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「出会いがある……校友会」「更に広げよう……同窓の輪」

2018/04/30 パプアニューギニアの旅

2018/04/30  予定




2018/04/09 中米7カ国の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2010.03.07~03.23)


 旅程マップ         世界遺産・ティカル遺跡!  マヤの遺跡に住む動物!  マヤの先住民・チチカステナンゴ

 *クリックして、「中米7カ国の旅」をご覧ください!



中米7カ国の概要

<グアテマラの概要>
 国土面積 108,889k ㎡(日本の約 3.5 分の 1)、人口約 1,436 万人(出典:2010 年国立統計院推計、中米 5 か国 中大)を有し、国民の約 38.4%を先住民族が占めるグアテマラ共和国においては、長年にわたり軍事政権が続 いていたが、1985 年の民主的選挙により 1986 年に 16 年ぶりに民政移管が実現した。
 また、1996 年 12 月にア ルスー大統領(現グアテマラ市長)は、反政府ゲリラ(グアテマラ国民革命連合)との間で「終和平協定」 に署名し、36 年間にわたり継続した中米長の内戦に終止符が打たれた。
 2007 年のグアテマラの人間開発指数は 182 か国中 122 位であり、中南米地域においてハイチ、ニカラグアに 次いで低い。
 また、貧困率は 51.0%、極貧率は 15.2%であり、中でも農村地域における貧困率は 70.5%、極貧率 は 24.4%、さらに、先住民族のうち 74.8%は貧困層、27.2%は極貧層に属し、貧困率及び極貧率の地域・民族間格 差は依然として大きい。
 2008 年 1 月に就任したコロン大統領は、「連帯」、「ガバナビリティ」、「生産性」及び「外交」の四つを柱と する政権の基本方針をもとに、特に貧困層や先住民等の「持たざる者」がより裨益するような施策を優先に実 行している。
 さらに、極貧世帯の児童の教育及び保健サービスへのアクセス向上を目的とした「条件付支援金 交付制度(Mi Familia Progresa)」、青少年の非行防止等を目的として週末に校舎を開放し文化・芸術・スポーツ 活動を奨励する「青少年児童センター(Escuelas Abiertas)」、そのほか「基礎的食糧配給プログラム(Bolsas Solidarias)」、「貧困者用給食施設プログラム(Programa de Comedores Solidarios)」等の貧困者・地方農村地域に 重点を置いた新たな社会福祉プログラムを大統領夫人の主導のもと推進し、貧困撲滅及び格差是正に努めてい る。
 現在、コロン政権は、大の輸出相手国である米国向けの輸出の停滞、税収の減少、米国からの海外移民送 金及び観光収入の減少等の影響を受け低迷している国内経済の活性化に向け、経済危機対策緊急国家計画の実 施および財政の適化に努めており、優先事項として、雇用対策(農村開発プログラム、公共インフラ事業、 中小零細企業支援プロジェクト、エネルギー関連プロジェクト等の推進)、社会的セーフティーネットの整備(条 件付支援金交付制度等)及び財政の透明性確保を挙げている。
 税収不足等により国家予算の確保が困難な状況 に対しては、同予算の縮小は行わず、国家予算の組み替え及び国債の発行により対処している。 
 
<ベリーズの概要>
 ベリーズは、グアテマラが領有権を主張したため他のカリブ英語圏植民地よりも若干遅れて 1981 年に英国から の独立を達成した。
 1998 年に成立した人民連合党(PUP:People’s United Party)のムサ内閣は長期政権として、鈍 化した経済の改善、急増した中米難民への対応等に取り組んできたが、積極財政政策の推進に伴って対外債務が 急増し、政府の財政運営やその他行政に対する国民の不満が高まり、2008 年 2 月の総選挙で民主連合党(UDP: United Democratic Party)が大方の予想どおりに勝利し、10 年ぶりの政権交代となった。
 新首相はディーン・バー ロウ氏である。これまでベリーズは、国連中心の外交を展開してきており、また、英連邦の一員及び CARICOM 加盟国として、伝統的に英国及びカリブ諸国とは緊密な関係を有してきたが、2001 年には SICA にも正式加盟し、 中米諸国との関係をも重視した外交を展開している。かかる方向性は新政権の下でも維持されている。
 ベリーズの経済規模は小さく、2007 年の GDP(名目:世界銀行)は 11 億ドルである。
 基本的に農業国であり、 農業は最も多くの国民が従事している産業であるが、近年では観光業の発展がめざましく、外貨収入源としては 農業を超えて第 1 位になっている。
 輸出は柑橘ジュース、エビ等海産物、サトウキビ等で、主な輸出先は米国、 英国、カリコム諸国等。2006 年には、内陸部に油田が発見され、採掘を開始。ベリーズにとっては重要な新産業 になっている。
 2007 年は、サービス、石油業は伸びたものの、エビ養殖業の業績が悪化したこと、8 月にベリー ズ北部を襲ったハリケーン・ディーンの影響等の原因から、年間 GDP 成長率は 3%にとどまった。前政府の積極 財政・金融政策の結果膨らんだ債務が GDP 比約 92%(2006 年末)に及んでおり、深刻な問題となっている。

<エル・サルバドルの概要>
 エルサルバドル共和国は中米諸国の中で最も国土面積が小さく、人口密度は中南米で一番高く(316人 /km2)、また自然資源の乏しい国である。
 また、79年以降、90年代初頭にかけてゲリラ勢力(主に80年代に団 結したファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN))と政府軍との間で激しい内戦が続き、エルサルバド ル国の治安情勢の悪化が顕著になった。
 かかる状況下において我が国は、大使館機能及び経済協力規模を縮小 した経緯がある。
 しかし、92年1月、クリスティアーニ政権下において和平合意/内戦終結が成立したことを受け、我が国は同 年に館員常駐を再開、93年より常駐大使を派遣すると共に、経済協力についても「復興」を中心とした支援を 再開、当国の和平プロセスも、国連の監視・検証の下、順調に履行されてきている。
 特に 95年に「国連エル サルバドル監視団(ONUSAL)」、96年には「和平合意完遂のための国連ミッション(MINUSAL)」が派遣され、 内外より国連平和維持活動の成功例として高い評価を得た。
 我が国も国際平和協力法の下、94年の大統領選挙・ 総選挙にあたり、延べ30名の選挙監視団を派遣している。
 そして98年、ガルデロン政権時に、和平合意を完全 履行する旨宣言された。
 04年3月の大統領選挙においては、若く清心なイメージを持ち、「安全な国」を政策目標に掲げた国民共和同 盟(ARENA:与党)のエリアス・アントニオ・サカ大統領候補が圧勝し、同年6月より大統領(任期5年)に 就任した。

