第2次世界大戦後は、チャウシェスク独裁の舞台になり、共産化、都市計画の名のもとに歴史的な建造物が破壊された。
 ルーマニアは中世と現代が混在している。町をちょっと離れれば、荷馬車がわらを運び、犬を連れた羊飼いが羊を追う風景が広がり、古くからのしきたりや、習慣が守り続けられている。トランシルヴァニア地方には、ドラキュラ城のモデルになったブラン城や、かつてルーマニア王の夏の離宮だったペレシュ城があり、各都市は今も中世の古い町並みが息づいている。
 一方、黒海沿岸はリゾート地としてにぎわい、細かい白浜、遠浅の海岸を目当てに夏には200万人の人々が訪れる。黒海の泥が美容によいとされている。黒海沿岸北部には、ヨーロッパ最大の湿原地帯のドナウデルタがある。クルーズなどで、多様で濃密な自然観測ができる。
 ルーマニアはアンチ・エイジング(老化防止)の先進国で、治療としてアンチ・エイジングを行こなわれている。

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2017/11/06 白い大陸・南極への旅


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 (旅行日)  (2008.01.10~01.25)

 旅程マップ         白い大陸・南極!      ポートロックロイ上陸!  ゾディアックボートで上陸



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南極の概要


 南の果て。南極大陸というでっかい大陸がある氷山地帯。南極条約により、南緯60度以南の領有権主張は凍結されており、実質どこの国の領土でも無い。
 寒い時は内陸部ではマイナス50度を超える極寒の地だが、海岸部にはこんな場所にも生物は生息している。有名なのはペンギンで、アデリーペンギンやコウテイペンギンなど、8種類のペンギンが生息している。他、海にはクジラの仲間やアザラシ、オットセイなどの哺乳類が生息しており、それらの生物の重要な餌となっているのが、ナンキョクオキアミである。
 南極大陸にたどり着くには「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度」と呼ばれる荒れる海を越えることになる。 現在は地学・生物学研究のための基地が設けられている一方、南極条約により資源の採掘は行われていない。後述するタロとジロの話はよく知られているが、現在は南極の生物へ感染症を広めないようにするため犬などの動物は南極へは持ち込み禁止になっている。南半球の冬至(北半球では夏至)には各基地では士気の維持も兼ねてミッドウィンター祭というお祭り騒ぎが行われる。
 

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2017/10/23 雲南省大自然の旅


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 (旅行日)  (2007.10.11~10.25)

 旅程マップ         天上の湖!濾沽湖遊覧    玉龍雪山の峰峰       玉泉公園の風景・・



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雲南省の概要


 熱帯・亜熱帯に属し、雨季と乾季に分かれている。特にタイ族の住む西双版納(シーサンパンナ)の熱帯風景は有名。
 豊富な自然資源に恵まれ、「植物の王国」、「動物の王国」、「非鉄金属の王国」、「漢方薬材の里」という美名がある。
 カルスト地形が広がり、雲貴高原の中心を占める。東部には石林と呼ばれる奇景がある。
 高度差が3千メートル以上ある地帯が広がり、植物の種類が豊富で垂直分布がはっきりしており、植物の王国と呼ばれる。
 山間の盆地を中心に農業が発達し、主要な農産物に米、サツマイモ、茶、煙草、ゴム、バナナ、パイナップル、漢方薬などがある。プーアル茶や雲烟(高級巻きたばこ)は有名な特産品。
 省都の昆明は四季を通じて春のような気候で、春城の異名がある。
 省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることから。
 市内には怒江、瀾滄江、金沙江などの河がある。
 

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2017/10/09 極北の地・グリーンランドとアイスランドの旅


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 (旅行日)  (2007.06.19~06.30)

