本文へスキップ

「出会いがある……校友会」「更に広げよう……同窓の輪」

2016/12/19 極北のカナダ・オーロラ大自然の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2004.01.23~01.27)

 旅程マップ                   オーロラ


 *クリックして、「極北のカナダ・オーロラ大自然の旅」をご覧ください!


極北のカナダの概要

 カナダは、北アメリカ大陸北部に位置し、アメリカ合衆国と国境を接する。
 首都はオタワ(オンタリオ州)。世界で2番目に大きい面積の国土を持つ。
 歴史的に先住民族が居住する中、外からやってきた英仏両国の植民地連合体として始まった。その後イギリスからの独立プロセスが1867年に動き出し、1931年、ウエストミンスター憲章によるカナダ独立の承認を経て、1982年カナダ法及びカナダ憲法制定により、独立プロセスは終了した。
 この過程においてアメリカと政治・経済両面での関係が深まった。
 第一次世界大戦のとき首都にはイングランド銀行初の在外金準備が保管され、1917年7月上旬にJPモルガンへ償還するときなどに取り崩された。1943年にケベック協定を結んだ(当時のウラン生産力も参照)。
 1952年にはロスチャイルドの主導でブリンコという自然開発計画がスタートしている。結果として1955年と1960年を比べて、ウラン生産量は約13倍に跳ね上がった。
  立憲君主制で、連邦政府の運営は首相を中心に行われている。
 世界の先進7ヶ国(G7)および主要8ヶ国(G8)の一国。1992年、北米自由貿易協定(NAFTA)に加盟し、メキシコを含む北米3国間での交流も促進された。

もっと知りたい「カナダ」


*クリックして下さい!リンクします!





2016/12/05 パキスタンの秘境・フンザの紅葉大自然の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2003.10.10~10.20)

 旅程マップ                 パキスタンの秘境・フンザ


 *クリックして、「パキスタンの秘境・フンザの紅葉大自然の旅」をご覧ください!


パキスタンの秘境・フンザの概要

 フンザ は、パキスタン・イスラム共和国北西部ギルギット・バルティスタン州のフンザ=ナガル県に位置する地域。広義では、藩王が1974年まで支配していたフンザ藩王国、狭義ではその王都があったカリーマーバードを指す。
 北で中華人民共和国、北西でアフガニスタンとの国境と接し、面積10,101平方キロメートル。
 中国のカシュガルへ向かうカラコルム・ハイウェイ沿いに、観光ホテルや安宿の集まるカリーマーバード、ゴジャールにあるパスー村、グルミット村などの集落が点在している。
 ワハーン回廊へは、カランダル峠、イルシャード峠で夏期のみ連絡されている。
 また、ワフジール峠でバダフシャーン州(アフガニスタン)とタシュクルガン・タジク自治県(中華人民共和国新疆ウイグル自治区 カシュガル地区)が連絡されている。


もっと知りたい「パキスタンの秘境・フンザ」


*クリックして下さい!リンクします!







2016/11/21 U.S.A・Yellowstone N,P Drive Trip大自然の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2003.08.26~09.04)

 旅程マップ               キャニオン・カントリー


 *クリックして、「U.S.A・Yellowstone N,P Drive Trip大自然の旅」をご覧ください!



イエローストーンの概要


 イエローストーン地区は北アメリカ大陸最大の火山地帯である。巨大カルデラの形成を伴う超巨大な噴火が約210万年前、約130万年前、約64万年前の計3回起こり、それ以外にも小規模な噴火は約7万年前まで続いていた。
 現在でも地下には非常に大量のマグマが溜まっており、近い将来(数十万年以内)にまた破局噴火を起こす可能性が高いとされている。最後の破局噴火は64万年前であるが、その噴火は比較的小さな噴火であったにも拘らず、セント・ヘレンズ山の1980年の噴火の1000倍のマグマが噴出し、火山灰の地層はメキシコ湾に達する範囲で観察されている。現在 マグマが噴出している場所はないが、地震が活発化しており、この10年間で公園全体が10cm以上隆起し、池が干上がったり、噴気が活発化するなど危険な兆候が観察され、新たに立ち入り禁止区域を設置したり、観測機器を増設したりしている。アメリカ地方紙デンバーポストは、米国地質監査局のリーズ地質科学者が、イエローストーン公園内の湖の底で高さ30m以上、直径600m以上の巨大な隆起を発見したと伝えている。
 2015年に発表されたユタ大学の研究では、イエローストーンの地下20kmから50kmまでには約4.6万km3のマグマだまりがあり、一部の研究者が地下1800マイルの地球の核から直接マグマを供給すると考える、地表から60kmまでに達するホットスポットプルームとつながっている。そのマグマだまりに貯蔵されたマグマは、カルデラ直下にある別のマグマだまり(1万km3m)に入る。これらの推定は、研究者がそれまで知られていたものよりも深い場所にあるマグマだまりに原因があると考えていた、イエローストーンから毎日放出されていた45tもの二酸化炭素の説明において重要である。
 ユタ大学イエローストーン火山観測所のボブ・スミス所長によれば、超巨大噴火が起きた場合、イエローストーン国立公園は完全に消えてなくなるという。
 イギリスの科学者によるシミュレーションでは、もし破局噴火が起きた場合、3〜4日内に大量の火山灰がヨーロッパ大陸に着き、米国の75%の土地の環境が変わり、火山から半径1000km以内に住む90%の人が火山灰で窒息死し、地球の年平均気温は10度下がり、その寒冷気候は6年から10年間続くとされている。
 イエローストーン国立公園を乗せた北アメリカプレートは南西方向に一年間に約4センチメートル移動している。そのため南西方向にたくさんの噴火口跡ができている。最古の噴火口は1800万年前のものである。。
 2014年には、1900回以上の地震を記録した。

もっと知りたい「イエローストーン」


*クリックして下さい!リンクします!







2016/11/07 南部アフリカ大自然の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2003.06.07~06.14)

 旅程マップ               ボツワナのチョベ国立公園


 *クリックして、「南部アフリカ大自然の旅」をご覧ください!



南部アフリカの概要


 アフリカは、文化圏および人種の違いからサハラ砂漠の南北で大きく2つに分けられるが、南部アフリカは、南側のブラック・アフリカ(サブ・サハラ・アフリカ)に入る。中部アフリカ南部のコンゴ盆地よりも南側に位置する緩やかな丘陵地帯以南(おおよそ南緯10度以南)が、南部アフリカと呼ばれる地域である。地理的に、大陸の東方にあるマダガスカル島などを含む場合もあるが、文化圏や自然体系の観点から見て、共通点は少ない。

 南部アフリカの気候は、大半が乾燥ステップ気候で、ケープタウン周辺の最南端部が地中海性気候である。南部アフリカの民族に注目すると、元々コイサン語族の土地だったこの地に、まず北からバントゥー系民族が南下、続いて、南からオランダ人移民の子孫(アフリカーナー)がイギリスに追われて北上したという歴史を経て、現在では各民族の居住エリアは入り組んだ状態で存在する。

 なお、この南部アフリカ (Southern Africa) という地域を指す用語と、その地域の一部を領有する国の名である南アフリカ (South Africa) とは、明確に区別して使い分けられているので注意を要する。

 地域の分け方にさまざまな方法があるため、この地域にあるとされる国についても諸説あるが、一例を示すと以下のようになる。
 •アンゴラ•ザンビア•ジンバブエ•スワジランド•ナミビア•ボツワナ•マダガスカル•マラウイ•南アフリカ共和国•モーリシャス•モザンビーク•レソト•コモロ

南部アフリカ開発共同体

 この地域を中心とする14カ国は、南部アフリカ開発共同体 (略称 SADC)を結成し、経済発展に対する協力体制をとっている。現在の加盟国は以下の通りである。
 •アンゴラ•コンゴ民主共和国•ザンビア•ジンバブエ•スワジランド•セーシェル•タンザニア•ナミビア•ボツワナ•マラウイ•南アフリカ共和国•モーリシャス•モザンビーク•レソト
 このうち、アンゴラとコンゴ民主共和国は、中部アフリカ諸国経済共同体にも重ねて加盟している。セーシェルとモーリシャスは、マダガスカルと同様、インド洋上の島国であり、地域としての南部アフリカには含まない場合も多い。

もっと知りたい「南部アフリカ」


*クリックして下さい!リンクします!







2016/10/24 西オーストラリア大自然の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2003.04.23~04.30)

 旅程マップ                      美しいバース


 *クリックして、「西オーストラリア大自然の旅」をご覧ください!



西オーストラリアの概要


 18世紀末期における最初のイギリスの植民までの少なくとも4万年の間[6][7][8]、オーストラリアにはおおよそ250の言語グループに分類される言語話者のオーストラリアの先住民が居住してきた。

 1606年におけるオランダ人探検家によるヨーロッパのオーストラリア大陸発見後、1770年にイギリスがオーストラリアの東半分を領有主張し、1788年1月26日からニューサウスウェールズ州の植民地に初めて流刑を通じて定住が開始された。
 その後の数十年間で同大陸の調査が行われ、人口は着実に増加し、さらに5つの自治王領植民地が設立された。
 1901年1月1日、6つの植民地が連合し、オーストラリア連邦を形成した。
 連邦制以後、オーストラリアは6つの州及びその他特別地域から成る連邦議院内閣制及び立憲君主制の役割を果たす安定した自由民主主義の政治体制を維持してきた。
 2360万の人口は、高度に都市化された東部の州及び沿岸部にかなり集中している。[

 オーストラリアは先進国かつ世界で最も裕福な国の1つであり、世界第12位の経済規模を有する。
 2014年、同国の一人当たりの国民所得は世界第5位であった。同国の軍事支出は世界第13位である。
 人間開発指数は世界第2位で、クオリティ・オブ・ライフ、保健、教育、経済的自由、自由権及び政治的権利の保護のような国家業績の多くの国際比較において、同国は高位に順位付けられる。
 同国は国際連合、G20、イギリス連邦、ANZUS、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関、アジア太平洋経済協力及び太平洋諸島フォーラム加盟国である。

もっと知りたい「オーストラリア」


*クリックして下さい!リンクします!








2016/10/10 南米・情熱のアルゼンチンとブラジル大自然の旅


世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  (2003.03.21~03.31

 旅程マップ              イグアスの滝


 *クリックして、「南米・情熱のアルゼンチンとブラジル大自然の旅」をご覧ください!



アルゼンチンの概要


 アルゼンチン共和国、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。
 西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面する。
 ラテンアメリカではブラジルに次いで2番目に領土が大きく、世界全体でも第8位の領土面積を擁する。首都はブエノスアイレス。

 チリと共に南アメリカ最南端に位置し、国土の全域がコーノ・スールの域内に収まる。
 国土南端のフエゴ島には世界最南端の都市ウシュアイアが存在する。
 アルゼンチンはイギリスが実効支配するマルビーナス諸島(英語ではフォークランド諸島)の領有権を主張している。
 また、チリ・イギリスと同様に南極の一部に対して領有権を主張しており、アルゼンチン領南極として知られる。

 2005年と2010年に債務額を大幅にカットする形で債務交換を強行し、9割以上の債務を再編した。これはアメリカ合衆国との国際問題に発展した。

ブラジルの概要


 南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。
 南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。
 ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で7番目の経済規模でもある。
 
 ブラジルは全体的に低緯度(北部は赤道直下)で、尚且つ海流等の影響もあり気候は大変温暖であり、ポルトガルによる植民地支配が厳格化する17世紀半頃までは、殆どの原住民は男女とも全裸に首飾り等の装飾品を付けた状態で生活していたという。

もっと知りたい「アルゼンチン」「ブラジル」


 *クリックして下さい!リンクします!







2016/09/26 チュニジアの旅

  世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
  スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  2003.1.10~1.17

  旅程マップ                   エル・ジェム円形闘技場


*クリックして、「チュニジアの旅」をご覧ください!



チュニジアの概要


 地中海からサハラ砂漠まで変化に富んだ自然の中に、カルタゴ遺跡や古代ローマ遺跡が残り、フランス植民地時代の街とイスラムの世界が混在するアフリカ大陸北端の国。
 ■正式国名:チュニジア共和国 Tunisia
 ■首都:チュニス
 ■人口:約1,089万人
 ■面積:約16万km²
 ■人種・民族:アラブ系、ユダヤ系、ヨーロッパ系、その他
 ■宗教:イスラム教、ユダヤ教、キリスト教など
 ■言語:アラビア語、フランス語、その他
 ■通貨:チュニジアン・ディナール
 ■時差:-8時間 チュニジアが正午のとき、日本は午後8時

もっと知りたい「チュニジア」


 *クリックして下さい!リンクします!