<ホンジュラスの概要>
 ホンジュラスは北米大陸と南米大陸を結ぶ中米地峡に位置する日本のおよそ3分の1ほどの小さな国で(隣国はグアテマラ、エルサルバドル、ニカラグア)、この地域の最も貧しい国のひとつに数えられています。
 国を支える主要産業(主にコーヒーとバナナ)が脆弱な上、数世紀に及ぶ欧州列強による植民地統治に端を発する搾取的社会と文化の形成により激しい貧富の格差が存在し、多くの国民が深刻な貧困に喘いでいます。
 また汚職による政治腐敗が著しく政府はその責務を果たさず、更に麻薬犯罪組織の暗躍と警察組織の退廃により極めて治安が悪く、日々暴力と犯罪が絶えません。
 社会福祉はほとんど提供されず医療レベルも極めて低く、また教育システムも必要な機能を果たしていません。
 これらの現実を生きるホンジュラス国民は明日への希望を持つことが極めて困難です。

<ニカラグアの概要>
ニカラグア手話
 ニカラグア手話は、ニカラグア・マナグアの聴覚障害を持つ児童たちによって生み出された。手話は年月と共に年少者へ受け継がれ、進化・複雑化していっており、80年代前半までの初期のものをLSN、80年代後半のものをISN、と呼称する。また、聴覚障害者と健常者の間での手話をPSNと呼ぶ。
 ISNはLSNに比べ、使用空間が小さくなり、口の動きを伴うものが減少している特徴がある。
歴史
 1979年のサンディニスタ革命以前のニカラグアには聴覚障害者社会と呼べるものはなく、聴覚障害者は家庭などで孤立し手真似で家族らと最低限のコミュニケーションをとる程度だった。革命の直前の1977年に最初の聾学校がマナグア近郊に50人ほどの規模で誕生し、革命の年には生徒数は100人程度にまで増えていた。
 サンディニスタ革命により誕生した新政府の政策のひとつとして掲げられた「識字率の向上」をきっかけとして、1983年、首都マナグアの2つの全寮制の学校に聴覚障害を持つ思春期の少年少女約400人が集められた[1]。
 児童が、それまで家庭内において必要最低限の事項を伝達するために用いていたパントマイム的な手真似(ホームサイン)は、スペイン語でものまねを意味するミミカス(mimicas)と呼ばれていた[3]。マナグアに集められた彼らは、こうした独自の手真似を用い、他の児童とのコミュニケーションを図り、手真似の中からいくつかの原始的なピジン言語が誕生した。
 新政府が作った学校ではソ連の影響を受けた聴覚障害者教育を行っていた。この学校では本来、手話を教えてはおらず、主にスペイン語を用いた指文字と読唇術による教育手法を採用していたが[1]、単語や文字という概念を持たなかった彼らのコミュニケーション生成に全く影響を与えず[3][4]、彼らに対するスペイン語教育は成果を収めず挫折した。しかし生徒たちは校庭や道端、農場との行き帰りのバスなどでミミカスを組み合わせたピジン言語を急速に発展させ、第一段階といえるLSN(Lenguaje de Signos Nicaragüense)が誕生した。
 学校の教師たちが目撃したこの謎めいた意思伝達手法の正体を確認するため、ニカラグア教育省は1986年、南メーン大学(英語版)の手話言語学者ジュディ・ケーグル(英語版)を招聘し、現地へと派遣した[1]。ケーグルは児童たちが使用している手話言語の糸口を探るため、チェコの有名な漫画『Mr.Koumal』を聞かせ、その文法を探る方法を試みた。これにより、ケーグルは年長者の使用する手話よりも年少者の使用する手話が明らかに複雑であり、ニュアンスに富んでいる、クレオール化が発生していることを発見した[1][4]。最初の在校生たちは各家庭での手真似をすり合わせて初歩的なピジン言語を作り出したが、そのあとから入学した5、6歳の子供たちが先輩らからピジン言語を習い、はるかに複雑で洗練された言語へと進化させたのである[3]。
 年長の生徒の使うLSNに対しISN(ニカラグア手話、Idioma de Signos Nicaragüense)と名づけられたこの明らかに系統立った言語の発見は、「人間が言語を生み出すための能力は、生得的である」というノーム・チョムスキーをはじめとする言語学者達の意見(「言語獲得装置」仮説)を裏付ける画期的なものとなった[3]。それまでは異なる言語の接触からクレオール言語が発生するありさまが研究されてきたが、ホームサインと手真似以外のコミュニケーション手段がない無の状態から言語が発生したニカラグア手話は稀有な事例といえる。
 ニカラグア手話は聾学校を通じて若い世代にも伝わり、その発展は以後も続いている。ケーグルらは、生徒たちに他の手話(特にアメリカ手話)を教えないようにしながら、この孤立言語が発達するさまを観察し続けた。ケーグルらが主導し、1995年からブルーフィールズ(英語版)やコンデガ(英語版)など、別の町の学校へもこのニカラグア手話を浸透させようというプロジェクトが開始された[1]。

<コスタリカの概要>
 コスタリカ共和国は北米大陸と南米大陸のほぼ中間に位 置し、面積は四国と九州を合わせた程の大きさです。
 その国土は太平洋とカリブ海に無数の美しいビーチを持ち、中央には優美な姿の火山の連なる山脈が走っています。
 変化に富んだ地形に恵まれたコスタリカの熱帯雨林や海、川には豊かで多彩 な動植物が育まれ、世界の5%の動物種、鳥類にいたっては世界の10%の種が生息。
 世界中のバードウオッチャーの憧れの地と呼ばれています。
 国と国民が一体となって守ってきたこの自然保護先進国はエコツーリズム発祥の地として広く知られ、世界中から多くの観光客が訪れています。
 またこの国は平和憲法を掲げ、日本とともに軍隊を持たない国でもあります。その反面、教育には国家予算の22%をさき、中米随一の教育レベルを保っています。
 また、近年ペンシオナード政策(年金生活の外国人に居住ビザを与える)に力を入れ、中南米にあっては比較的治安の良いこともあってアメリカや日本からの移住者が増加しています。
 コスタリカには現在約350人の日本人が生活し、日本人経営の高級ホテルや和食店、スーパーマーケットなどとともに地域に根付いています。
 日本人のほとんどは首都のサンホセかその周辺に居住していますが、年間を通 して半袖で過ごせる(年間平均気温24度)快適な環境にあります。

<パナマの概要>
 首都はパナマ・シティー、日本との時差は、−14時間(GMT-5)日本より14時間遅れ
 面積は、75,517 Km2
 国土は、山脈によって2つに分けられています。
 一方は熱帯雨林に覆われた大西洋側、もう一方は太平洋側になります。東部の北東アーチと呼ばれる弓 形にそった地形の部分にはサンブラス山脈が走り、南東部の弓形の部分(アーチ)にはコロンビア山脈が連なっています。とはいえ、標高1000メートルを超える山はごくわずかしかありません。
 最も高い山は標高3475メートルのバルー火山です。
 気候は、沿岸部は暖かく雨量が多く、山岳地帯は過ごしやすい気候で雨が多く降ります。
 年間平均気温は沿岸部で29℃(84F)、山岳地帯では18℃ (64F)。季節は大きく2つに分かれており、雨期(冬)が5月から12月、乾期(夏)が1月から4月。大西洋沿岸の年間降雨量は3270ミリ(129イ ンチ)、太平洋側は1750ミリ(69インチ)。

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2018/03/19 ナミビアと南アフリカの旅


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 (旅行日)  (2009.08.19~09.02)


 旅程マップ        神々の花園・ナマクワランド!  孤高のヒンバ族!    フィッシュリバ・キャニオン


 *クリックして、「ナミビア・ナミブ砂漠、ヒンバ族訪問と南アフリカ・ナマクワランドの花の旅」をご覧ください!