 旅程マップ        極北の海に浮かぶ巨大な氷山  ゲイシール!       ヴィーティの丘・・



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グリーンランドとアイスランドの概要

<グリーンランドの概要>
 北アメリカ北東部にある世界最大の島。デンマーク領。大部分は厚い氷雪におおわれている。住民は主に南西海岸にイヌイットのほか,デンマーク人が住む。中心都市はゴットホープ。タラ・ニシンなどの漁業が主産業。面積218万平方キロメートル。
 
 グリーンランドの歴史は、10世紀に始まると言ってよい。この頃に、アイスランドのヴァイキングがグリーンランドを発見・移住したためである。これ以前にも先住民族の居住があったとは思われている。ヴァイキングも島の南西岸に定住を行ったが、16世紀までにそれらの定住地は消滅した。18世紀にはキリスト教布教などを目的にヨーロッパ人による再上陸が行われ、デンマーク=ノルウェー連合王国領となった。その後、デンマーク領となったが、第二次世界大戦中にデンマーク本国がナチスに占領されたことに伴い、アメリカ合衆国に保護された。そのため、独自性が強まり、戦争後にデンマークに主権が返還された後、1953年に植民地から海外郡に昇格、1979年以降は自治領となっている。1985年にはデンマーク領でありながら欧州共同体から離脱している。
 
<アイスランドの概要>
 大西洋北部にあるアイスランド島を領土とする共和国。首都レイキャビク。原住民やエスキモーはいず、800年頃ノルウェーから修道士が渡った。のちノルウェー・アイルランド・スコットランドから入植者が来、ノルウェー王が宣教師を多く送り、1000年頃キリスト教が国教になる。ノルウェー領からデンマーク領になり、カトリックは衰え、1550年ルーテル教会が確立、1874年に国が自治権を得、同教会が国教会となり今に及ぶ。1918年デンマークから独立、1944年共和国。宗教の自由は保障されているが、98%がルーテル教会。  


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2017/09/25 聖地! イスラエルの旅


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 (旅行日)  (2007.03.24~03.31)

 旅程マップ         黄金の屋根「岩のドーム」   受難のイエス!     カイザリア



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イスラエルの概要

<イスラエルの概要>
 イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: メディナット・イスラエル、アラビア語: ダウラト・イスラーイール、英語: State of Israel 、通称イスラエルは、中東のパレスチナに位置する国家。北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南にエジプトと接する。ガザ地区とヨルダン川西岸地区を支配するパレスチナ自治政府(パレスチナ国)とは南西および東で接する。地中海および紅海にも面している。
 首都はエルサレムであると主張しているが、国際連合などはテルアビブをイスラエルの首都とみなしている。
 イスラエルはシオニズム運動を経て1948年5月14日に建国された。建国の経緯に根ざす問題は多い。

民族と言語と宗教
 2013年のイスラエル中央統計局のデータでは、総人口は802万人である。
 そのうちユダヤ人が604万人(75.3%)、アラブ人が166万人(20.7%)、その他32万人(4.0%)となっている。
 アラブ人の大半はムスリムで[222]、2009年のデータではアラブ人の78%がムスリムである。
 なお、イスラエルでは1970年に改正された帰還法により、ユダヤ人の定義をユダヤ教を信仰しているか、母親がユダヤ人のものとしている。
 イスラエルは移民国家であり、出身地ごとに欧米系をアシュケナジム、アジア・アフリカ系をセファルディム、オリエント系をミズラヒムと呼び、同じユダヤ人でも異なる人種の場合もある 。
 1990年から2009年までの統計によればユダヤ人の人口は減少傾向にあり、対してアラブ人は増加傾向にあるという。
 これはユダヤ人移民の減少によるものとイスラエル中央統計局は推測している。