2016/09/12 シリア・ヨルダン・レバノンの旅

  世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
  スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  2002.11.10~11.19

  旅程マップ                     エド・ディル全景


*クリックして、「シリア・ヨルダン・レバノンの旅」をご覧ください!



シリアの概要


〔フランス占領期〕
 1920年3月8日、シリア・アラブ王国(英語版)の独立はハーシム家のファイサル1世が国王に即位することで達成された。 しかし、フランス・シリア戦争、マイサラムの戦い (1920))におけるシリア・アラブ軍とフランス軍との間の衝突すると、7月24日にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後にイラク王国の王になる。 国際連盟がシリアをフランスの委任統治下においたのち、フランス軍はシリアを占領した。その後、フランス委任統治領シリアは、大レバノンに分割・統治された。
 フランスとシリアはフランス・シリア独立条約(英語版)を1936年9月に交渉した、ファイサル王政下のシリア首相、ハーシム・アル=アタースィーは新政権下での新しい大統領に選ばれ、その結果、近代最初のシリア共和国が樹立された。 第2次世界大戦時、1940年のフランス陥落により、シリアは、1941年7月にイギリス軍と自由フランス軍に占領されるまでヴィシー政権の統治下におかれた。
 シリアは1941年にその独立を宣言した。しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは1944年の7月のことであった。

〔独立後のシリア〕
 第二次世界大戦中の1944年には、レバノン、シリア、ヨルダン、イスラエルを含めた、英仏に分割される以前の、シリア・アラブ国を再興するという「大シリア主義」が提唱されていました。 戦後の1948年、シリア軍はアラブ軍と共に、新しく建国されたイスラエルに対して戦いますが敗北しました。(第1次中東戦争)
 1950年代に入ると、バアス党(バアスはアラビア語で「復興」を意味し、アラブ主義であるが、イスラム原理主義とは対立している党)が主導権を握りました。 バアス党は、西側諸国とは距離をおき、ソビエト連邦寄りの、社会主義的傾向を強めました。
 1956年に、それまで英仏が支配していた、スエズ運河をエジプトが国有化したの対し、イギリス、フランス、イスラエルはエジプトへ攻撃をしました。(スエズ動乱=第二次中東戦争) この時、エジプトのナセル大統領は、西欧列強に立ち向かったとして、アラブ各国の民衆を熱狂させました。
 人気の出たナセルに急接近したのが、やはりアラブ統一を目指していた、シリアのバアス党でした。 1958年に、シリアとエジプトでおこなわれた国民投票で、両国の合邦が決まりました。ナセルを大統領とする、アラブ連合共和国(UAR)が発足しました。(首都は、カイロ)
 しかし、ナセルは、シリアのすべての政党を解散させ、各種の企業を、積極的な国有化する政策をとりました。 この政策は、シリア内の保守派の反対を強めることになります。1961年に、軍と人民党がクーデタをおこし、ダマスカスを占領し、シリア新政府は再独立を宣言し統合は崩壊しました。 そして、1963年にはバアス党が、政権を樹立しました。
 1966年、シリアとエジプトは、イスラエルに対する防衛協定を結びました。 しかし、シリアとイスラエルの国境線では、その後も度々争い続きました。 1967年に、第三次中東戦争が始まり、イスラエル軍により、ゴラン高原を占領されてしまいました。
 この時、シリアは、イギリスとアメリカがイスラエルへ積極的な支援をしていると非難し、両国との外交関係を断ちました。
 1970年には、バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立し、国防相であったハーフェズ・アル・アサドをリーダーとした穏健派が、クーデターで実権を握り、1971年には、アサドは大統領に選出されました。
 1976年に、シリアは、レバノンのマロン派キリスト教勢力と敵対している、イスラム教徒左派とPLOを攻撃するため、レバノン政府の要請によって、平和維持軍をレバノンに派遣し、軍事介入しました。
 ムスリム同胞団(エジプトのイスラム原理主義組織で、活動の拠点をエジプトからシリアに移し、過激な行動に出ていた)は、このレバノンへの軍事介入に反対し、アサド政権へ敵対しました。
 1982年、ムスリム同胞団の拠点である、古都、ハマにおいて、ムスリム同胞団の大規模な暴動が起こりシリア政府は鎮圧しましたが、一万人とも言われる住民の死者が出たそうです。
 1986年、イギリスは、シリアをテロ支援国家として外交関係をたち、アメリカは経済制裁を科しました。
 1987年には再び、レバノン政府の要請により、7000人のシリア軍が、レバノンのベイルートに派遣され、駐留することとなりました。
 このレバノンの内戦は1991年に終わり、シリアとレバノンは友好条約に調印しましたが、その後も、3万人以上のシリア軍がレバノンに残留し、レバノンの政治に関わるようになりました。
 1992年に、アサドは4期目の大統領に再選されました。 その当時、シリアは、ソ連の軍事援助により体制を保っていましたが、ソ連の崩壊後は、西側諸国、特にアメリカへの接近を図るようになりました。
 この当時、シリアとイラクとの関係は複雑でした。 シリアと同じく、バアス党がイラクでも政権を握っていましたが、主導権争いなどで関係は良くなく、シリアは、イラン・イラク戦争(1980~1988)では、イランを支持した数少ないアラブの国のひとつだったそうです。
 また、イラクがクウェートに侵入した1990年以後、シリアはサウジアラビアへ軍隊を送りました。 そして、1991年から始まった湾岸戦争では、多国籍軍への参加の見返りとして、シリアはアメリカのテロ支援国リストから外されることとなりました。
 1994年、シリアは、ゴラン高原に関してイスラエルと交渉を始めました。しかし、イスラエル軍のゴラン高原からの撤退交渉は、イスラエルの連続爆弾テロや、レバノン南部に対する攻撃で中断しました。
 さらに、1996年に登場したイスラエルのネタニヤフ政権の、シリアへの強硬姿勢によって、両国の関係は一段と悪化したそうです。
 1999年のイスラエル首相選挙で、和平推進派の労働党の党首、バラクが当選したことによって、和平交渉が再開されました。 しかし、両者の主張は平行線をたどったまま、交渉は中断しました。
 2000年に、ハーフェズ・アサド大統領は心不全で死去し、息子のバシャール・アル・アサドが大統領に選出されました。就任後、外国投資の受け入れやIT産業の育成、その他、改革路線を始めました。
 しかし、イスラエルとの関係を進展させることはできず、国際的に非難されてきた、レバノンに対する支配力も、保持したままだったようです。
 2004年に、レバノンでは、憲法の大統領再選禁止条項が修正され、親シリア派のラフード大統領の続投が決まりました。 しかし、これはレバノンを支配したい、シリアの意思にそった決定であるとして、レバノンに大きな権益を持つフランスとアメリカは、強く反発しました。
 そして、レバノンに駐留する、シリア軍の即時撤退と、レバノンの主権の尊重をうたう決議案が、国連安全保障理事会(国連安保理)に緊急提出されました。
 これをきっかけに、国連や欧米諸国、サウジアラビア等アラブ諸国からも、シリア軍の撤退を求める声が大きくなり、アサド大統領は、国連の説得をうけて、レバノンからの撤退を表明し、2005年の4月に完全撤退しました。
 2007年には、アサドが大統領信任投票で圧勝し、2期目に就任しました。
 シリアは、中東アラブ諸国の中で、イスラエルに対抗する軍事力を持ち、シリアとイスラエルの和平交渉が、イスラエルとアラブ諸国の関係で最大の比重を占めているそうです。
 パレスチナの自治が開始され、ヨルダンとイスラエルとの国交が回復したことに続き、シリアはイスラエルとの和平交渉を、現在もアメリカで行っているそうです。

ヨルダンの概要

〔トランスヨルダン〕
 フランスとイギリスは、1920年7月ヒジャーズ王国の王族でシリア王だったファイサル1世を追放し、1921年3月にファイサル1世の兄で、シリアからフランスを追い出すことを公言していた[1]アブドゥッラー・ビン=フサインをヨルダン川両岸の領土に迎え入れてトランスヨルダンを成立させることで、この地域の独立運動の沈静化を図った。アブドゥッラー1世は、紅海に面した交通の要衝であるアカバなど南部地域を併合し、現在のヨルダンの国土の基礎を築いた。
 トランスヨルダンは多くのパレスチナのアラブ住民を抱えたが、1923年にアブドゥッラー1世がロンドンでハイム・ヴァイツマンと会い、ヨルダン川西岸のユダヤ人殖民地を認める代わりに自身のアミール(君主)の地位の向上を求めていたとして、パレスチナ民族主義者から強い反発を招くこととなった。
 1934年、アブドゥッラー1世は国内のパレスチナとトランスヨルダンを統一して彼の承認のもと首相を選出することを提案したが、ユダヤ人入植者の権利を認める内容だったためパレスチナ側からは疑心を招いた。1936年にはパレスチナ人の反乱が起き、アブドゥッラー1世はイギリスに対しパレスチナ人指導者を追放する要請を密かに行った。
 1937年のピール委員会でパレスチナの分割案が提示されると彼はアラブ世界でただ1人、この案を条件付きで支持した。
 第二次世界大戦後、イギリスはこのパレスチナの委任統治を放棄。これをうけて1946年5月25日に独立を宣言する。

〔ヨルダン・ハシミテ王国〕
 1949年6月に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めた。さらに1950年にはエルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領した。
 1951年、アブドゥッラー1世がアミーン・アル・フサイニーによって暗殺される。
 1967年の第三次中東戦争でヨルダン川西岸地区は、イスラエルに奪われる。
 中東戦争はイスラエルに占領された地域から大量のパレスチナ人の流入をもたらした。加えて1990年代以降には民主化に伴い王室は近代化路線をとり、1994年にヨルダン・イスラエル平和条約に調印し、1979年のエジプトに続き、イスラエルを正式に承認した二番目のアラブ国家となった。前記の近代化路線や、イスラエルとの平和条約の締結に反対する保守派やイスラム主義派が台頭して国内の不安定要因となっている。

レバノンの概要


 レバノンは地中海東岸に位置する、岐阜県ほどの大きさで人口約400万人の小国だ。だがその歴史は古い。紀元前2500年頃には海岸沿いにフェニキア人の都市国家がいくつか成立していた。彼らは優れた航海術で地中海東岸の交易を支配し、大いに繁栄した。この頃レバノンからエジプトへ多く輸出されたレバノン杉は、エジプトのファラオたちに聖なる木材として珍重され、彼らの宮殿建設に使われたという。
 紀元前64年フェニキアはローマに破れ、以降ローマ帝国の一部となる。ローマは各地に神殿や円形劇場、競技場などを備えた都市を建設した。レバノンに今も多く残るすばらしい遺跡の多くは、この時代のものだ。
 7世紀になるとレバノンはイスラム教徒の支配下に入り、さらに16世紀にはオスマントルコの一部となった。オスマントルコが第一次大戦で敗れるとレバノンはフランスの委任統治領となり、1943年、第二次大戦中ついに独立を果たした。このためレバノンでは今もフランスの影響力が強く、フランス語が第一外国語の地位を占めている。
 レバノンはその後大いに発展する。首都ベイルートは中東の金融センターとして発展し、多くの外国企業や報道機関がベイルートに支店を置いた。レバノンは雪をかぶった美しい緑の山々から、『中東のスイス』と呼ばれ、ベイルートはその美しい街並みが『中東のパリ』と呼ばれた。60年代から70年代前半にはヨーロッパや中東各地から多くの観光客が訪れ、レバノンは中東随一の金融・観光の中心として未曾有の繁栄を享受しているように見えた。
 だがこの繁栄は、実は大きな問題を抱えていたのだ。レバノンの政治と経済は、人口の約半数を占めるキリスト教徒に支配され、残り半数のイスラム教徒は繁栄から取り残され、疎外感を味わっていた。貧富の格差も拡大する。
 このような中で、1975年、ついにキリスト教徒右派民兵とイスラム教徒左派勢力の間に内戦が勃発し、1992年まで約17年間に渡って血みどろの戦いが繰り広げられた。内戦にはシリアが介入してイスラム教徒勢力を支援し、イスラエルもキリスト教徒右派勢力の民兵を支援して介入した。1982年、イスラエルはベイルートを包囲して、当時ここに本拠地を置いていたPLO(パレスチナ解放機構)を殲滅するためとして、市のイスラム教徒地区に激しい爆撃を加え、多くの市民が犠牲になった。この直後にはベイルートのパレスチナ難民が多数虐殺される事件も起こったが、この背後で虐殺を指示または黙認したといわれるのが、現在イスラエル首相を務めるシャロンである。
 その後シリア軍の援助を受けたイスラム教徒勢力が次第に支配地域を広げ、内戦も次第に収拾に向かう。1992年、20年ぶりに行われた総選挙で現レバノン政府が成立した。レバノンの政治は今もイスラム教徒とキリスト教徒の間の微妙なパワーシェアリングによって成り立っていると言える。
 17年に及ぶ内戦で約15万人のレバノン人が犠牲となり、国土は荒廃してしまった。海洋民族フェニキア人の血を引くせいか、レバノン人には昔から世界各地に移住する人が多かったが、内戦中、さらに多くのレバノン人が戦火を逃れて海外に移住し、異国で生活の基盤を作った人々も多い。旧宗主国とも言えるフランスはもとより、南米ブラジルなど各国に多数のレバノン人が移住し、レバノン人の海外コミュニティーが存在している。あの日産のゴーン社長が、ブラジル生まれのレバノン系なのは有名な話である。
 今、レバノンは戦後復興の真っ最中だ。海外からの観光客も年々増加している。フェニキアやローマの遺跡、美しい海と山々・・・。レバノンは小国だが、見所がたくさん詰まった、宝石箱のような国である。


もっと知りたい「シリア・ヨルダン・レバノン」


*クリックして下さい!リンクします!