南アフリカの概要

<概観>
◎アフリカ及び開発途上国のニューリーダー
 1991年のアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃と94年の民主政権の発足により、南アフリカは、対話による人種対立解決と融和の象徴の国とされている。
 ムベキ前大統領はアフリカ自らの力で紛争、貧困、独裁、汚職などの問題を克服しようとする「アフリカの新しい流れ」を代表する指導者として知られ、途上国と先進国との間の「南北の架け橋」としての役割を積極的に追求した。同大統領は、九州・沖縄サミット(2000年)以降の毎年すべてのG8サミットに参加。2009年4月に民主化後4回目となる総選挙が実施され、ズマANC総裁が新大統領に選出された。
 
◎温暖な気候と豊かな自然
 アフリカ大陸の最南端、インド洋と大西洋を結ぶ要衝の地に位置する。太陽の国と言われるほど年間を通じて晴天の日が多く、全体的に気候は温暖。また、2000m級の山脈、砂漠と森林、高原と平野など多様な地形と気候を反映して、動植物の宝庫でもある。自然や文化遺跡も豊かであり、「スタークフォンテン・スワークランズ・クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群(アウストラロピテクスなどの人類化石が発見された遺跡群)」、及びロベン島(ケープタウン沖にあるアパルトヘイト時代の刑務所島)などの文化遺産、「グレーター・セントルシア湿地公園」、「ケープ植物区系の保護地域群」などの自然遺産等、計7カ所が世界遺産に指定されている。

◎七色の国民
 広い国土と複雑な歴史により、黒人(ズールー族、コーザ族、ソト族、ツワナ族等)、白人(オランダ系、イギリス系等)、カラード(混血)、アジア系(インド人等)で構成されている。アパルトヘイトという苦難の歴史を克服し、復讐ではなく和解を追求した南アの国民は、敬意をもって「七色の国民(レインボー・ネイション)」と呼ばれている。
 
◎アフリカ最大の経済大国
 群を抜いたアフリカの経済大国であり、サハラ以南アフリカ地域諸国のGDPの約4割を占める。わが国と南アとの貿易額はわが国と同地域の貿易額の約5割、直接投資額は同地域(リベリアを除く)の約7割を占める。豊富な天然資源を有し、特に金、クロム鉱、白金(プラチナ)、バナジウム等の生産量、埋蔵量は世界上位に位置する。

<歴史>
◎英国からの独立、アパルトヘイト
 17世紀半ばからオランダ、19世紀前半からは英国の植民地となる。
 1910年、南アフリカ連邦として独立したが、白人政権は黒人の政治的・社会的・経済的権利を剥奪するアパルトヘイト(人種隔離政策)を実施し、国際社会から厳しい非難を浴びた。
 国連では69年にアパルトヘイト政策を非難する総会決議が採択され、各種安保理決議により武器等の禁輸や人的交流の禁止などがなされた。 

◎民主的政権の発足
 1990年以降、デ・クラーク大統領(当時)の下でアパルトヘイト撤廃に向けた国内改革が進展し、94年4月に初の全人種参加による総選挙が行われた結果、アフリカ民族会議(ANC)総裁として反アパルトヘイト運動を主導したネルソン・マンデラを大統領とする民主政権が発足した。旧白人政権時代には、弾圧とテロが頻発し、民主化前夜には「内戦は不可避」とまで言われたが、マンデラ大統領の国民和解路線の下で情勢は安定した。99年6月には二度目の総選挙が行われ、ANCから後継者として指名されたムベキ大統領が選出された(04年4月の三度目の総選挙で再任)。その後、09年4月に四度目の総選挙が実施され、現在はズマ大統領が政権を担っている。
 
◎混迷する政局
 南アの国際的地位の向上並びに着実な経済成長を成し遂げたムベキ政権であったが、07年12月のANC全国大会での総裁選でジェイコブ・ズマ副総裁が新総裁に選出されたのを契機としてムベキ大統領の党内での影響力は急激に低下、そして、汚職容疑でのズマ副総裁に対する起訴プロセスにムベキ政権の政治的圧力があったとする司法判断を背景にANC執行部は同大統領の解任を決定し、08年9月、ムベキ大統領は辞任した。ムベキ大統領の辞任は、ANC新執行部の党の運営振りに不満を抱くANC幹部の離党、新党(国民会議:COPE)結成にまで発展し、ANCが分裂する事態となった。09年4月にに民主化後4度目となる総選挙が実施され、与党ANCが約66%の得票率で勝利し、ズマANC総裁が新大統領に選出された。


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2018/02/28 ヴァヌアツとニューカレドニアの旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
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 (旅行日)  (2009.05.13~05.20)


 旅程マップ         ヤスール火山の噴火!   イル・デ・パン島     ホテル ル・メリディアンの風景!


 *クリックして、「秘境・ヴァヌアツと南太平洋の宝石・ニューカレドニアの旅」をご覧ください!



ニューカレドニアの概要

<ニューカレドニア>
 ニューカレドニア(フランス語: Nouvelle-Calédonie)は、ニューカレドニア島(フランス語でグランドテール Grande Terre、「本土」と呼ばれる)およびロイヤルティ諸島(ロワイヨテ諸島)からなるフランスの海外領土(collectivité sui generis、特別共同体)である。
 ニッケルを産出する鉱業の島である一方、リゾート地でもある。ニューカレドニアの珊瑚礁は世界遺産に登録されている。
 
<概要>
 オーストラリア東方の島で、南太平洋のメラネシア地域にあり、面積は1万8575.5km²(四国ほどの大きさ)である。
 フランス語ではヌーヴェルカレドニー (Nouvelle-Calédonie) と呼び、ニューカレドニアは英語: New Caledoniaから来ている(Caledoniaはスコットランドのラテン語名なので、新スコットランドとなる。ノヴァ・スコシアとは関係ないので注意)。現地語ではカナキー (Kanaky) とも呼ばれる。
 人口は2016年の調査では27万5355人。政庁所在地で人口最大の都市はヌーメア(2014年の人口は9万9926人[2])。
 インターネットの国別コードトップレベルドメインは「.nc」。通貨はウォリス・フツナ、フランス領ポリネシアと共にCFPフランを使用している。主都ヌーメアは、太平洋地域の地域協力機構、太平洋共同体の本部所在地である。
 1985年以降、メラネシア系先住民カナックによる激しい独立運動が行われ、現在では沈静化したが一時は暴動や内戦に近い状態を呈していた。1986年、国連非植民地化委員会 (United Nations Committee on Decolonization) はニューカレドニアを国連非自治地域リストに掲載した。ニューカレドニアは1998年のヌーメア協定で、2014年~2018年の間に行われる国民投票によってフランスにとどまるか独立国になるかを決定することになっている。
 