宗教[編集]
 ユダヤ教徒が523.8万人(76.2%)、ムスリムが110.7万人(16.1%)、キリスト教徒が14.4万人(2.1%)、ドゥルーズ派が11.3万人(1.6%)、その他26.5万人(3.9%)となっている。
 信仰のあり方についても多様で、戒律を厳しく守ろうとするユダヤ教徒は20%、ある程度個人の自由で守るものが多数派で60%、全く守ろうとしないものも20%いる。
 キリスト教徒の多くは東方正教会のエルサレム総主教庁ないしはローマ・カトリックの信者が多いがコプト正教会、アルメニア正教会等の信者もいる。
 一部のユダヤ人の中にはイエス・キリストをメシアとする「メシアニック・ジュダイズム」の人々もいる。


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2017/09/11 情熱の島!キューバの旅


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 (旅行日)  (2007.02.13~02.21)

 旅程マップ          バラデロの美しい海    ヘミングウエイの大邸宅  1930,40年代のアメリカ車


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キューバの概要

<キューバの概要>
 カリブ海の真珠といわれるキューバは、フロリダの南約145kmに横たわる、東西に延びる細長い島。
 全長は約1250km、最大幅も約190kmあり、面積は日本の本州の半分に当たる約11万1000km2。
 本島のほか1600余りの島や岩礁からなる、カリブ海最大の島国だ。
 また、北東にバハマ諸島、東にエスパニョーラ島のハイチ、南にケイマン諸島やジャマイカ、西にユカタン半島と、主要な島や半島に周りを囲まれている。
 上空から見たキューバは、美しい海岸線に縁どられ、平らな部分はサトウキビ畑やオレンジの畑に埋め尽くされている。
 島のほぼ4分の1は山岳地帯となっていて、最高地点は南部のシエラ・マエストラ山脈のトゥルキノ山。標高は2005mもある。
 山腹は豊かなマホガニーの林に包まれ、山麓からは銅や鉄が、海岸では石油が産出されるなど鉱物資源も豊富だ。
 カストロやチェ・ゲバラの率いる革命軍がバチスタ政権を打倒した1959年の革命戦争から56年、キューバは社会主義国としての道を歩んできた。
 ソ連崩壊とアメリカの経済制裁により一時はどん底ともいえる状態だったが、ドル獲得のために力を注いできた観光産業が実を結び、現在はカナダやヨーロッパ諸国からの観光客が町をそぞろ歩いている。
 観光収入はキューバ経済の大きなウエートを占めるまでに成長した。
 また、レストランやバー、エンターテインメントも充実し、観光をしているぶんには、カリブのその他の島々とあまり変わらない。
 しかし、キューバの土地を踏んだとたん目に飛び込んでくる、1950年代のクラシックカー、スペイン・コロニアル時代そのままの町並み、チェ・ゲバラのペイントなどが他の島々にはない独特な空気を醸し出し、不思議な力で旅人を魅了する。


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2017/08/28 不思議の島!マダガスカルの旅


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 (旅行日)  (2006.10.27~11.04)