2016/08/29 ペルシャの旅

  世界106か国、世界遺産190か所歩いた、旅好きな万年青年!
  スーパーシニア!吉岡範明さん(機械S34卒)のホームページ「旅いつまでも」より

 (旅行日)  2002.9.09~9.16

  旅程マップ             世界遺産(チョガザンビル)


*クリックして、「イラン・ペルシャの旅」をご覧ください!


イラン・ペルシャの概要

 かつてイランに対する外国からの呼び名として「ペルシア」が用いられたが、1935年3月21日に「イラン」に改めるよう諸外国に要請したものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
 歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 Parsa のこと。語源は騎馬者を意味するパールス Pars。ギリシャ語ではペルシスと呼ばれ、現代イランでファールス地方にあたる。
ペルシアに相当する日本語や諸外国で表記される語は、現代のペルシア語ではイラン、またはパールサの現代形のファールスと呼ばれている語である。たとえばペルシア語をファールス語に相当する現代のペルシア語ファールスィーと呼ぶ。
また、この地に興ったペルシア帝国と呼ばれる諸王朝も指す。ただし、同じ地に興ったパルティア(アルシャク朝)はペルシアとは語源的に無関係である。

もっと知りたい「イラン・ペルシャ」


*クリックして下さい!リンクします!







2016/08/15 中国の旅

 中国は今まで汚い/臭い・・など悪いイメージが先行し 中々気が向かなかった。しかし最近の中国ムードで沢山の人が 訪れて人気観光地へと変って来つつある。この秘密は何だろう! 重い腰を上げて参加した。いやっ!驚いた。話しを聞くと見るとは大違いである。
 今回の上海、桂林、西安、北京などは随分改善され問題ないレベルであった。 特に期待していた桂林の水墨画の世界はとても美しく一見の価値があると思った。 上海などはこれが中国かと思うほど近代化されていたのに驚いた。
  あの共産主義の巨大国が今や改革解放政策により大きく脱皮を図っている勢いを感じた。 2008年の北京オリンピックに向けて更に大きく飛躍するだろう・・。

中国の旅 総括

 初めての中国で期待も大きかった。今まで聞いていた話と実際に見たことは大きな差があった。
 上海の近代化は物凄い勢いだ。東方のウオール街といわれる外灘地区は高層ビルが林立し、これが中国かと目を疑うほどで、高速道路もすごい速度で整備されつつあった。
 一方旧市街地に入れば、汚い、臭い、人がゴチャゴチャの感じで、戦後の日本を見るようだ。特にトイレ事情などは論を待たない。しかし主要な観光ルートにあるホテルは完備されその心配は消えた。            
ただ地方の一般宿などではそうはいかず、トイレットペーパーなどは期待できず、水洗であっても使用後の紙は一緒に流せば忽ち詰まってトラブルの元になるので注意が必要だ。
 衛生状態がすこぶる悪いことは常識で、生水は勿論のこと、火が通ってない生ものは先ず危ないと自覚した方が安全である。機内サービスで出てくる飲み物で牛乳を飲んで下痢して苦しんだ同行者もいた。ホテルのサラダでさえ危なくて手が出せなかった。安全に旅するにはこの位の配慮は当然かも。
 30代サラリーマンの平均月収は、上海など都会地で5~6万円(地方では3~4万円くらい)。生活費は3万円程度で、貯蓄は2万円程度は可能。食費は切り詰めれば1万円でできるといっていた。
消費税にあたるものはない。収入10万円以下には所得税はかからないとも。高額所得者はパイロットで15万円、スチュアーデスで10万、市長で表向き8万円だそうだ。スチュアーデスと結婚すれば左団扇とか。
 一般の労働者の低賃金はよく知られている。レストランで物売りに来た娘に聞いてみたが、物を売って彼女が得る収入は僅か5%だそうだ。\1,000売って\50しか貰えないとか。それでも働けるだけはましだそうだ。底知れぬ労働力が存在している。貧富の差が激しい現実である。
 物価はそんなに安い感じはなく、一般庶民の価格と観光価格と二重価格になっていると思われる。
散髪は\300でできる。一方ウオーキングシューズは\4,000とかアンバランスな感じである。流通硬貨は元(約\16円)、角(1/10)、分(1/10)とあるが我々が手にできたのは元で、角を見るのは珍しい。分があるということは庶民のレベルでは使われているのか、日常生活物資は安いのだろう・・
 これからの21世紀は中国の時代と言われている。この発展途上国の今後の経済成長を考えれば限りない可能性を感じるが・・そう簡単にはいかないだろう。外国企業から技術さえ取り込めば、どんどん内製化し、国有化の方向に行くだろう。一時期日本の家電製品は世界を制覇し、作ればどんどん売れていた。中国もその技術を欲しがった。しかし今や全て内製できるレベルにある。安い労働力で安定した製品を作れば世界市場に輸出できるのである。今や日本から欲しい技術は「デジタルカメラの技術」のみだそうで、他の製品は魅力が無いそうだ。日本経済が浮上できない理由の一つかも知れない。
 中国政府は1982年以降一人っ子政策を取ってきた。現在の人口は約16億人で世界人口約60億人と推定すれば4人に1人は中国人ということになる。食料事情とのバランスでこれ以上増えれば国が潰れるという危機感からか・・・若し2人目ができたらどうなるのだろう? ガイドさんに聞いてみた。
余り話したくない様子であったが、戸籍が認められない、学校に行けない、仕事ができない・・親が公務員であれば首だとか・・厳しい返事であった。このような浮遊人口が統計上隠されている。人権を認めない誠に厳しい話である。
 何処へ行っても人が多い。自転車が多い。自転車は1000万台以上あるそうだ。他国に比べ自動車は1/10、人口は10倍、事故は100倍以上と言っていたが、交通事故が多いそうだ。信号が少なく、横断歩道も無いところを渡っている。自動車もスピードを全然落とさない。見ていてハラハラする場面が多かった。ガイドさんは中国で一番優先するものは、車でもない、人でもない、「勇気」が一番!!と言っていたが酷い話だ。交通マナーはすこぶる悪い、割り込みなどは平然と行われている。ほんとに「勇気のいる国」だと思った。
 中国人の商売上手はよく聞く話だ。今回つくづくそう感じた。世界中を旅して、中国人ほどしつこく物売りする、また無礼な人間も見たことがない。その執拗さは想像以上だ。数名が取り囲んで1000円だ!安いよ!買え!なんだ!かんだ!と大声で連呼する。物をみるどころではではない。ウンザリ!値段もいい加減だ!3枚\1000が5枚、10枚、15枚\1000となる。また\75,000の掛軸が\50,000、\35,000\20,000、\10,000、\8,500まで下がっていく。どれがほんとの値段か分からない。             
 またレストランで人のビールを落として割っておいて、これサービスします!と言って代品を持って来る。サービスではあるまいに!お詫びの一言もない。馬鹿にされたような感じで、日本人の微妙な心理も理解出来ないようだ。
 また、国内飛行機の身体検査もすこぶる厳しい!普通ならポケット内の物、手荷物を透視検査していたが、此処では靴まで脱がされての検査である。生まれて初めての経験であった。上海~桂林、桂林~西安、2回も靴を脱がされた。枠の中を通る金属検知器も物凄く敏感で、金属類は全てアウトである。
安全とは言え、ここまでやるとはやり過ぎの感じがした。又機内食も箱の中にパックした袋が 数個入っているだけで、甚だ味気ない。こんな機内食も世界で始めてだ。中国は驚くことが多過ぎる。我々の常識を越えたことが常識としてまかり通っている。世界の常識基準にない国との印象であった。
 2008年北京オリンピック開催が予定され、国家をあげて準備が進められているが、ハードは出来ても、ソフト面での対応は甚だ覚束ない感じを強くした。余りにも世界の常識レベルと風土(民族性、風俗、習慣、教育、考え方)がかけ離れており、これは一朝一夕に変えられるものではなく、その意味で大きく危惧するものである。

〔上海/美しい夜景〕

 上海ナイトクルーズは目を見張るほどの美しさ、市内を流れる黄浦江に沿いライトアップされた外灘の幻想的な美しさ・・。














〔桂林/古来より「桂林の山水は天下一」〕
といわれて来ただけに見事な美しさ。風雨に浸食された石灰岩が不思議な奇峰をなしている。3時間余り船に揺られて景色に魅入る。













〔西安/華清池の楊貴妃像〕

 西安はシルクロードの西の起点。旧名は長安。
 紀元前1100年に都を定めて以来2000年の間都として栄えてきた。













〔北京/威容を誇る天安門〕
 天安門広場の広さは凄ごーい!100万人が集まれるとか・・。中央の毛沢東の肖像画は毎月更新される。 













旅程



6/29(土)
 いよいよ出発の日。夕方の出発なので、東京で弘恵の所に立ち寄る正美さんと春花が駅まで出迎えに、みんな元気。成田では江尻みゆきさんが待機。来た順に手続き開始。
 総勢19名のツアーだ。
 一人参加は男性3名女組4名。夫婦は4組。後は姉妹のク゛ルーフ゜。上海まで約3時間(時差-1Hr)。日本との時差は1時間だ。ホテルに着いたのは23時過ぎ、長い一日であった。


6/30(日)
 バスで市内観光。最初は予園だ。
 ここは商店が密集しており、凄い人出である。スリにご注意!・・・庭園そのものは大したことはない。
 ひと歩きして休憩に入った処でお茶の講義だ。健康茶とか減肥茶とかで結構みんな高いお茶を買わされた。現地カ゛イト゛が上手く誘導している。
 上海博物館前の人民広場の噴水付近は日曜日でもあり、家族連れで賑わっている。上海博物館は立派な収蔵品が多数ある。磁器、陶器、書、掛け軸など・・!
 夕方の食事まで時間があり、准海路のショッピング街を歩くが、此処には伊勢丹が出店している。店内には座る椅子もない。歩き疲れてちょっと休みたいにに・・。仕方ないので近くの公園で暇潰し。
 やっと夕食になり、フローティンク゛レストランに着いた。丁度ワールト゛サッカーの決勝戦(ト゛イツ-フ゛ラシ゛ル)をやっていた。夕食が終りこれから浦江のナイトクルース゛だ。川沿いの建物は19:30~22:00の間ライトアップされ、とても美しい。上海の見所の一つになっている。川風を受けゆっくり船に揺られてしばしの間、気が休まる!
 朝の出発が比較的遅いので楽だ。大通りを一歩中に入ると、戦後の日本を思わせるくらいゴチャゴチャ、汚い家々が密集している。
 平均月収が5万円前後で、貧富の差は激しい。
 人が多く、自転車が右往左往、交通マナーは最低レベル。共産主義国家から資本主義経済へと急速に移行している。

〔美しい上海の夜景〕

 上海、外灘の幻想的な夜景は実に美しい。黄浦川に沿った租界時代の西洋建築群が19:30~22:00の間ライトアップされ、浮き上がって美しい光を放つ。遊覧船に乗り川風に揺られながら約40'間のクルーズであった。








〔昼間の表情〕
 夜は煌びやかな光を放っていたが、一夜明けた昼間は別の表情を見せる。川沿いは黄浦公園があり、朝は太極拳をする人、昼は観光客、夜は大勢のカップルで一日中賑わっている。









〔上海の高速道〕

 上海の近代化は凄い勢いで進んでいることに驚いた。近代ビルが林立し、その間を縫って高速道路が走っている風景はこれが中国かと目を疑う。しかし交通マナーは最低で信号無視、割り込みなどは平然と行われている。