<地名>
 「カレドニア」とは、今日のスコットランドにあたる地域を指すラテン語名である。一方、カナキー (Kanaky) という名もフランス語、英語、現地の先住民であるカナックの言葉では一般的に使われており、メラネシア民族主義者の間では「ヌーヴェルカレドニー」より「カナキー」のほうが好まれる。
 カナキーという名は、ポリネシア語で「人間」を意味し、ポリネシア人の自称として使われる「カナカ (kanaka) 」から来ている。 カナカという語は後に、フランス人がポリネシア・メラネシアを含めた全ての太平洋先住民を指して使う言葉になった。一方、フランス語化したカナク (Canaque) は侮蔑語として使われていた[3]。
 1960年代から1970年代にかけ、ニューカレドニアのメラネシア系先住民が政党を結成し独立への訴えを開始したとき、侮蔑語だったカナクはメラネシア人の政治的解放と民族の誇りのシンボル的な言葉となった。1983年、政治的混乱がニューカレドニアを襲った時期、カナク (KANAK) とカナキーは政治的な標語となり、カナクという語が政治的主張の強い言葉へと変わったことが広く認識されるようになった。
 
<歴史>
  1774年にキャプテン・クックによって「発見」され、1853年にフランス領となっている。当初は流刑植民地だったが、19世紀後半のニッケル発見後は鉱業の島となった。20世紀後半には独立闘争で島が揺れ、1998年のヌーメア協定で将来に関する合意がなされた。
・先住民族
 西太平洋に人が住み始めたのは5万年前であった。その後パプア諸語の民族がメラネシアに拡散した。他にも、ラピタ人 (Lapita) がメラネシアの島々に移り住んでいる。紀元前1500年、ラピタ人たちは現在のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島に到達し、高度な航海術や農業、土器作りは太平洋の広い範囲に影響を及ぼした。その土器などの痕跡は今もニューカレドニアに残るほか、彼らの前に住んでいた民族による1万年前のペトログリフ(岩刻)も残っている。
 その後、オーストロネシア語族が台湾などを起点にオセアニアに進出している。11世紀ごろ、オーストロネシア語族のポリネシア人がニューカレドニアに到達し、パプア系などの先住民族と混血した。
 ニューカレドニアのメラネシア人は、27のメラネシア系言語とウォリス・フツナ人よりもたらされたポリネシア系言語、合わせて28の言語を有している。その共同体社会は、クラン(clan、氏族)を基本単位にして細分化している。実際の居住は、いくつかのクランが集まり集団(tribu)を構成している。これらの集団において首長権限に違いが出ている。たとえば首島のグランド・テール(Grande Terre)では首長権限は緩やかだが、ウベア、リフー、マレなどのロイヤルティ諸島では、首長支配が強い[4]。
・ヨーロッパ人到達
 ヨーロッパ人のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島到達は18世紀後半のことだった。イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック)が1774年、海上からニューカレドニア本島(グランドテール島)を「発見」し、山の多いスコットランド(カレドニア)を思わせる眺めからニューカレドニアと名づけた。同じ航海で、彼はニューカレドニア北方の島にニューヘブリデス諸島(現在のバヌアツ)と名づけている。
・ニューカレドニアの地図、1888年
 イギリスとアメリカ合衆国の捕鯨業者および白檀(サンダルウッド)貿易商がニューカレドニアに関心を示すようになり、ヨーロッパ人と先住民との間に緊張が高まった。ヨーロッパ人の先住民への接触も次第に不正直なものとなり、高慢な態度と詐欺が横行するようになった。英米人はアルコールやタバコを物々交換の品物に混ぜ、先住民を中毒にした。またヨーロッパ人との接触で天然痘、インフルエンザなどさまざまな疫病が先住民の間に蔓延し多くの人々が死んだ。緊張は敵意に変わり、1849年にはカッター号の船員がポウマ族 (Pouma) に殺され、食べられる事件が起きた。
 白檀貿易が衰退すると、新たな商売が誕生した。ニューカレドニア、ロイヤルティ諸島、バヌアツ、パプアニューギニア、ソロモン諸島などで先住民を捕らえ、フィジーやクイーンズランドのサトウキビプランテーションで奴隷労働をさせる「ブラックバーディング」である。こうした奴隷貿易で島々の社会や文化は荒廃したが、20世紀初頭まで終わることはなかった。
 カトリックやプロテスタントの宣教師がやってきたのは19世紀である。彼らが先住民の文化に与えた効果は重大なものがあった。宣教師は人々に服を着て肌を隠すように言い張り、多くの風習や伝統を根絶やしにしてしまった。
・フランス領有
 ニューカレドニアは1853年9月24日、イギリスのオーストラリア・ニュージーランド領有に対抗しようとしたナポレオン3世の派遣した提督オーギュスト・フェヴリエ=デポワント(Auguste Febvrier-Despointes)によってフランス領と宣言された。同年9月29日、パン島も領有宣言した。1864年には、ロイヤルティ諸島もフランス植民地として組み込んだ。 イギリスのオーストラリア植民の例に倣い、1854年から1922年までの間、有罪を宣告された重罪犯およそ22,000人が、流刑地とされたニューカレドニア島南西岸地域に送り込まれた。この中には通常の凶悪犯もいれば、パリ・コミューンの共産主義者、アルジェリア北部のカビリアで逮捕されたカビル人民族主義者ら政治犯も数多くいた。
 ニッケル鉱山の発見により流刑植民地の時代が終わり、鉱山労働者の需要が増え、ヨーロッパからの自由意志での移住者(前科者なども含む)や日本人などアジア人契約労働者が多くなった。また鉱山で強制労働をさせられる人数も激増した。同時期、先住のカナク人の人口は疫病や、彼らの生計・移動の自由・土地所有を厳重に制限するアパルトヘイトに似た先住民に対する法制 ("Code de l'Indigénat")によって激減していった。
 ガダルカナルへ出撃する米海軍プレジデント・アダムス号、ニューカレドニアは太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点だった
 第二次世界大戦では、ニューカレドニアは自由フランスの側に付いたため、太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点となった。島にはフランスと違うアメリカの文化や物資が豊富に流入した。この出来事は、フランス人支配下であえいでいた現地人には肯定的に受けとめられている。一方、日本人労働者や日系人は「敵性外国人」としてオーストラリアなどへ強制移送された人や、戦中の交換船により日本へ帰国した者や敗戦まで捕虜として収容された者もいた。
・独立闘争
 1985年、先住民文化復興活動の先頭に立っていたジャン=マリ・チバウ(英語版)率いる社会主義カナック民族解放戦線(fr:Front de libération nationale kanak et socialiste、FLNKS)は独立への扇動を行った。ジャン=マリー・チバウらは独立国家「カナキー」の樹立を主張した。FLNKS指導者の暗殺に端を発してカナックによる暴動が始まり拡大し、ニューカレドニア全土に非常事態宣言が出される事態となった。特に1988年4月22日、独立過激派が27人のフランス国家憲兵隊員と1人の裁判官を人質にとってロイヤルティ諸島ウベア島の洞窟に監禁し、4人を殺害した事件が最大の危機となった。この事件は5月、海軍特殊部隊、GIGN、EPIGNなどによる突入で過激派を殺害することで解決したが、特殊部隊側にも犠牲者が出た。なお、GIGNの隊長が1990年に発表した手記によれば、制圧後に無抵抗だった過激派は暴行・射殺され、その事実をフランス政府は隠蔽したとしている[7]。
 動乱の中、フランス政府は1987年に約束どおり住民投票を行い、翌1988年にマティニョン合意が成立し自治拡大が約束された。合意を結んだジャン=マリー・チバウは独立過激派により1989年に暗殺されてしまいFLNKSは混乱に陥っている。
 この後も自治への運動や協議が行われ、1998年にはヌーメア協定が結ばれた。この協定では住民への権限譲渡プロセスを「不可逆なもの」と位置づけ、フランス市民権とは別の「ニューカレドニア市民権」を導入すること、ニューカレドニアのアイデンティティを表す公的なシンボル(ニューカレドニア「国旗」など)をフランス国旗とは別に制定すること、フランス政府がニューカレドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡し、最終的には外交、国防、司法権、通貨発行以外の権限はニューカレドニアに全面的に譲渡されること、2014年から2018年にかけてのいずれかの時点で独立かフランス残留かの住民投票を行うこと、などが定められた。
 