 旅程マップ          バオバブの並木道     横飛びサルのベローシファカ  美しいインド洋


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マダガスカルの概要

<マダガスカルの地理と気候>
 マダガスカルはインド洋西部,アフリカ東海岸からモザンビーク海峡を隔てて400キロ沖合いにある島である.
 その面積は587,000平方キロと日本の1.6倍,南緯12度から26度,東経43度から51度に位置する世界で4番目の大きさの島である.
 国土のほとんどが南回帰線以北にあり,気候区分は全域が熱帯性気候となるが,地形や海流,風の影響を受けるため,実際の気候は地域によって大きく異なる.
 具体的にはマダガスカル島の中央部には標高1000m以上の高地帯が存在する.
 また南東からの貿易風のため,一般的なマダガスカルの気候は東が湿潤で西が乾燥する傾向になる.
 その一方アフリカ大陸に近いという特性上季節風の影響もあり,夏季は湿潤で冬に乾燥する(日本と同じ).
 以下に具体的な気候を示す.
 ① 中央高地:
   首都アンタナナリブがある地域である.標高が高いため夏は暑いものの,冬は朝夕を中心にかなり気温が下がる.
   降水量は東部と西部の中間である.
 ② 東部:
   セントマリー島などの地域.非常に雨が多く,熱帯雨林が広がる地域である.
 ③ 西部:
   乾燥している.特にトゥリアールなどの南西部には広大な砂漠が広がっている. 
 ④ 北部:
   ディエゴ・スアレスなど.赤道に近いため特に夏は非常に暑く,降水量も多い.
<マダガスカルの歴史>
**ヨーロッパ人来航前**
 今から2億年程昔,地球上にはゴンドアナ大陸と呼ばれる,今の南米大陸,アフリカ大陸,マダガスカル,インド亜大陸,オーストラリア大陸を含む巨大な大陸が存在していた.
 ジュラ紀(1億5千万年以上前)にゴンドアナ大陸は南米・アフリカからなる西部とインド・オーストラリア・南極からなる東部に分裂した.
 この時マダガスカルは東側に付いていた.その後白亜紀(1億5千万年~7千万年前)になると西部は南米とアフリカに分裂し間に大西洋が誕生,東部もインド(その後北の大陸と衝突しユーラシアの1部になる)とオーストラリア,南極に分裂しこの時マダガスカルも独立した島になったという.
 つまり,マダガスカルは地理的にはアフリカに近いものの,歴史的にはインドやオーストラリアにより近いわけである.
 その後マダガスカルは1つの島として独自の歩みを始める.1億年以上前に大陸から分かれたことによって,この島の生物は独自の進化を遂げた.
 マダガスカルの生物の特色である豊富な固有種(そこにしか存在しない種)の誕生である.
 たとえば原猿類やバオバブの木,カメレオンなどはこの島でしか見られない種が非常に多いことで知られている.
 さて,マダガスカルにいつから人類が住み着いたかは,はっきりしていない.
 ただ最初に住み着いた人々は,アフリカ系ではなく東南アジア系であると言われている.
 その後アフリカ系の人々も住み着くようになり,次第に混血が進んだと考えられている.
 中世にはイスラム商人やって来て交易を行っていた.
 またマルコポーロの東方見聞録にはインド洋の大きな島の記述があり,これがマダガスカルを示していると考えられている.
 一方15世紀初頭,明の永楽帝の命でインド洋の航海に乗り出した鄭和艦隊の一部もマダガスカル付近まで到達したといわれている.

**ヨーロッパ人の来航から植民地化まで**
 ヨーロッパ人がマダガスカルを発見したのは1500年のことである.
 インド洋を航行していた,ポルトガル人ディエゴ・ディアスが率いる船体が嵐に遭遇,マダガスカル東岸に漂着したのである.
 彼はここを聖ロレンソ島と命名した.その後ポルトガルが植民を試みたものの,結局失敗に終わった.
 続いてこの島にやって来たのはフランス人である.
 1642年にフランソワ・ジャック・プロニスが島南東部のフォール・ドーファンに町を築いた.
 その後フランスから派遣された総督がこの町を拠点として周囲の開発を進めようとしたものの,現地人との摩擦が起こり開発はなかなか進まなかった.
 一方,ヨーロッパ人がやってきた時,多くの部族による小国家が乱立していたマダガスカルであったが,18世紀頃から統一の機運が高まってきた.
 当時の有力な部族は中央高地のメリナ族,西部のサカラヴァ族,南部のアンタンドルイ族などであったが,徐々にメリナ族が優勢となる.
 そして1794年にメリナ族の王アンドリアナンポイニメリナ王(在位1777~1810)がタナナリブ(現在のアンタナナリブ)を首都と定めて統一に乗り出した.
 そして彼の子ラダマ1世(在位1810~1828)の時についにマダガスカルの統一に成功した.
 ラダマ1世は開放主義をとり,軍隊をイギリス式に調練するなど国の近代化を図った.
 しかし彼は1828年に亡くなり,その後彼の妻,ラナヴァルナ1世(在位1828~1861)が即位,彼女は先王と反対に,宣教師を追放するなど排他的な政治を行ったため,フランスの介入を招き国勢は次第に傾いていった.
 1861年にラナヴァルナ1世が亡くなると,あとを継いだラダマ2世は再び開放政策をとったものの,1863年に暗殺されてしまう.
 その後はラソヘリナ,ラナヴァルナ2世,ラナヴァルナ3世と3代女王が続いたが,度々フランスとの紛争が起こり国家の衰退は明らかであった.
 最後の王ラナヴァルナ3世は国難を乗り切るために行政改革を行い,イギリスに接近して軍の建て直しを図ったものの,1895年9月30日に首都タナナリブがフランス軍に制圧され,1896年8月6日正式にフランスの植民地となった.