〔予園商店街〕
 小さな店が集まっている。観光名所にもなっており観光客は多い。ガイドさんからはスリにご用心!ご用心!と注意される。特に後ろポケットは狙われやすいとのこと。









〔准海路ショッピング街〕

 このあたりは大きなショッピング街である。伊勢丹が店を出していたので中に入ってみたが不思議なことに一寸休もうにも椅子が全然置いてなかった。中国には足腰の強い人が多いと言うことか・・。品数は多く、特売セール台の前には黒山の人だかりでやはり日本と同じ。物価もさほど安いとは思わなかったが、結構買い込んだお客がいたのに驚いた。







〔海上名園・予園〕
 丁度日曜日でもあり多くの人で賑わっていた。庭園そのものは大したものではないが、周囲の店は繁盛。










〔酒井法子の絵文字〕

 面白い絵文字。鳥や魚や植物などを織り込んで文字にしてゆく。酒井法子さんも中国では人気女優なのだろうか・・











〔面白い絵文字〕
 私も一筆書いてもらったが、4文字で額縁に入れて100元だった。約1600円で少し高いかなーと思った。









〔上海博物館〕

 人民広場にある建物は青銅器の鼎をデザインしたもの。古代文物のコレクションは60万点にのぼると言われ、質的にも世界的な評価を得ている。展示室は4階まであり、青銅器、絵画、書道、印章、古銭、少数民族民芸品、陶器など素晴らしいものが沢山展示されている。








7/1(月)
 今朝は昨夜のナイトクルーズで見た外灘を散策。夜とは一際違う表情だ!
 上海から桂林まで僅か2Hrちょっとだ。一眠りしている間に着く。桂林上空から侵食された奇峰の数々が見られた。凄い!数えてみたら125,700ヶ所あったそうだ。田舎だからホテルがどうかと心配したがなんのことはない新しいホテルで一安心。
 桂林の人口は僅か15万人だが観光客は年間1000万人にも上るそうだ。大観光地だ。
 小さな町で此処でも信号は見当たらない。土地の人は汚い小さな家で暮らしている。

〔美しい桂林〕

 桂林は実に美しい。ガイドさんが言っていたが一番美しいのは雨が降った時だそうで、霞んで近くと遠方の濃淡がハッキリ出て水墨画の世界になるそうだ。と言っても観光客には雨は嫌だし、午前中晴れで午後雨がベストかなーと言っていた。桂林の4つの特徴は①山が青い②水が清い③窟は嶮しい④石は美しい・・だそうだ。







7/2(火)
 今日は楽しみな漓江下りだ。
 現地カ゛イト゛さんが、出発して1Hrくらいは我慢して写真を撮らないこと!あちらも此方もとシャッターを切っているとフィルムがすぐなくなるからだ。言う通りに景色が素晴らしい。前日に雨が降ったとか、増水して茶色に濁っている・・。船のスヒ゜ート゛も早い。次から次へと美しい風景が入れ替わる。フィヨルドとは違った感じだが、ドイツのライン下りなどとは比べものにならないくらいにすごーい! 水墨画の美しさ!
 下船した所で凄い物売りに会う。大声出して執拗な態度は今まで世界中で見たことない・・世界一の嫌らしい物売りだ!これはまいった。テーマハ゜ークは拾いものであった。増水のためクロース゛になっていたが現地カ゛イト゛の交渉で見ることができた。少数民族の歌や踊りで歓迎してくれたとても面白かった。
 桂林に帰って来て、掛け軸屋に連れていかれた。これがまたしつこいのだ!付きっきりで離れようとしない。どうして中国人はこんなにしつこいのか?日本人の微妙な心理を理解しようとしない。

〔発船場へ向かう〕

 桂林の町から約1時間田舎道をバスに揺られて・・途中バスのなかから美しい風景が見られたが、ガイドさんはこんなのはまだまだ、まだ美しい風景が見られますよ!と言っていた。船に乗っても1Hrくらいは我慢してシャッターを押さないこと、ほんとに美しい処に来た時フイルムがなくなるよ!と言っていた。確かにそうだ!







〔発船場・竹江〕
 前日に雨が降ったので水は濁り、増水していた。遊覧船は10隻ばかり繋留されていた。いよいよここから渓流下りが始まる。










〔船内での昼食〕

 終点までは約3時間掛かるので、途中船内で昼食のサービスがある。中華料理が7品くらい、最初の飲み物はサービスになる。料理は食べ切らないほど沢山出てくる。結構美味しい。食事中に写真集やお酒やお茶など・・いろいろ上手な日本語で売りに来る。商魂逞しい。








〔船着場での物売り〕
 船着場に降りて、物凄い物売りに押し掛けられて驚いた。しつっこさと来たら世界一だ。数人が一度に安いよ!1000円だ!何だ!かんだ!と大きな声を出して怒鳴るので、何のことやら分からない。凄いの一語!・・。







〔テーマパーク・世外桃源〕

 前日の増水で閉鎖されていたが、何とか開園をお願いして、少し遅れて入ることができた。最初どんなものかよく分からなかったが、船が動き出して次々に川辺の家を回るうちに少数民族の若い子たちが踊りで歓迎してくれていた。それぞれの民族衣装を着ての踊りは面白かった。








7/3(水)
 今日は西安の市内観光。
 碑林では石に刻まれた論語。印刷技術の無い時代に石に刻んで後世に伝えた。「友遠方より来たる亦楽しからずや」など書かれている。最近は漢字も略語なので若い人は古い漢字が読めなくなったとのこと。
 有名な書道家の力強い字碑も見られた。これらの拓本を採って販売していた。
 大雁塔は三蔵法師がインドから持ち帰った経典の保存と翻訳のために建てられたとか。7階建てで最上階は市街が一望できる。
 昼食後期待の兵馬傭抗に行く。現地ガイドが此処では撮影禁止!になっていると言うので真に受けてビデオを持たずに入ったが、全然そんな雰囲気はなく、「なんだっつ!」と残念に思った。折角の機会に撮影のチャンスを逃した。
 華清池は温泉地で楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスを偲ばせる美しい庭園だ。
 夕食後唐歌舞ショー。揃いの美人がカラフルな衣装をまとい、素晴らしい踊りを楽しめた。これだけのショーは滅多に見られない程である。楽しい素晴らしいショーであった。

〔大雁塔〕

 入り口の前の広場に三蔵法師の立像がある。三蔵がインドから持ち帰った経典の保存と翻訳のために建てられたそうがが、当時は5層の方塔であったが、その後改築を経て現在の7層方錐形の塔になった。高さ64m、最上階まで上がれば市街が一望できる。








〔華清池博物館〕
 白楽天の「長恨歌」の舞台となった華清池。3000年以上の歴史を持った温泉地で秦の時代から離宮がおかれていた。玄宗皇帝は毎年の冬を楊貴妃とともに過ごしたといわれている。枝垂れ柳やネムの木が茂り美しい庭園である。








〔中国4大美人〕

 楊貴妃をはじめ四大美人の掛け軸が飾ってあった。名前は忘れたが3番目の人も国の発展を願って身を呈した勇気ある美人だとガイドさんが力を込めて説明していたのが印象に残った。










〔西安の交通渋滞〕
 中国の交通事情は無茶苦茶との印象をもった。人も車も多い上、信号も少なく、割り込みはするし、交通ルールがあるのかどうか知らないが、そんなのは無視して歩いている。ガイドさんが言っていたが、一番大事なのは人でも車でもない!勇気が一番であるとの言からも頷ける。








〔西安城入門の儀式〕
 唐代の衣装を纏った兵士が門を開き入場する。入場の儀式として 杯を受け、「通関文牒」なる印章を押したパスポートを貰い入場する。天女のような美少女が舞をして歓迎してくれた。一つのショーである。








〔115万年前の藍田人〕

 此処、陝西歴史博物館には37万点という沢山の収蔵物がある。その内古代から新中国成立までの文物は3000点あまり。その中に115万年前の藍田猿人の化石がある。また当時の青銅器など見るべきものは多い。









〔古代の象形文字〕
 古代の埋蔵物から分かった当時の象形文字である。米とかローマ字のPとかTとか矢印など現代に通じる文字が見られるのが不思議でもある。









〔ホテルの中庭にある始皇帝像〕

 我々の宿泊したホテルの中庭に大きな始皇帝のディスプレイがあった。始皇帝は沢山の功績を残している。32代目の王にあたるが、皇帝という呼び方を初めて使った。










〔西安・「唐歌舞」ショー〕
見応えのある美しい舞台であった。先ず「お客を迎える舞」から始まり「歌」「筝演奏と舞踏」「舞踏」・・最後の「フィナーレ」まで11の出し物で満喫できた。カラフルで美人揃いの舞とくれば言うことなし。素晴らしいショーでこんな綺麗なショーは滅多に見ることはできないくらいのものであった。色彩効果が満点といえよう。華やかなショーであった。






7/4(木)
 今日は午前中陝西歴史博物館を見学。
 現地カ゛イト゛の賀芳さんの声がよく響く。よく勉強していいカ゛イト゛さんだ。
 午後からは北京へ移動のスケジュールだけ。早めに空港に行ったが、予定時刻になってもゲートが決まらず。怪しい雰囲気だ。30’遅れ!1Hr遅れ!・・!予定が立たなくなった。乗客がザワザワ心配しだす。添乗員の江尻さんが航空会社から飲み物とクラッカーを貰ってくる。暫くは待つしかない。結局2Hr30'の遅れになった。今まで順調に 行っていたのが不思議・・中国では当たり前。

〔碑林博物館〕

 印刷技術もない時代に、論語など石碑に刻んで残したといわれている。 確かに此処にはその石碑が沢山展示されている。我々に馴染みの、友遠方より来る、また楽しからずや・・五十にして惑わず・・など論語の一節に接した。最近は略語が使われ、此処に書いてある論語の漢字は若い人には読めないといっていた。これも時代の変化だろうか・・







7/5(金)
 今日は朝から暑い。先ず天安門広場へ。
 広いの何の・・物凄い広さだ100万人が収容できる広さだ。モスクワの赤の広場よりも広い。遠くは陽炎がたって霞んでいる。天安門の毛沢東の肖像画は毎月新しい物が掲げられるそうだ。故宮は広い、幾重にも門をくぐり中に入っていく。歩くだけでも疲れる。やや奥まった処の宝物館のような所に入ったが28.5Kgの純金の壷が十数個並べられていたくらいで大した物は見られなかった。蒋介石が台湾に持って行ったのだろうか・・・!?
 昼食後の暑い最中、万里の長城に行った。
 凄い!これだけのものをよくも山の峰に築いたことよ!全長6400Kmもあるとか・・女坂の方を登ったが結構しんどかった。
 夕食後の「天橋楽ショー」は京劇、太極拳15歳少女のアクロバット、変面芸、手品など盛沢山の出し物でなかなか楽しめた。
 今回中国での2つのショーは素晴らしかった。

〔天安門広場〕

 兎に角広い! 100万人規模の収容が可能と言われている。モスクワの赤の広場よりもまだ広いように感じた。南北880m、東西500mの世界最大の広場である。
 ベンガラ色の城壁、黄瑠璃瓦の楼閣、中国のシンボルである。紫禁城の正門でもある。1949年10月1日毛沢東が楼上で中華人民共和国の建国を宣言。以後文化大革命、天安門事件、大2次天安門事件など歴史的事件の舞台となった。


〔万里の長城〕


 やはり中国といえば、万里の長城を知らない人はいないだろう。一度は自分の目で確かめたい所である。現実に目にした感想は、「凄い!」の一語。これだけの物を延々と6,300Kmもの信じられない長さで完成させていることである。山の峰を縫って続く様に驚く。宇宙の彼方から見える唯一の建造物といわれている。城壁の高さは平均7.8m、幅は10人の隊列が歩けるもの。始皇帝が30万の軍兵と数百万人の農民を駆り出して造ったといわれる。

〔天橋楽ショー〕

 こちらは西安の「唐歌舞ショー」とは趣を異にし、「天橋楽」といわれ、京劇や手品、太極拳、変面芸、15歳少女の見事なアクロバットなど面白く楽しめる内容であった。特に少女のアクロバットは信じられないくらいの軟体で見事であった。北京ダックの夕食後、下町情緒の雰囲気をもった素晴らしいもので見る人を充分に楽しませてくれた。


7/6(土)
 成田は予定通りに到着。入国審査もスムーズに行く。荷物も何とか出て来て一安心。やっと帰って来た感じになる。帰りの宅配を頼む。次の羽田行きリムシ゛ンに乗り70分で到着。
 羽田で時間があるので食事をする。日本そばと生ビールの美味しいこと。日本に帰って来たと感じる。後は予定通り広島へ。家に着いたのは21時過ぎ・・・  長い一日であった。