もっと知りたい「ニューカレドニア」

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2018/02/05 世界遺産・屋久島の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2009.02.21~02.28)


 旅程マップ         樹齢3,000年の紀元杉!   白谷雲水峡の2代大杉!  ヤクスギランド!


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屋久島の概要

 <洋上のアルプス>
九州本土の南端、佐多岬の60Km程南にあって淡路島より少し小さい島ですが、九州一高い1936mの宮之浦岳がそびえる山の島です。海岸からそそり立つ山々は屋久杉をはじめ、さまざまな樹木におおわれており、島の90%が森林です。  サンゴ礁には熱帯魚が遊び、砂浜にはウミガメが産卵に上陸します。それでも、山頂には雪と氷の冬が訪れます。屋久島は亜熱帯の海にそびえる雪山の島なのです。  山々に降る多量の雨と輝く太陽が、豊かな森を育てました。海と山、森と水、そして雨と太陽がひとつになって、表情豊かな屋久島の自然をつくり出しています。  はるか縄文の昔から人々は森に暮らし、黒潮の海に乗り出して生きてきました。あふれる自然は恵みとともに、多量の雨と激しい風をもたらします。屋久島には、激しくも豊かな自然とともに生きる人々の知恵が蓄えられているのです。
 
<屋久杉ってなあに?>
●屋久杉はスギ  屋久島の標高500mを超える山地に自生しているスギを屋久杉と呼んでいます。秋田杉や立山杉、北山杉、魚梁瀬杉などもスギの地域名称です。スギはスギ科スギ属の樹木で、屋久島から青森県の津軽半島にかけて分布している日本の特産種といわれています。  
 屋久杉が育つ森林は、残された最大のスギ群落です。世界遺産登録に際しても、日本の自然景観の重要な要素であり、固有植物であるスギのすぐれた生育地と評価されています。  スギはまっすぐで軽く、加工しやすい木材として縄文時代から利用されてきました。また、御神木や並木などとして親しまれてきた樹木です。  日本人にとって身近であったスギだけに、自然林は多くは残されていません。屋久杉は日本の森林のなりたちを教えてくれる貴重な自然のスギなのです。
●長命な屋久杉 
 スギは5百年余りが平均的な寿命といわれていますが、屋久杉では2千年を超える巨木が見られます。新鮮な水に恵まれながら、栄養が乏しい花崗岩の山地に育つ屋久杉はたいへん成長が遅いスギです。  屋久杉自然館展示の屋久杉は1660年で直径が180cm余りですが、500年のときの直径が40cm程しかありません。日光の杉並木の例では、360年程で150cmを越えるものが多数あります。  ゆっくり育つ屋久杉は材質が緻密で樹脂分が多く、腐りにくいので長生きすると考えられています。成長は遅いのですが、スギとしては長命なの で巨木になるといえるようです。
●屋久杉と小杉 
 屋久島では、およそ1000年を超える杉をとくに「屋久杉」、若い屋久杉を「小杉」と 呼んでいます。  江戸時代には、真っすぐな屋久杉を選んで抜き切りしました。伐採跡の明るい場所に次の世代がたくさん育ちました。切り株更新という現象です。樹齢数百年の「小杉」の多くはこうして誕生したものです。  豊富な日照を得て成長が早いのが特徴で、のびやかなスギらしい姿をしています。
 これに対して1000年を超える「屋久杉」は、人間が手をつける以前に誕生したものといえます。  伐採跡に育った「小杉」に比べて光に恵まれず、 成長が遅く木目が詰まっています。  現在みられる「屋久杉」の多くは凹凸が激しく利用しにくいので切り残されたもので、縄文杉や紀元杉など名のある巨木が代表的な例です。  現在見ることができる屋久杉は、小杉の大群と利用に不適として切り残された異形の巨木ということになります。  

もっと知りたい「屋久島」

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2018/01/15 羅平の菜の花畑と元陽の棚田の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2009.02.21~02.28)


 旅程マップ         双龍橋           元陽の村の風景!     可愛い部族の子供!


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羅平の菜の花畑と元陽の棚田の旅の概要

 <吉岡範明さんのホームページ「旅いつまでも」より抜粋>

 「羅平の菜の花畑」については写真を見てこれは凄い!と引き込まれた。見渡す限りの黄色いジュータン!是非写真に撮りたいと気持ちが動いた。
 聞けば最近この羅平は菜の花の名所として一躍有名になって中国国内は勿論、海外から多くの写真愛好家が訪れるようになったとか。
 2-3月が花の最盛期で同じ行くならこの時期でなければならない。
 見渡す限りの葉の花風景も平面的な美しさはあるが、金鶏山のようなカルスト地形の中に見る花畑や牛街のように幾何学的模様の花畑など多面的な美しさも素晴らしい。羅平ならではの風景に感動した・・

 「元陽の棚田」については以前から話はよく聞いており、インターネットでもその素晴らしい写真など見ることが出来た。
 こちらも棚田に水が引かれたこの時期が適期である。写真愛好家必見の地である。
 行ってみて驚いた!余りに沢山の観光客!1,000人を越すカメラマン!早朝から夕暮れ時までシャッターを切る音が絶えない。
 認識を新たにしたのが、ただ棚田の風景だけと思っていたが、中々奥が深い!朝日に輝く水面、夕暮れ時に紅色に染まる風景、雲海の下に広がる雄大な景観・・、時間帯や見る角度、天候や季節によって様々な表情を見せてくれる。
 まるで水田が生き物のように光り輝やくのだ。限られた時間の中でどのシーンに出会うことが出来るのか・・天候状況を含めてカメラ運!である。オーロラ撮影と同じようにリピーターが多いことがうなずける。
 写真を撮ることは難しいが楽しい!旅をする楽しさが倍増する・・