**第二次世界大戦と独立**
 フランスの植民地となったマダガスカルではあったが,独立の気運は徐々に盛り上がり,第2次世界大戦後の経済混乱を機に運動は一気に燃え上がった.
 1947年には東海岸を中心に暴動が起こった.これはすぐに鎮圧されたものの,その後も運動は続いた.
 1956年には行政権の一部を取り戻し,1960年6月26日に独立宣言が出され,正式に独立したのであった.
 独立後のマダガスカルはフランスの影響を排し,1975年からは社会主義体制となったが,1990年代に世界的な社会主義の行き詰まりのなか再び自由主義に戻り現在に至っている.


もっと知りたい「マダガスカル」

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2017/08/14 爽快!夏色アラスカの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2006.07.27~08.02)

 旅程マップ          デナリ国立公園の風景    マッキンリー遊覧飛行    アラスカ鉄道


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アラスカの概要

<アラスカの歴史>
 アメリカ合衆国の一部としてのアラスカの歴史は1867年に始まるが、 この地域の歴史は旧石器時代 (紀元前12,000年頃) にまで遡ることができるとされている。
 一番早く住み着いたのはベーリング地峡を渡り、アラスカ西部に辿り着いたアジア人のグループである。
 コロンブスの新大陸発見以前にアメリカにいた先住民のうち、ほとんどではないにしても多くがこの地峡を渡ってアメリカにやって来た。
 ロシアの探検家を通じてヨーロッパとの接触が始まる頃には、この地域にはイヌイット等の様々な先住民が住んでいた。
 アラスカについての文書に残る歴史のほとんどはヨーロッパによる植民にまで遡る。
 ロシア海軍の聖ピョートル号に乗ったデンマークの探検家 ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを「発見」したと記録されているが、先に発見したのは聖パーヴェル号に乗ったアレクセイ・チリコフであった。
 彼は1741年7月15日、現在のシトカ市で陸地を発見した。ロシア・アメリカ会社はすぐにカワウソの狩りを開始し、アラスカ沿岸の殖民の支援を始めたが、高い船賃がネックになって経営はうまくいかなかった。
 1867年4月9日、アメリカ国務長官のウィリアム・スワードが720万ドル(2005年現在の価値で9000万ドル)でアラスカを購入した。
 1958年7月7日、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカを連邦に加えることを認めるアラスカ州法にサインし、1959年1月3日、アラスカは連邦の49番目の州となった。
 1964年3月27日、マグニチュード9.2を記録するアラスカ地震が発生し、131人が犠牲になり多くの村々が壊滅した。
 1968年に油田が発見され、1977年トランス・アラスカ・パイプラインが完成すると原油生産による収入で人口が増加に転じ、インフラ整備が進んだ。
 1989年、エクソン・バルディーズ号がプリンス・ウィリアム湾で流出量1100万ガロンから3500万ガロンに及ぶ原油漏れ事故を起こし、沿岸は1600キロに亘って汚染された。
 現在州の半分以上は連邦政府によって所有されている。豊富な資源をめぐって連邦と州との間で議論が続いているが、北極野生生物国家保護区にまつわる政治的な争いもある。

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