2016/08/01 北欧4ヶ国の旅

 北欧は他のヨーロッパ諸国とは文化を異にした国である。
  風景も特異で素晴らしく、どの街に行っても清潔で美しい。 何処でも生水が自由に飲めるのもいい。チップの習慣もない。 色白で青い目をした美人が多く、目の保養になる。
 ただ社会保障制度が異なり、税金が高いのは驚きである。
 所得税や銀行預金利息には30%の税金が掛かり、一般物資に は消費税25%が内税で掛かっており、旅行者には物価が高い国とのイメージが残る。 ただ高額(5万円以上)購入には減税(免税)制度が設けられている。
 ストックホルムからヘルシンキまでの豪華客船の旅もまたいい想い出。
  この時期はまだ少し寒かったが面白い旅だった・・

北欧の旅 総括

 近年ヨーロッパは大きく変わりつつある。それを実感できるのは、EU統合通貨ユーロの誕生であろう。いろいろな文化を持った沢山の国々が一つの国の形態としてよい面を作り出している。
今まで各国を旅行中それぞれの国の通貨換算に煩わしさを感じていた。観光客には大歓迎である。
それと入出国時のパスポートコントロールが簡単になったことである。最初のEU加盟国に入国する時だけ通関すれば後はどの国に入ってもノーチェックである。
 今回はフィンランドで入出国をしたが、ノルウエー、デンマーク、スエーデンでは全く検問は受けなかった。ただフィンランド以外の国はまだEU加盟していないのでそれぞれの国の通貨にならざるを得なかった。しかし商店ではユーロ通貨と併記された所もあり、いずれ近いうちには統合の変化が出るかも知れない。それを強く期待したい。
 次に驚いたのが、物価が高いことである。日本も物価が高いと言われているが、100円ショップに行けば日用品は手安く入手できる。例えば日本で100円で買えるボールペンでも、5-600円もするのである。金額換算してみるとアッと驚き買う気にならないのである。絵葉書も大きいので\150普通サイズで\110である。こんな調子である。それもその筈、消費税が内税で掛かっており、それも日本で物議を醸している5%どころか、25%も掛かっているのである。所得税も銀行預金利息にも30%の税金が掛かっているのである。
 30代男性の平均月収は約32万円(女性は約26万円:at Sweden)で所得税を30%引かれて手取りは約22万円。これからアパートの家賃を引かれ、生活物資に25%の消費税が掛かると・・・ またボーナス制度もないとなると生活はかなり苦しい。従って結婚もままならない。ひとり住まいが47%を占め、90%が二人以下である。出生率も1.5人だそうだ。平均年収は370万~580万と言われている。
 このような社会制度がいいか悪いかは別として、一方老後の保障とか、小学校から大学まで授業料は無料であるとか、葬式代は市が払ってくれるとか・・良い点もあるようだ。
 ノルウエーでは最近小学校は6歳から7年になったとか、高校は3年間で進学率は98%だそうだ。
ただ感心したのは高校を出てすぐ大学へという日本と違い、高校を出て一年間は自分の進路を見極めるため遊んだり、好きなことをしたり、外国を旅したりしながら、これから自分がやりたいことを探すのだそうだ。
それが決まれば大学へ進んだり、仕事に入ったり、目的を持って先に進むのだそうだ。ある面では日本より考え方が進んでいるように思うのだが・・どうだろう。
 また高校を卒業して一週間は無礼講の習慣があるそうで、社会的にみんながそれを認めて見守っている。無礼講だから大声を発してもよし、好きな格好をしてもよし、子どもから大人への脱皮というか・・ それが容認された一週間だそうだ。それが区切りでその後は一般社会風習に従って生活していく。
面白い制度である。日本では子どもから抜け出せない暴走族などがいるがけじめが付かないまま身体だけが 大人になって行き問題を起こす若者が増えている。何か参考にならないだろうか・・と思った。
 ノルウエーでは一年360日の内300日が雨だそうだ。何時もどんよりとした空の下で生活している。冬が長く、春と夏が一緒にやって来る感じで黄緑の若葉もアッと言う間に緑の葉に変わるそうだ。6月の夏至が一番日が長く、これを境に日照時間は減少してくる。太陽の暖かさ、有難さを一番感じていると言っても過言でない。子どもの健康のために夏のバカンスに太陽を求めて南下する話はよく聞く話である。そうだからか知らないが、透けるような肌の色白の美人が多く、目の保養になる。
 今回の旅行で印象に残るのはストックホルムとヘルシンキ間を運行している豪華客船シリアラインの乗船であろう。タイタニックより一回り大きい6万トンの船である。あたかも動くホテルと言ったところか。レストラン、バー、カジノや免税店や薬屋など揃っている。船には何とも言えぬロマンティックな雰囲気がある。沈み行く夕日を眺めながら想いに耽るのもまた意味があると思う。北欧の旅には是非お勧めである。
 それと何億年も前の氷河が流れて岩山を削り取ったフィヨルドの造形美は雄大で実に美しい。      
ノルウエーのベルゲンを中心としたソグネフィヨルドや南半球のニュージランドのミルフォードサンドなど実に美しい。ニュージランドに行った時ノルウエーのフィヨルドは「もっと素晴らしい!」の一言に、今回やっと想いを果たすことが出来たが、いずれのフィヨルドも甲乙つけがたいほど素晴らしいと思った。     

〔Norway/フィヨルドの造形〕

 氷河に浸食された切り立った渓谷の底に細長く海が入り込む。
 ベルゲンを中心としたフィヨルドクルーズは実に美しい。

〔Denmark/船乗りの町「ニューハウン」〕

 長い航海を終えた船乗り達がやっと羽根を伸ばした居酒屋街。町並みはカラフルで美しい。
 デンマークの国民的童話作家アンデルセンもこの界隈に住んでいたとか・・。

〔Sweden/北欧のベニス・ストックホルム〕

 14の島に53の橋で繋がる水の都、北欧のベニスとして観光客に親しまれている美しい町ストックホルム。毎年ノーベル賞の授賞式が開かれる町でもある。

〔Finland/ヘルシンキ大聖堂と元老院広場〕

 カルル・エンゲル設計のドームを軸としたシンメトリカルなデザインが印象的。ルーテル派の本山となる教会で30年の歳月を掛けて造られた。


旅程



4/30(火)~5/1(水)
 いよいよ出発の日。ヨーロッパは出発が午前中なので前泊が必要だ。
 当日早めに集合の要請あり。添乗員の高橋いずみさんが待機。来た順に手続き開始。
 総勢32名のツアーだ。一人参加は男性1名女3名。夫婦は10組。後は母娘、姉妹のグルーープ。
 アムステルダムまで約13時間。乗り換えてヘルシンキまで10.5Hだ。乗り換えてコペンハーゲン。更に乗り換えてベルゲンが最終地だ。日本との時差は7時間だ。ホテルに着いたのは22時過ぎ、長い一日であった。

〔美しいベルゲンの町〕
 ベルゲンはノルウエー第2の都市で人口は約23万人。町の歴史は古い。山が海岸線まで迫っていて僅かな平地に木造の家が密集していて、山肌にも白い家が張り付くように建っている。また天候は目まぐるしく変わる。これはメキシコ湾流の影響を受けた湿った空気が山にあたり雨を降らす。一年の内2/3は雨が降るそうだ。





5/2(木)
 バスで市内観光。最初はブリッケンだ。
 ここにはハンザ同盟の古い建物がある。世界文化遺産に登録されている。三角屋根の古い家が並んでいた。
 そこから200mくらい歩いて魚市場だ。新鮮な魚介類や野菜、土産物など売っている。日本人の親子の店があった。日本語で気安く話せので試食などしていた。
 暫くはバスに揺られて、このベルゲンでは一年の内300日は雨模様とか。
 スタルハイムの渓谷は素晴らしい眺めだ!氷河が削り取って行った後が急峻な崖となっている。バスで350mくらい、谷底に向けて降りて行く。日光のいろは坂の様だ!まだ道端には残雪がある。5月までは通行止めであろう。
 やっとフィヨルドクルーズの発船場グドバイゲンに着いた。湾の水の色は青緑色で冴えた感じ。
 これから観光シーズンであろう。今日は大型のクルーズ船を出してくれた。沢山の人で賑わっている。カモメが沢山我々を歓迎し、船と一緒に付いてくる。餌など投げれば一層寄ってくる。美しい眺めだ!ただクルーズ船の排煙は頂けない!
 船からの眺めは最高!雪を冠った岩山と水の色、所々に見えるカラフルナ小さな民家、全体が絵になる美しい風景だ。2Hrのクルーズを終えフロムで下船。
 やっと昼食。ここから宿泊地ラルーダまで約1Hr。途中24.5Kmの長いトンネルを通る。

〔世界文化遺産・ブリッゲン〕  ハンザ同盟時代の奥行きのある三角屋根の建物が、中世の匂いを漂わせている。この地区はブリッケンと呼ばれ、ユネスコの世界遺産に登録されている地域である。中の古井戸の中には小銭が沢山投げ込まれていた。通りに面したこの建物は柱も傾いていて古さが感じられる。








〔世界文化遺産・中世の建物〕
 通りから細い路地を入って行くと古びた建物が並んでいる。木造の建物のなかに石積みの家があった。










〔美しいスタルハイムの渓谷〕
 スタルハイムの坂道。5m進んで1m下がるそうだが350mを下って行く。ここから眺めるフィヨルドの造形というか、スタルハイムの渓谷は素晴らしい眺めである。どの観光案内書にも写真が載っている。日光のいろは坂を思わせる急峻な坂道は運転手泣かせであろう。まだ道端には残雪があったが、5月初め頃まではおそらく通行止めであろう。
 氷河が削り取って行った後に出来た渓谷である。両側に切り立った崖が残り、カスケードというか滝が流れ落ちる様は格別に美しい。




〔雄大なカスケード〕
 この時期はまだ雪解け水も少なく壮大とまでは行かないが、それでも美しい滝である。7-8月頃にはもっともっと素晴らしい眺めになろう・・








〔フィヨルドクルーズ〕
 カモメが沢山飛んで来て我々を歓迎してくれる。カモメも喜んでいるようだ。何となく北欧と言う感じが漂う・・シーンと冴えわたった雰囲気である。










〔世界最長のトンネル〕
 フロムからダルーダに向かう途中に世界最長の25.4Kmのトンネルがある。2001年9月に完成したばかり。今まで自動車用のトンネルとしてはスイスとイタリアの間にあるモンブランのトンネルが12Kmで長いトンネルだと思っていたが、それを2倍も上回るトンネルである。完成まで相当の年月が掛かったと思われる。トンネルの中ほどに駐車場があり色鮮やかな照明がされていた。神秘的な美しさがあった。





5/3(金)
 今日はバスでオスロへ向けて山越えだ。
 内陸は寒いのか峠は雪景色!
 途中珍しい12世紀頃の木造の教会を見る。
 オスロに着いて早速美術館へ向かう。此処にはノルウエーが生んだムンクの絵が沢山展示されている。有名な代表作「叫び」も展示されていた。
 フログネル公園も人物像の公園としてよく知られている。怒りん坊の像など有名。人物像は全部で650体以上あるそうだ。
 今夜はスエーデンに飛ぶ。移動時間が多い。

〔珍しい中世の木造の教会〕
 ダルーダから雪の峠を越えてオスロに向かう途中にこの木造で出来た教会Stavkirkeがあった。1200年当時の教会で珍しい。
 屋根にはヴァイキング時代の名残とも思える魔除けの龍頭が空を睨んでいる。








〔延々と32Km続く湖〕
 E16号線に沿って32Kmも続くシュペリル湖。細長い湖で延々と続くのも珍しい風景である。










〔オスロ国立美術館〕
 町の中心部にあるオスロ国立美術館。此処にはムンクの作品だけ展示した大きな部屋があり、「叫び」「マドンナ」「思春期」など有名な絵がかかっている。入場無料である。ムンク以外に、マネ、セザンヌ、ピカソなどの絵を飾ってあった。









〔フログネル公園〕
 彫刻群が林立し、美しい花々に彩られたフログネル公園。正面入り口から入ると、両側に菩提樹が植えられた広い遊歩道が真っ直ぐに延び、橋の欄干にはブロンズ像が立ち並んでいる。さらにその先には人間の一生を表現した噴水、石段の土台の上に聳え立ったモノリッテンなど彫刻の数は合計193体、刻まれた人間の数は合わせて650体以上になる。