 今回は菜の花と棚田だけではなく雲南省に多く住んでいる少数民族の生活を見る機会があってよかった。
 朝市の風景やそれぞれの部族の民家訪問など面白かった。中国全土で55の少数民族がいるがその内雲南省には半数に近い25の部族が住んでいる。
 それぞれが独特の文化や習慣を持って生活していることに興味をひく。
 民族衣装一つを見ても部族それぞれに異なっている。外に出ている時は美しい民族衣装が普段着だという。自分たちの文化に誇りを持っていることが素晴らしい・・。
 面白い少数民族・サニ族の風習を一つ紹介しよう。石林を中心に雲南省最大の少数民族で人口約300万人と云われているが、そのサニ族の帽子は、上部両端に角が2本あよいが、角に触った男は結婚しなければならない!し、結婚したらその地を出ることが許されないと言う。男性はご注意ください!真偽のほどは分からないが変わった話だ・・
 
 中国と一口で云っても一つの中国ではない。56の国と同じ文化があるに等しい。全人口の82%は漢民族であり、大半は同じ一つの文化を持っているが、国(政府)が残りの少数民族を認めていることが素晴らしい。
 それだけ旅行者にとっては面白味が大きくなる。私自身は西部地域の雲南省や四川省や貴州省が大好きである。まだまだ未開発の大自然も多く残っており、また少数民族の文化や素朴さ、純真さに大きく引かれるのである。
 大中国を語るにはまだまだ時間が必要である・・
 
 今回の旅で世界遺産は「石林」のただ一つであった。
 元陽の棚田は現在申請中だそうだが、早晩登録の可能性は大きいだろう。世界に誇れる規模であり、少数民族の長年の手造りによるその光景には感動する。
 さて、世界遺産「石林」はカルスト地形の石柱群で林立する石柱があたかも森のようだという所から名前が付いたようだ。「天造奇観」2007年に世界遺産に登録されている。
 一日の観光客が1万人を越すと云われるほど大人気のスポットである。当日も凄い人で押し合いへし合い割り込みなどでゆっくり見るような雰囲気にはない。
 此処で気になったのは大きな石には文字が彫りこまれていることだ。正面に「石林」と赤字で彫りこまれている。
 この石だけではない彼方此方にも加工がなされているのは如何なものか!自然遺産は自然な状態で保存すべきであり、決して人工的な手を加えてはならないと思うのだが・・。日本人の感覚と中国人の感覚のずれにいささか驚いた・・  
 
 雲南省に来て最初から、少数民族の女性はよく働く!という印象を強くした。畑で働いている人や物を運んでいる人、家畜の世話をしている人など働いている人を見ると殆どが女性である。
 男性は?というと座り込んで、バズカー砲のような大きな竹の筒に顔をくっ付けてなにやらしているのだ。
 後で分かったがこれは煙草を吸っていたのだ。この雲南省で見かける独特な「水煙筒」という吸煙器具である。他では見かけない珍しいものだ。
 大きな竹筒の底には水が入っており、筒の下方に出た雁口に刻み煙草を詰め、火を付けて吸う。薫煙は水の中を通りろ過されて体に優しいマイルドな味になるという。
 上方の筒に口を付けて吸い込むがコツが必要なようだ・・。
 市場に行けばタバコ屋があり、刻み煙草を量り売りしている。まとめ買いしなくても時間制限で色んな煙草が吸えるそうだ。雲南省で見かける独特な煙草の吸い方!であった。 
 
 雲南省の生活情報については前回の旅で触れているので割愛するが、やはり気になるのは一人っ子政策の その後である。
 前回も書いているが1,979年に始まったこの政策は実施後30年を迎えている。この政策には世界から大きな反響があり多くの論議をよんだ。
 世界最大の人口国としては、人口抑制という制度の効果は、1,970年代の出生率5~6%が1,992年に1.84%まで低下していることから認められるが、逆に高齢化率は上がり2,030年には65才以上の老齢人が15%を越す問題を生んだ。
 これら一人っ子政策による様々な問題については改革が迫られているが、その後の一部見直しでは一人っ子同士の結婚では第2子の出産を認めている。
 政府として一人っ子政策を放棄したわけではなく、政策に協力する家庭には奨励策として教育や医療、住宅などへの優遇方針を出している。
 大中国が抱える大きな問題の一つである・・           
 
 今回の旅もまた面白かった!いろいろ想像を越える環境の中での文化や大自然の雄大さに触れることができ、考えさせられたり刺激を受けることができた。
 やはり世界を歩き新しい文化を見て体験して感じることができる喜び・・・これが生きているという実感に繋がるのである。やはり旅は楽しい!      

もっと知りたい「羅平と元陽」

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2018/01/01 まるごとマレーシア縦断の旅


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 (旅行日)  (2008.12.05~12.10)

 旅程マップ         ペナン島ジョージタウン   クワランプールのツインタワー!    高原リゾート地キャメロンハイランド!



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マレーシアの概要

<マレーシアの概要>
 南にアジアの金融センターであるシンガポール、北に東南アジアの工場と言えるタイに挟まれたマレー半島の中心に位置するマレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部から成り立っています。面積は日本の9割弱であるものの、人口は約3,000万人と日本の4分の1ほどになっています。国教はイスラム教ですが、仏教徒やキリスト教徒、ヒンドゥー教徒も一定数おり、民族もマレー系、華人系、インド系、その他の民族と多種に及ぶ多民族国家です。公用語はマレー語ですが、中国語や英語も広く使われています。首都のクアラルンプールはバンコクに並ぶアジア有数の大都市圏を形成しています
 世界中からの非常に大きな移民コミュニティのすべてに関連づけられる固定観念、たくさんの左翼政治家、おいしい食べ物、そして連邦の他地域に向かって漠然と横柄(または気づかない)な態度を取る、これが本当の東海岸地域である。また、長い大西洋岸は、域内がヨーロッパと、旅行、文化、そして商業の面で、強い絆で結ばれている事を物語っている。

<マレーシアの地理及び気候>
 マレーシアはシンガポールの北に位置し、赤道に近いため熱帯雨林気候に属しています。そのため、一年を通じて常夏の気候となっています。年間を通して気温は高いのですが、マレー半島とボルネオ島、マレー半島でも西海岸、東海岸では、特に雨期と乾期の時期が異なっています。首都であるクアラルンプールの気温と降水量のグラフは下記になります。雨期乾期があると言っても乾期にも雨は降りますし、雨期と言っても常に土砂降りと言うわけではなく、季節によってそこまでの違いはないのも特徴です。


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2017/12/18 アメリカ東海岸・三大ミュージアム巡りの旅


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 (旅行日)  (2008.09.13~09.18)

 旅程マップ         世界遺産・自由の女神!   議会議事堂!       スミソニアン・航空宇宙博物館!