5/4(土)
 今日もまた移動になる。
 朝の内は市内観光。人魚姫の像は定番。小さすぎてみんなガッカリ!
 ゲフィオンの噴水も故障して水が出ない。
 ニューハウンは家並みがカラフルで美しい。船乗りの街だ。アンデルセンもこの界隈に住んでいたとか・・
 昼食後自由行動。歩行者天国ストロイエを歩く。弘恵に頼まれた刺繍キットを買った。流石に人出はすごーい!
 途中デパートに入ったら出口で方向を間違え思わぬ方向へ・・
 今夜はストックホルムへ向かう。約1Hrくらい。
 デンマークはあまり見るところも少ない。チボリ公園も入るほどでもないし。

〔船乗りの町「ニューハウン」〕
 カラフルな家並み、観光スポットで賑わう。さすがに港町の雰囲気がある。天気の良い日はテラスの椅子に腰掛けてのんびりくつろぐ風景が見られる。











〔人魚姫の像〕
 世界三大ガッカリ像の一つに上げられている人魚の像。写真などでは像だけがクローズアップされており、大きな像とのイメージを持って見に行くと、なんだっつ!これはっつ!と余りの小ささにガッカリする。背丈80cmの像である。1964年に首が切り落とされ、また1984年には腕がもぎ取られたり、1998年には人魚の首が再び何者かに切り落とされたり、度々災難にあっている。何処の国にも不心得者がいるものだ





〔ゲフィオンの噴水〕
 本来は水しぶきを上げる大きな噴水が見られる筈であるが、この所財政困窮で故障の復旧工事がストップしており、名物の噴水は見られない。日本が財政援助してくれないかと現地ガイドさんが言っていた。力の限り大地を踏み、角を突き立てる4頭の雄牛とその背後でムチを振るう逞しい女、北欧の伝説を迫力ある形にしたものである。







〔アンデルセンの住んでいた家〕
 ニューハウンの一角にアンデルセンが住んでいたと言われる建物があった。建物の外壁にネームプレートが張られてそれを示している。









5/5(日)
 今日はいよいよ豪華客船シリアラインへ
 朝の内はストックホルム市内観光。
 北欧のベニスと言われているが街の中、港周りの風景は美しい。最初の市庁舎はノーベル賞祝賀晩餐会や食後の舞踏会の会場など見学。特に舞踏会の黄金の間は凄い!1900万枚の金箔のモザイクで豪華絢爛!白川さんや野依さんも此処に招待された。
 市庁舎裏庭からの眺めも綺麗だ。
 展望台と言ってもそんなに高い所ではないが港が一望できて素晴らしい。風が強く帽子を飛ばされそうだった。ガイドさんも説明がく上手であった。昼食の中華は忙しかった。
 戦艦ヴァーサー号はその当時としては大きな船であったろう。333年後に引き揚げて、修復するという根気にも敬服する。
 シリアラインは凄い船だ。乗客は2,800名乗れるそうだが・・内部は動くホテルという感じ。タイタニック号より一回り大きな豪華客船だ。夕日がなかなか沈まない。夜10時でも明るい。

〔ノーベル賞受賞祝賀晩餐会会場〕
 毎年ノーベル賞の授賞式が行われる。最近は白川さんや野依さんなど日本人受賞者も増えて来ており喜ばしいことである。それだけ日本人の優秀性が証明されている。ここスエーデンで行われ、授賞式はコンサートホールで、受賞祝賀晩餐会や舞踏会はこの市庁舎で行われている。この会場大ホールに数千人の招待客が集まり晩餐をとる。中世イタリアの広場を思わせるデザインで、高窓からの採光が効果を見せ、赤レンガの壁面は小さな「たたき仕上げ」になっている。





〔晩餐会後の舞踏会場・黄金の間〕
 見学のハイライトは何といってもこの黄金の間で、1900万枚の金箔モザイクで飾られた壁面は豪華絢爛そのもの。此処は晩餐会後のパーティの舞踏会用広間として使われる。中央正面に佇む黄金色のモザイクはメーラレンの女王である。威風堂々とした女王の前で招待客たちの華麗なステップが披露される。







〔市庁舎の裏庭・美しい背景〕
 市庁舎は優雅で厳粛な気品を漂わせて、メーラレン湖にその姿を映している。水の都ストックホルムにふさわしい。北欧中世風なデザインで、ヴェニスの宮殿の影響も受け、市庁舎というより宮殿か古城を思わせる佇まいである。









〔ストックホルムの旧市街地〕
 この日は昼食に中華料理ということで、食事前に町をぶらぶら。小さい通りだが面白い店が沢山並んでいた。










〔美しいストックホルムの港風景〕

 水の都ストックホルム。美しい風景である。











〔ヴァイキング船「ヴァーサー号」〕
 現存する最古の完全船として有名な戦艦「ヴァーサー号」スエーデンが強大な力を誇っていた当時に建造され、1628年ドイツ30年宗教戦争に参戦時に処女航海で沈没。その後1961年に発見され、333年間海底にあた船体はついに水面に引き揚げられた。保存状態がよかったとはいえ復元には相当な根気が要った。全長62m、排水量1300トン、乗員437人というもので17世紀の軍艦としては大きなものであった。船体には180に及ぶ彫刻が施されていた。




〔北方民族博物館〕
 ヴァーサー号博物館の前にある建物。16世紀から現在に至る生活を偲ぶことが出来る。織物、衣服、家具調度品、農工具などが展示されている。











〔豪華客船Silja Line(シリアライン)〕
 映画でお馴染みの悲運の「タイタニック号」より一回り大きい豪華客船である。総排水量5万8千トン(タイタニックは48,000t),全長:203m 乗客定員:2,852名 収容乗用車:400台 12階建ての匆々たる客船である。スウェーデンのストックホルムとフィンランドのヘルシンキの間を夕方5時出航し翌朝9時に着港の定期便で約16時間で運行している。船内にはレストランやバー、サウナ、プール、免税店、カジノ、薬局、おもちゃ売場まで揃っておりまるで浮かぶ豪華ホテルと言えよう。



5/6(月)
 レストランも大きくてビュフェスタイル。何でも揃っている。ヘルシンキの市内観光。最初は教会。なかなかユニークな造りに感心した。
 シベリウス公園も綺麗だ。シベリウスの像は大きな耳が印象的だった。
 ウスペンスキー寺院はタマネギ状の特徴ある屋根!ロシア風にできている。内部も綺麗であった。
 マーケット広場も楽しそうだった。明日の自由時間に来るつもり。早めにホテルのチェックインができたので夕食まで市内にでる。春花の誕生日プレゼントにムーミンの絵本や人形を買う。

〔テンペリアウキオ教会〕
 別名ロックチャーチと呼ばれているように、岩の中にスッポリ隠れている。出来るだけ岩を自然な形で保とうという発想で造られた。1969年に完成。天井の周囲を円形に切り取ったガラス窓からの光線が、むき出しの粗い岩肌を柔らかく照らし出し、自然の懐に抱かれたような落ち着きを感じる。
 外から見てこれが教会だと思う人はいないほどユニークであるが、内部も相当に変わっている。側面は岩肌がむき出し、天井は円形の銅板で出来ており驚いた。





〔シベリウス公園〕
 フィンランドの代表的な作曲家シベリウスを記念して作られた、ステンレスパイプのモニュメントと御影石の上に置かれたシベリウスの肖像のオブジェがある。美しい公園である。









〔シベリウスの像〕
 シベリウスはその91年の生涯に数多くの交響曲や合唱曲を作った。中でも有名な交響詩「フィンランディア」は、フィンランドの青く澄んだ自然と、心から国を愛し守り通した純真で勇敢な人々の歴史を謳いあげている。









〔ヘルシンキ大聖堂〕
 石畳の元老院広場を見下ろすように堂々と聳え立つヘルシンキ大聖堂。ドームを軸としたシンメトリックなデザインが印象的。ルーテル派の本山となる教会で、1852年に30年の歳月を費やして完成した。








〔ウスペンスキー寺院〕
 マーケット広場から見える赤レンガ造りの教会がウスペンスキー寺院。北欧最大のロシア正教の教会で1860年にロシア人建築家によってよって建てられた。13の半球天井は、キリストと12使徒に由来する。
 内部の壁にはテンペラ画でキリストと12使徒が描かれているほか、優れた宗教芸術品を見ることが出来る。内部の鮮やかな青に金色の星が描かれた天井は素晴らしい。






〔ヘルシンキオリンピックスタジアム〕
 1952年に開催されたヘルシンキオリンピックスタジアム。特にこのオリンピックで印象に残っているのは、水泳競技で「富士山の飛び魚」として話題になった古橋広之進の活躍である。









〔マーケット広場〕
 アマンダの像が眼差しを向けている港に面した広場。野菜や果物、様々な魚など生鮮食品の他にも土産物が並んでいてとてもカラフルである。山盛りのイチゴをスコップで量り売りする姿など自然の恵みが広場にあふれる。










5/7(火)
 今日はいよいよ日本へ帰国の日。
 出発は夕方の飛行機なので、それまで自由時間。市内を散策する。市内電車でまず一周した。乗車券を買おうとしたが、車掌らしき人もおらず、みんなの様子を見て習う。誰もチケットを買わず只乗りに見えたのでそうしたが・・後で判ったが時々一斉検札があり、無札であれば運賃と高い罰金を取られるそうだ。危ない所であった。やれやれ!
 それにしても地元の人は只乗りが多いと言うことだろうか・・・!?

5/8(水)
 成田は予定通りに到着。
 入国審査もスムーズに行く。荷物も何とか出て来て一安心。やっと帰って来た感じになる。帰りの宅配を頼む。
 次の羽田行きリムジンに乗り70分で到着。羽田で時間があるので食事をする。日本そばと生ビールの美味しいこと。日本に帰って来たと感じる。後は予定通り広島へ。家に着いたのは18時前・・・  
 長い一日であった。


NORWAY(ノルウエー)

 ノルウエーという国名は「北への道」と言う意味があり、名前の通り地図のはるか北部に位置し、本土の北半球が北極圏にある。人口は約450万人で、大半は南部に集中し、首都オスロを中心にした地域は人口密度は高い。気候温暖な海岸地帯から一歩内陸に入れば天候の厳しい山脈地帯となる。海岸線は内陸へ最大で200Kmも入り込んだフィヨルドをなす。フィヨルドの周囲は標高1000mにも及ぶ高い崖が水面から直立して観光名所になっている。






DENMARK(デンマーク)

 スカンジナビア諸国のなかで最も南に位置し、500に近い島からなる。人口約450万人でその1/3の約150万人が首都のコペンハーゲンに住んでいる。高山、大河はないが美しい海岸の風景は変化に富んでいる。19世紀後半から酪農国として発展してきた。童話作家アンデルセンの生まれた国である。










SWEDEN(スウェーデン)

北欧最大の国。人口887万人これも北欧最大である。国土のおよそ半分が森林に覆われて、9万以上の湖が点在している。夏は日が長く、夜は短くなる。冬はその反対。北極圏以北では夏の一定期間太陽は一日中沈まない、そして冬は一日中昇らない。高度の生活水準を保つ福祉国家と言われている。中立と人道主義を掲げた文化国家である。









FINLAND(フィンランド)

童話のムーミンやサンタクロースの故郷として知られている。アイスランドに次いで世界最北の国。国土の65%が森、10%が湖沼と河川、8%が耕作地という自然の宝庫。人口は約513万人で64%が都市部に住んでいる。フィンランド人の多くは郊外に別荘を持ち、週末や夏休暇のアウトドアライフを楽しんでいる。国民の文化的・経済的水準は高く、国民性は勤勉で真面目である。











2016/07/18 迷宮都市とカスバ街道・モロッコ物語の旅

 10年前に断念したモロッコの旅をやっと実現した。
 JTBの10周年記念企画で40名もの大参加ツアーであったが 参加した人は旅慣れた人達ばかりでとても和気藹々で楽しかった。
  私は旅行中満65才の誕生日を迎え、参加の人達から祝福されて、 格別に想い出深い旅となった。サハラ砂漠の日の出をラクダに 乗って見に行き、月の砂漠・アラビアンナイトさながらの情景を味わった。
  映画「カサブランカ」の舞台で過ごした夜、世界一の迷宮都市 フェズや彼方此方のカスバ見学など面白い旅だった


ハッサン2世大モスク


 8年がかりで1993年に完成したモロッコ最大のモスク全敷地には8万人、内部には2万人収容可能。
 ミナレットの高さは200mで世界一の高さを誇る。












アリババと40人の盗賊

ラクダに乗りサハラ砂漠の日の出を見に出掛ける月夜の砂漠を歩き、目の前に美しい太陽が顔を出す感動の一瞬である。
















モロッコの旅 総括

 10年振りに実現出来たモロッコの旅は面白い旅であった。
 映画のロケ地としてもよく使われ、異国情緒の豊かなイメージがある。モロッコと聞いて何処にある国か即答できる人は少ない。
 アフリカの北西部にあり、面積は日本の約2倍弱と比較的に大きな国である。総人口は3,000万人くらいしかいないので人口密度は遥かに低い。   
 モロッコの風景は、北側(地中海側)と南側(サハラ砂漠側)では大きな差があり、北側では緑の木々に囲まれた都市、方やアトラス山脈の裏側はサハラ砂漠の熱風を受けて、 緑の木は少なく、赤茶けた景色である。そうした砂漠の中に所々オアシスと言われる水と木々の生えた場所があり、そこに集落が出来ている。給水設備も充分でなく、ロバを使った水汲みや、川で洗濯している風景などを見掛ける。聞く所によれば日本がODA援助の一環として、給水塔を建て5万人の人々を救ったとして感謝されているそうだ。   
 郊外で見る庶民の住居は日干し煉瓦を積み上げた簡単なもので、また電灯もない状態や畑もない中でどのように生活しているのだろうかと想像する。
 モロッコ人の月収は1,000DH(\10,000)~3,000DH(\30,000)程度で家族の中で2-3人が出稼ぎをしてやっと生活が出来るレベルだ。因みに警察官で2,500DH,観光バスの運転手で3,000DHとか言っていた。物価はそんなに安い感じはなく(観光客価格?)ビール小瓶で25~30DH(\250~300)観光スナップ写真が手札版一枚で\200程度、絵葉書一枚\50程度である。
 驚いたのは何処の土産物店に行っても、アンモナイト、ムール貝、三葉虫などの3億万年前の化石が売られている。直径が30-40cmくらいのアンモナイトが・・・。モロッコは世界的に化石の多い国だそうだ。化石の大きな岩を掘り出し薄切りにして、それを磨いてテーブルなどに加工して販売している。日本からも注文が来ていると言っていた。モロッコの国教はイスラム教である。特に女性は人に肌を見せない。目だけを出して全身黒い衣装を纏っているので、こっちに歩いているのか、あっちに行っているのか分かりつらい。            
 薄くらい時など人がいることさえ見落とされ交通事故にあったりするそうだ。衣装の色も地の人は黒、他地域の人は白か黄色と決められているそうだ。   
 治安はそんなに悪いとは感じなかった。スペインでは白昼から公然とスリが横行して悩ませたが物売りは来ても擦り寄る人はいなかった。旧市街地に行けば狭い路地に沢山の人が詰めかけその危険性は高いが、モロッコの人はそんなに根から悪い人は少ないように感じた。ツアーのバス運転手やアシストさん、ガイドさんなどみんな親切でよい人達であった。
 食事は、朝はバイキングスタイルで、パン、ジュース、ハム、ソーセージ、果物など充分なメニューで満足できた。昼食も違和感なく美味しく食べられた。代表的な料理のクスクスは野菜と羊肉や鶏肉を煮込んだものにスープをかけて食べるのだが、スムールという祖粒状の小麦を蒸したものは、ちょっと喉を通りにくかった。特筆すべきはパンがとても美味しかったことフランスの統治下にあったせいかフランスパンに似てそれを少し柔らかくした円盤状のパンでとても美味しかった。また果物はオレンジや小さなみかんが美味しかった。この小さなみかんは甘さがとても濃いかった。
 観光場所に行くと必ず何処からともなく子供たちが集まって来て、キャンデーやボールペンなどをくれと言ってせがむのである。特に日本人観光客はサービスがよいのか・・・与えることがよいことなのかどうか考えさせられる。


旅程




1/24・25(木・金)
 いよいよ出発の日。ヨーロッパは出発が午前中なので前泊が必要だ。当日早めに集合の要請あり。添乗員の町田民子さんが待機。来た順に手続き開始。
 総勢40名のツアーには驚きだ。
 男性/女性共一人参加は各5名。夫婦は6組。4名のグルーープが1組いた。
 アムステルダムまで約13時間。乗り換えてカサブランカまで3.5Hだ。結構長旅だ。日本との時差は8時間だ。ホテルに着いたのは23時過ぎ、長い一日であった。

 〔CASABLANCA(カサブランカ)〕

 人口が257万人。ラバトが政治の中心なら、カサブランカはモロッコ最大の経済都市。14世紀にイスラム化が始まり、15-16世紀にはポルトガルに占領され、1907年のフランス占領後はヨーロッパの影響を受ける。ハッサン2世大モスクはモロッコ最大で壮観である。また映画「カサブランカ」でお馴染みのバーカサブランカがある。









 水の売り子                    Bar-カサブランカ




 ハンフリーボガード                 土産物店のアンモナイト


 カサブランカの朝                 ミナレットに描かれた模様


 ムハマド5世広場


 ハッサン5世大モスク                   建造物の中の回廊風の通路・・・


 CASABLANCA市街地                    Bar CASABLANCA 

宿泊のホテルからの眺め。見渡す先は大西洋・・・・   HYATTホテルロビー横にあるBar CASABLANCA


1/26(土)
 バスで市内観光。最初のハッサン2世大モスクは素晴らしい。
 10万人の信者がお参り出来る広さだ。中には入れなかったが、相当豪華なつくりだ。市中央部にあるムハマド5世広場には煌びやかな衣装を纏った水売りがいた。鐘をチりんチりんと鳴らして・・途中トイレ休憩にHAYATT Hotelに寄ったが一角に映画「カサブランカ」のモデルになったバーカサブランカの「Rick's Cafe American」があった。街中のみやげ物屋に大きなアンモナイトの化石を売っていたのには驚いた。この地は化石の宝庫。
 午後からマラケッシュへ移動!着後市内観光。衣笠さんが案内してくれた。バーヒア宮殿は明日の予定であったが繰り上げ。内部はなかなか美しい部屋であった。メディナを抜けてエル・フナ広場に出る。市民の広場というか、沢山の人で賑わっている。
 夕食はショーを見にゆくので楽しみだ。ベリーダンスに勇壮な騎馬ショーで楽しんだ。ホテルに帰ったのは0時を回っていた。寒くて眠い!      

 〔MARRAKECH(マラケッシュ)〕

 マラケッシュはフェズに次ぐ2番目に古い町。11世紀後半にベルベル人によって最初のイスラム国家が建国され首都としても栄えた。モロッコのほぼ中央、標高450mに位置する。街の背後にはオートアトラス山脈があり、サハラ砂漠との隔壁になっている。ジャマーエル・フナ広場やサード朝の墳墓群、バヒーヤ宮殿など見る所も多い。







 クトウピアモスク                  サアディンの墓


 バーヒア宮殿                    コウノ鳥


 ロバのお通り                    ベリーダンサー


 勇壮な騎馬ショー                    このバスで周遊


 沿道の住居                    フナ広場から眺めるモスク


 沿緑豊かな段々畑



1/27(日)
 今日はバスでアトラスの山越えだ。
 山岳の屈曲路は別名ゲロゲロルートといわれ、気分を悪くする人が出るそうだ。
 途中アイトベンハッドウのカスバを見学。世界遺産に登録されている要塞。勝手に壊したりできないが日干し煉瓦で修復している。内部は迷路のようになっている。最近の映画では「グラディエーター」が此処で撮影されている。よく映画のシーンに出てくる。現在ベルベル人の7家族が住んでいるそうだ。

 〔OUARZAZATE(ワルザザード)〕 アイトベーンハッドウ

 サハラ砂漠への入り口の街。アトラス山脈を越えると、そこは別世界。広大な乾燥大地に幾本かの川が流れ、その周りに豊かなオアシスを形ずくっている。1920年代フランス軍によってサハラ砂漠の最前線基地として建設された。ここから西へ”カスバ街道”が延びている。










 美しい朝焼け                   アッと集まる子供たち



 はにかむ美少女                  バラの香水店


 郊外の一本道                   モロッコの洗濯女


 トドラ渓谷



1/28(月)
 今日はワルザザードからエルフードへ移動。郊外の砂漠の中の一本道。所々にオアシスの町が見える。
 昼食はトドラ渓谷でとる。両側に200mを越える岸壁がそびえる。ヨッロッパのロッククライマーが練習のためにやってくるそうだ。
 アメリカのZion国立公園の巨大な岩壁を思い出す。岩陰は静寂で小川のせせらぎしか聞こえない。
 串焼きを食べるが、肉が少し硬かった。
 エルフードのホテル近くの化石再生工房を見学した。大きな岩石を薄く切って時間をかけて磨いていくと、アンモナイトやムール貝の姿が浮き出てくる。実に美しい。3億8千万年前の化石である。日本では考えられない風景だ。

 〔ERFOUD(エルフード)〕

エルフードは1917年にフランス軍の駐屯地として作られた町であり、サハラ砂漠への入り口。ティフラレットの中心的なオアシスでもある。このエルフードを基点に西の砂漠メルズーカの大砂丘に足を踏み入れる。ランドローバーの4駆で約1H走った後ラクダに乗り換えて日の出を見に行く・・









  顔を隠す女                 モロッコのグランドキャニオン 







  トドラオアシス                  億万年前の化石再生


  ERFOUDの夕月                   助っ人のベルベル人


  広大なサハラ砂漠                 名物のラクダに乗って


  砂漠の散歩                    日本が援助した給水塔


  モロッコのスイス・イフレンの町



1/29(火)
 今日はいよいよサハラ砂漠へ
 日の出を見にゆく。朝4時に起きて、寒さ予防にホットカイロを背中と腹に貼る。
 真暗い中5時にホテルを出発。4駆のランドローバーに6人づつ乗り、砂漠を約1時間走る。着いたところにラクダが待っている。乗り換えて30分ばかり砂丘の頂上を目指して進む。中には歩く人もいるが、ベルベル人が助っ人に付いて手を引っ張ってくれる。砂の中は歩き難い。
 頂上で日の出を待つ。周囲が少しずつ明るく色が変化して美しい。砂丘の凹凸に反射してその陰影がまた美しい。見にくる価値は充分にある。帰って朝食を取り出発だ。
 今日はFEZへ向けて長いバスの旅になる。
 途中ニベルトで昼食。物売りの執拗な男がいるので要注意! 井元さんが朝食堂の中にカメラを忘れて来た添乗員に連絡。


 〔FEZ(フェズ)〕

 世界一複雑な迷路の町。道は狭く起伏に富み、上がったり下がったり、曲がったり戻ったり、それ故未だに輸送手段はロバである。そこを人々がやっとすれ違うのである。歩き回るうちに同じ場所をクルクル回っているような錯覚に陥り、一度入ったら二度と帰って来れないと言われている。イラン王朝の都としては、モロッコで最も古いまちである。









  ロバで水運び                   FEZの宿泊ホテル


  美しいブジュールド門               王宮の門


  ブロンズショップ                 サファーリン広場


  アッターリン神学校跡               願掛け箱


  スーク内の雑踏                  なめし皮の染め所


  ヘンナの染料で手に模様



1/30(水)
 気持ちよいホテルだった。
 午前中はフェズの市内観光。世界一の迷路メディナを歩く。狭いくねくねとした路。一人ではとても歩けない。方向が分からなくなる。
 昼食時に私の満65歳の誕生記念セレモニーを開いてもらう。感激だ!
 途中首都のラバトに寄ってムハンマド5世廟を見学。ここから大西洋が見られる。
 10時過ぎカサブランカのホテルに入る。夕食はオプションで中華。その後Bar CASABLANCAに行きカクテルを飲んで帰る。
 今日でモロッコの旅は終わりだ。


1/31(木)
 今日はいよいよ日本へ帰国の日。
 朝が早い!3時起床だ。
 ホテルを4:30出発。空港で暫く待つ。
 予定通りアムステルダムに飛ぶ。
 アムステルダムで乗り換えて日本へ。


2/1(金)
 成田は予定通りに到着。
 入国審査もスムーズに行く。荷物も何とか出て来て一安心。やっと帰って来た感じになる。帰りの宅配を頼む。
 次の羽田行きリムジンに乗り70分で到着。
 羽田で時間があるので食事をする。日本そばと生ビールの美味しいこと。日本に帰って来たと感じる。
 後は予定通り広島へ。家に着いたのは16時・・・  
 長い一日であった。