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アメリカの東海岸の概要

 アメリカの東海岸は、ニューイングランド、中西部、南部、そしてカナダのオンタリオ州とケベック州と隣接しているため、その文化圏と最も広く融合している。それゆえ、個々の州、特に都市は、強いそれぞれのアイデンティティを持ち、その地元住民は、総じて東海岸で持たれるアイデンティティよりも、ニューヨーク市のトライステート地域、D.C.首都圏、ペンシルバニア州農村部、ニュージャージー州南部等のような主要な小地域ごとのアイデンティティを持つことになる。
 中部大西洋地域の重要性と地域の人口に応じてだけでなく、なお国内すべても引きつける大都市のために、高い人口密度となっている(動く項目を参照)。アメリカ合衆国の大都市圏のベスト10の3つは、域内で互いに1時間ないし1時間半の運転距離間隔のニューヨーク、フィラデルフィア、そしてワシントンD.C.である。これらの首都圏は、この地域の土地面積のかなりの部分を占める、都心から放射状に広がる不規則な広大な都市で構成されている。その非常に大きな人口により、道路が混雑し、ビーチがよく利用され、遊歩道は踏み固められる事になる。
 世界中からの非常に大きな移民コミュニティのすべてに関連づけられる固定観念、たくさんの左翼政治家、おいしい食べ物、そして連邦の他地域に向かって漠然と横柄(または気づかない)な態度を取る、これが本当の東海岸地域である。また、長い大西洋岸は、域内がヨーロッパと、旅行、文化、そして商業の面で、強い絆で結ばれている事を物語っている。
 これらの大都市以外の地域は、たくさんの名所があるにもかかわらず、はるかに少ない頻度で国際的な観光客の訪問があるが、チェサピーク湾は真の世界の宝物であり、エコロジー、セーリング、または魚介類に興味がある人々に惜しまれるべきでなく、美しい自然のままのアディロンダックス (Adirondacks) は米国本土で最大の公園面積を有しており、ゲティスバーグやアンティータムのような最も重要な南北戦争の戦場の一部がここにあり、ナイアガラ・フォールズ市は世界の壮大な自然の驚異のひとつであり、アパラチア・トレイルはハイカーの夢である。


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2017/12/04 インド最奥の地・花の谷への旅


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 (旅行日)  (2008.07.12~07.20)

 旅程マップ         花の谷を求めて・・     幻のブルーポピー!    谷間のテント村!



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インドの概要

 インドの国家概要です。人口11億人は中国に次いで世界第二位であり、平均寿命も上昇傾向(直近統計で63.1歳)です。国連の人口統計では2030年頃に中国を抜いて世界一の人口になると推計されています。
 しかしBRICs諸国の中でも、最も経済発展の遅れているのがインドです。道路や上下水道、電気などの社会インフラは、一部の大都市以外ではほとんど行き渡っていないのが現状です。ムンバイなどの大都市では、平均月収が3万円近くになると言う統計もありますが、地方との格差はきわめて大きく、納税者が全人口の1%程度しかないという統計もあるくらいです。2003年度の国民一人あたりのGNI(所得)はわずか540ドルに過ぎず、これは世界でも159位という低さです(ちなみに日本は34180ドルで7位、1位はルクセンブルグの45740ドル)。
 貧困層の数がとても多く、失業率も50%を超えると言われており(インド自身も、戸籍等の不徹底により完全な統計は把握できていない)、中国やロシアなど「先進国」と呼んでも過言ではない国々と同列に扱うのは不適切だと言う声もある位です。しかし、耐久消費財すら満足に揃っていない訳ですから、逆に考えれば、インドは世界でも最も有望な、成長性の見込まれる市場だともいえるのです。
 インドの公用語はヒンディー語ですが、英語も「第二母国語」と言える位に広く普及しており、南部の都市では英語の方が主流になっています。そして、英語を使いこなせる事が、インド人が世界のビジネスシーンに進出しやすい根源となっています。近年ではIT分野を中心に、先進国の大企業に勤めるインド人が急増しています。



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2017/11/20 ブルガリアとルーマニアの旅


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 (旅行日)  (2008.06.02~06.09)

 旅程マップ        世界遺産・トラキア人の墳墓  世界遺産・ボヤナ教会   贅を尽くした国民の館



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ブルガリアとルーマニアの概要


<ブルガリアの概要>
1 概要
地 理: ブルガリア共和国(Republic of Bulgaria) は,ヨーロッパ大陸の東南端,バルカン半 島の東寄りに位置し,ヨーロッパと小アジ ア 半 島 の 接 点 に 位 置 す る 。 総 面 積 は 110,993.6平方キロメートルで,日本の面 積の 3分の 1よりやや小さい。
面 積:11万 k㎡(日本の約 1/3) 人 口:725万人(2012年,IMF) 首 都:ソフィア市 民 族:スラブ系ブルガリア民族(約 85 %) トルコ系(約 9 %),ロマ人(推定約 5%) 言 語:ブルガリア語 宗 教:ブルガリア正教,イスラム教 国祭日:3月3日(オスマントルコからの解放記念日) GDP:396億6705万ユーロ(名目GDP), 272億6873万ユーロ(実質GDP) 一人当たりのGDP:5436.06ユーロ インフレ率:2.4% 主要産業:農業,製造業,IT・アウトソーシング,観光業 貿 易:輸出―207億7020万ユーロ,輸入―242億3040万ユーロ
2 歴史
 現在のブルガリアの地には古代トラキア人が最初に定住し,世界最古の黄金文明を築 いたとされる。
 その後ギリシャ,マケドニアが勢力を拡大し,紀元前1世紀にはローマ 帝国が台頭した。
 7世紀,中央アジアからブルガール族が侵入し,スラブ人と同化して, 第 1次ブルガリア王国を建設した(681年)。
 同王国はシメオン1世(893~92 7)の治世下で最盛期を迎えたが,ビザンツ帝国に滅ぼされた。
 その後,ビザンツ帝国 支配(1018~1185年),第 2次ブルガリア王国(1185~1393年)を経 て,ブルガリアはオスマン・トルコ帝国に約500年間支配された。
 15~19世紀の 民族復興時代にはオスマン帝国からの解放を求め様々な反乱が起こるがいずれも失敗し た。
 露土戦争(1877~78年)の結果,ロシアがオスマン帝国に勝利し,ブルガリ アはオスマン帝国の支配から解放された。第一次・第二次バルカン戦争(1912~1 913),両世界大戦を経て,1946年には王制を廃止し共産党一党独裁の時代に入 り,旧ソ連とは16番目の共和国と言われるほどの親密な関係を築いた。
 その後198 9年に35年間政権を握ったジフコフ共産党書記長が辞任,共産党独裁体制が崩壊した。
 1991年には東欧諸国では初の民主的な憲法が制定,各種選挙が実施され,民主制へ の移行を果たした。
 1990年代はハイパー・インフレの発生等による経済状況の悪化 や経済政策等の失敗による頻繁な政権交代のため政治的・経済的に混乱したものの,2 004年にはNATO(北大西洋条約機構),2007年にはEU(欧州連合)への加 盟を果たした。
 
 <ルーマニアの概要>
 中欧で唯一ラテン民族の血筋を引いている。人々は陽気で明るく、開放的であたたかい国民性を持つ。
 国土の中央にあるトランシルヴァニア盆地を囲んでカルパチア山脈、アプセニ山脈が連なり、その周りには平原が広がっている。セルビアからブルガリア国境に沿って流れるドナウ川は、ルーマニア東部で黒海に流れ込む。
 ドナウ川の北に広がる大平原がワラキア地方で、「ルーマニア人の土地」を意味する「ツァラ・ロムネスケア」と呼ばれ、ルーマニアにとっては大切な場所と考えられてる。ワラキア地方の元になったのは、中世に生まれたワラキア公国。南のオスマン朝、北のポーランド王国やハンガリー王国、のちのハプスブルグ帝国やロシア帝国など数々の強国に翻弄されながらも、独自の文化を守り続け、現在のルーマニアの礎になった。
 第2次世界大戦後は、チャウシェスク独裁の舞台になり、共産化、都市計画の名のもとに歴史的な建造物が破壊された。
 ルーマニアは中世と現代が混在している。町をちょっと離れれば、荷馬車がわらを運び、犬を連れた羊飼いが羊を追う風景が広がり、古くからのしきたりや、習慣が守り続けられている。トランシルヴァニア地方には、ドラキュラ城のモデルになったブラン城や、かつてルーマニア王の夏の離宮だったペレシュ城があり、各都市は今も中世の古い町並みが息づいている。
 一方、黒海沿岸はリゾート地としてにぎわい、細かい白浜、遠浅の海岸を目当てに夏には200万人の人々が訪れる。黒海の泥が美容によいとされている。黒海沿岸北部には、ヨーロッパ最大の湿原地帯のドナウデルタがある。クルーズなどで、多様で濃密な自然観測ができる。
 ルーマニアはアンチ・エイジング(老化防止)の先進国で、治療としてアンチ・エイジングを行こなわれている。

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2017/11/06 白い大陸・南極への旅


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 (旅行日)  (2008.01.10~01.25)

 旅程マップ         白い大陸・南極!     ポートロックロイ上陸!  ゾディアックボートで上陸



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南極の概要


 南の果て。南極大陸というでっかい大陸がある氷山地帯。南極条約により、南緯60度以南の領有権主張は凍結されており、実質どこの国の領土でも無い。
 寒い時は内陸部ではマイナス50度を超える極寒の地だが、海岸部にはこんな場所にも生物は生息している。有名なのはペンギンで、アデリーペンギンやコウテイペンギンなど、8種類のペンギンが生息している。他、海にはクジラの仲間やアザラシ、オットセイなどの哺乳類が生息しており、それらの生物の重要な餌となっているのが、ナンキョクオキアミである。
 南極大陸にたどり着くには「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度」と呼ばれる荒れる海を越えることになる。 現在は地学・生物学研究のための基地が設けられている一方、南極条約により資源の採掘は行われていない。後述するタロとジロの話はよく知られているが、現在は南極の生物へ感染症を広めないようにするため犬などの動物は南極へは持ち込み禁止になっている。南半球の冬至(北半球では夏至)には各基地では士気の維持も兼ねてミッドウィンター祭というお祭り騒ぎが行われる。
 

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2017/10/23 雲南省大自然の旅


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 (旅行日)  (2007.10.11~10.25)

 旅程マップ         天上の湖!濾沽湖遊覧    玉龍雪山の峰峰       玉泉公園の風景・・



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雲南省の概要


 熱帯・亜熱帯に属し、雨季と乾季に分かれている。特にタイ族の住む西双版納(シーサンパンナ)の熱帯風景は有名。
 豊富な自然資源に恵まれ、「植物の王国」、「動物の王国」、「非鉄金属の王国」、「漢方薬材の里」という美名がある。
 カルスト地形が広がり、雲貴高原の中心を占める。東部には石林と呼ばれる奇景がある。
 高度差が3千メートル以上ある地帯が広がり、植物の種類が豊富で垂直分布がはっきりしており、植物の王国と呼ばれる。
 山間の盆地を中心に農業が発達し、主要な農産物に米、サツマイモ、茶、煙草、ゴム、バナナ、パイナップル、漢方薬などがある。プーアル茶や雲烟(高級巻きたばこ)は有名な特産品。
 省都の昆明は四季を通じて春のような気候で、春城の異名がある。
 省名は雲嶺(四川省との境の山地)の南にあることから。
 市内には怒江、瀾滄江、金沙江などの河がある。
 

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2017/10/09 極北の地・グリーンランドとアイスランドの旅


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 (旅行日)  (2007.06.19~06.30)

 旅程マップ        極北の海に浮かぶ巨大な氷山  ゲイシール!       ヴィーティの丘・・



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グリーンランドとアイスランドの概要

<グリーンランドの概要>
 北アメリカ北東部にある世界最大の島。デンマーク領。大部分は厚い氷雪におおわれている。住民は主に南西海岸にイヌイットのほか,デンマーク人が住む。中心都市はゴットホープ。タラ・ニシンなどの漁業が主産業。面積218万平方キロメートル。
 
 グリーンランドの歴史は、10世紀に始まると言ってよい。この頃に、アイスランドのヴァイキングがグリーンランドを発見・移住したためである。これ以前にも先住民族の居住があったとは思われている。ヴァイキングも島の南西岸に定住を行ったが、16世紀までにそれらの定住地は消滅した。18世紀にはキリスト教布教などを目的にヨーロッパ人による再上陸が行われ、デンマーク=ノルウェー連合王国領となった。その後、デンマーク領となったが、第二次世界大戦中にデンマーク本国がナチスに占領されたことに伴い、アメリカ合衆国に保護された。そのため、独自性が強まり、戦争後にデンマークに主権が返還された後、1953年に植民地から海外郡に昇格、1979年以降は自治領となっている。1985年にはデンマーク領でありながら欧州共同体から離脱している。
 
<アイスランドの概要>
 大西洋北部にあるアイスランド島を領土とする共和国。首都レイキャビク。原住民やエスキモーはいず、800年頃ノルウェーから修道士が渡った。のちノルウェー・アイルランド・スコットランドから入植者が来、ノルウェー王が宣教師を多く送り、1000年頃キリスト教が国教になる。ノルウェー領からデンマーク領になり、カトリックは衰え、1550年ルーテル教会が確立、1874年に国が自治権を得、同教会が国教会となり今に及ぶ。1918年デンマークから独立、1944年共和国。宗教の自由は保障されているが、98%がルーテル教会。  


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