 〔Topics・・ 誕生パーティ〕

 旅行期間中、1月30日私は満65歳の誕生日を迎えた。昼食後JTBの特別の計らいで私の満65歳の誕生記念セレモニーをやってもらった。
 1月30日メディナの中のレストランで昼食後「今からセレモニーをやります」という添乗員の町田さんの声で、みんなが不思議に思った。何だろう!
 すると現地人ガイドさんやアシストさんがハッピバースデーの歌を歌い出した。「あっつこれは誰かのお誕生日だ!」 私は知らぬ顔をしていたが、現地人はケーキを持って私の所に来た。ハッピバースデーto Yoshiokaさーん と言った途端全員の視線が集中した。私は少し照れくさかった。でもみんなの祝福に感激した。
 誕生ケーキをみんなで分けて食べた後、お礼の挨拶をした。 遊ぶことに2つの目標を持っている。一つはこうして旅を楽しみ50ヶ国以上を回ること!。も一つはパラグライダーを70歳まで楽しむこと! これからも元気で生きて行きたい。とこの挨拶にみんな感銘を受けたようだった。後からよかった!よかった!の声しきり・・。想い出に残る旅となった。


 〔印象に残った・・・見どころスナップ 〕

 FEZのジュータン屋                じゅーたん織の実演


 花嫁さんの乗り物                 スーク内の糸屋さん


 オアシスへの入り口                メルズーカ大砂丘の日の出ツアー 






2016/07/04 U.S.A・Grandcircle Drive Tripの旅

 3年前アメリカ中西部横断ドライブを計画したが 事情により断念した。今回は規模を少し 縮小しRoseと一緒にGrand Circleを巡るドライブを計画した。 Las Vegas を起点/終点とし Grand Canyon,Monument Valley ・・など7ヶ所の国立公園を8日間で約2600Km走った。 何れの地も素晴らしい風景で期待に違わず感動した。 Roseもよく案内してくれ楽しい旅をすることが出来た。 Arizona HWY Patrol-carにスピード違反で捕まったハプニング・・ もあったがよい想い出になった。


朝霧に輝くグランドキャニオン

 日中の写真はよく見かけるが、霧につつまれたグランドキャニオンの風景は珍しい。
 園内に宿をとり朝一番に撮影したものである。













西部劇の舞台・モニュメントバレー

 ジョンフォード監督の西部劇映画はここを舞台に何本も撮影されている。懐かしい映画の場面を、想いだしながら・・















USA Grand Circle Drive 総括:

  2001年9月11日 世界中を震撼とさせたニューヨークの同時多発テロ事件が発生した。 その2週間後私はアメリカに飛んだ。大事件の後だけに周囲の人は私のこの計画に眉をひそめた。「わざわざ危ない渦中にはいることもなかろう!」まさか本気で行く積もり ではなかろう・・・」と。
  私の計画は3年前に遡りその時点で中断していたものを、今年の7月再度計画を練り 直し、規模を縮小し準備を進めて来ていた。Las Vegas を起点/終点としていわゆる Grand Circle と言われる Nevada,Arizona,Utah 各州にまたがる7つの国立公園と 2つの国定公園をレンタカーを借りて周回する壮大な計画である。
  私が長い間暖めていた計画である。仕事でなく自由人として、のんびりとアメリカの 雄大な大地を走ってみたかったのである。現役の頃走って以来、あれから10年は経って いる・・。まだ体力/気力のある内に実現したかった。私の夢でもあった。
  危険を返りみず決行したのは、人は誰でも生まれながらの運命に従って生きている。 災難に遭うのも運命であり、無事何事もなく帰還できるのも運命である。
 折角のチャンスは「運命を賭けて挑戦する」と言うのが私の哲学である。人生に悔いを 残さないように生きて行きたいのである。
  前置きはその位にして、結果は予想通り大きな収穫が得られたことを喜んでいる。
  事前の計画どうりに順調に遂行できた。ルートの設定、一日の走行キロ、宿泊地、・・など ほぼ満足できるものであった。「準備がよければ結果がついて来る」ことを実感した。 相棒のRoseも大いに貢献してくれたことに感謝したい。
  アメリカの自然は雄大である。スケールが全然違うことを思い知らされる。     こうした雄大な自然の中にいると、日ごろの心の垢と言うかストレスが霧散して行くようだ。 寿命が延びるような気持ちになれることが大きな収穫であった。   
  明日からの新たなエネルギー源となることは疑いない。 旅はいいものだ!私の持論である。 
 8日間で約2,600Km無事に走り終えた。満足な気持ちである。


旅程



9/25(火)
 いよいよ出発の日。予定通り広島を出る。羽田で高石/ 屋城さんに会う予定にしていたがテロ事件の後だけに慌しい のでそれは取りやめた。
 結果的には正解で成田へのいつもの リムジンは湾岸コースを取り1時間も余分に時間が掛かった。 成田に着いて驚いたことにロビーは閑散として照明も一部は 消えており異様な雰囲気であった。
 テロ事件の影響は大きい。 キャンセルした人が多いと言うことだ。手荷物検査も厳しく、 スーツケースの中まで開けられたのは久振りのことである。
  手続きを終え早めにJALラウンジに入った。しかし予定時間に なっても出発のアナウンスはなく、聞いたところ機材の用意が 出来なくて、オランダからの便を待ってそれを使うとか・・ この辺にも影響が出ているのだろうか?結局1h20’遅れの出発 となった。RoseがLas Vegasで待っているので遅れることを連絡 しなくては・・と思いラウンジからメールを打とうにも作動せず。 結局弘恵に代送を頼んだ。
 飛行機の中はお客が少なくゆったり シートを独占して寝て行くことが出来た。
 Las Vegasに着くと Roseが草臥れた顔をして待っていた。すぐRent a Car を借りにHertzの事務所を探すが、Roseが間違えて国内ターミナルへ 案内し、余分な時間を浪費した。
 車は既に用意されていた。 その足でAAAに行き地図などを入手。帰りにAlbertsonのスーパー に行き、明日からのTripに備えクーラーボックスや飲みもの、果物など 仕入れた。これはとても役にたった。14時頃B/Wにチェックインし、 Rose達へのお土産などを渡し、16時過ぎころ再度市内へ出掛け、 トレジャーランドの海賊のサバイバル戦の無料ショーを見て夕食を取りホテルに 帰った。長い長い一日であった。

9/26(水)
 時差の影響もあり2時3時ころから目が覚める。
 いよいよ 今日からTripが始まる。7時30簡単なホテルの朝食を取り出発 する。快晴で気持ちよい青空。US-93を南下する。順調だ! 11:30頃最初の給油をする。1.69$/galとは安い。凡そ日本 の1/3位?Grand Canyonの近くでMacの昼食をとり、IMAXシアター で大型画面のGrand Canyonの映画をみる。 Guide Bookには7.5$となっていたが10$に値上げされていた。 しかし迫力があり価値は充分で楽しめた。
 14:30頃 Grand Canyonに到着し、Mather Point,Yavapai Pointなどで暫く 素晴らしい渓谷の美しさを堪能する。Yavapai Point ではレスキュー隊がおり、誰かが渓谷に身投げしたとか・・ 15時頃Checkinし荷物を降ろして、すぐ園内の散策に出かける。
  Park H,Qから Hermitsまで1.2KmのRim Trailを歩く。3^40' 歩いたか、渓谷に沿った道からの眺めはまた違った美しさで ある。
 夕日の名所 Hopi Pointには更にシャトルバスに乗換えて 行く。沢山の人が夕日を待っていた。段々と沈む夕日に映えた 渓谷は一段と美しい。
 North Rim側では4-5ヶ所で森林火災が 発生し煙がひどくたなびいて風景を阻害していたのは残念だ。 凡そ40’位いて帰途につく。
 Roseは子供のころ来てから2度目 とか・・素晴らしさに感嘆の声を上げていた。
 夕食はHotelで ビュッフェスタイルで10.75$であった。園内で横浜から来たと言う老夫 婦に会った。Las VegasでRent a Carを借りて来たそうだが大 したものだ。明日は軽飛行機でGrand Canyon見学とか・・ Grand Canyonが2000mの標高にあることを知って驚いた。 そう言えばLas Vegasから登って来たように思う。 郊外を走っている車は70-80M/Hで意外によく飛ばしている。 キャンピングカーがよく目に付くが結構みん生活を楽しんでいる。

〔Grand Canyon N,P〕

 Grand Canyonには過去数回来ているが、来る度に新しい風景を感じる。今回は園内に宿を取ったので、真昼の表情、夕焼けの表情、朝の表情など色んな表情を見ることができた。何時みても雄大な景色である。一つ残念だったのは、North Rim側で森林火災が数箇所発生しており煙に覆われたGrand Canyonであった。








 Mather Pointにて                  雄大な渓谷


 沈み行く夕日                   朝霧の渓谷



9/27(木)
 今日は日の出の Grand Canyonを見たいと思ったが、 遅れの出発となった。しかし Mother Pointに行ってみると 渓谷に朝霧がかかって、今までに見たことも無い幻想的な素 晴らしい景色を見ることが出来てラッキーな気持ちになって いた。
 しかし次に思わぬハプニングが待っていた。今日は Lake Powellで Boat Tourを予約しているので昼頃には着きたいと 思っていた。しかし89号線に入ると、道路の補修工事で片側通 行/渋滞走行となり、気分的に少し焦りがあったのか、渋滞の 遅れをカバーすべく前車を追うかたちで走っていた。前車の Pontiackは100M/H近くで飛ばして走っていたが、一瞬パトカーと すれ違った。アレッ!とバックミラーを覗くと後方でパトカーは方向転 換し赤青燈を点滅させ物凄い勢いで追って来た。これは捕まっ たわい!と覚悟をし徐行していたら横を凄いスピードで通過した。 アレッ!助かったカナーと思ったが、先で前車のPontiackを 止 め、私が来るのを待っていた。Good Morning!優しい調子で免 許証とレンタカーの借用書を見せろと言って持って行った。暫く そのポリスは調書を書き何やらしきりに無線連絡をしていたが、 返って来て此処は65M/Hである、貴方は82M/Hで走っていた。 前の車は85M/Hであった。も少し遅く走らなければいけない! と言い、調書にサインをしろと言った。幸い、 今回は警告だ!今度違反したら罰金だぞ!と言って 調書を渡した。Thank You very Much! Lucky! と言ってその 場を去った。
 Roseは日本人だから許してくれた。本当にラッキー だ!前車は米人であり確実に罰金だ!と言い 制限+5M/Hが限 度だと注意してくれた。捕まって嫌な気分と警告で勘弁して 貰った嬉しい気分と複雑であった。
 Wahweep Marina には予定 通り昼頃に着いた。予約を確認し乗船券を受け取り、レストランで 昼食をとった。此処のビーフサンドウィチは10$位であったが、凄く美 味しかった。13:20予定より早かったが全員揃ったので早めの 出発となった。 Tourのメンバーは52名と言っていたが上甲板に集 まり、一階の船 室はがら空きの状態であった。
 やはりテロの影 響が此処でも見られた。わざわざ日本からインターネットで予約まで したのだが・・。入り江の奥にある Rainbow Bridgeが主役で あるが途中の赤茶けた岩山、紺碧の空、透き通った水の色とて も美しかった。西部一のウオーターアクチビテイの場だけにモーターボートや ジェットスキーなどみんな楽しんでいた。
 2時間少々走ってやっと 目的のRainbow Bridgeに到着した。世界一の自然橋と言われ るだけあって物凄く大きいアーチである。長い年月を経て橋に なったものだ。Roseが橋の下から見上げていた。約30'散策し 帰途についた。帰りは西に向かって進むので西日を受けた岩山 が一層赤茶けた色で輝き素晴らしく綺麗であった。 港に着く頃には夕日は沈んでいた。5時間の長いTourであった が楽しかった。
 Hotelには19:00頃着いたが夕食は近くのステーキハウス に行った。
 朝方 Grand Canyonで大型バイクに乗った中年の日本人 2人に出会った。 外観からは日本人と気が付かなかったが、写真を撮っている時、 場所を譲るため「どうぞ!」と言ったので分かった。 シカゴから3週間掛けて走っていると言っていたが、さぞ大型 バイクで楽しい旅をしていると少し羨ましく思った。面白そうだ なーと・・。それにしても結構冒険?をしている日本人がいる ものだなーと感心した。日本人と会うのは意外に少ないと思っ たが・・

〔Lake Powell〕

 紺碧の空、赤茶けた岩肌、透き通った水の色・・・実に美しい。世界で2番目に大きな人造湖だそうだ。湖の長さは東西約300Kmにもおよぶ。「水をたたえたグランドキャニオン」と称される迫力ある景観。半日のボートツアーを予約し入り江の奥にある世界一の自然橋、レインボーブリッジを見に行った。往復に約5時間かかったが途中の風景は素晴らしかった。人々はボートをはじめとするウオーターアクチビティを存分に楽しんでいた。






 美しい岩山                    雄大なRainbow Bridge


〔TOPIC〕

 2日目Grand CanyonからPageへ向かう89号線でHWYパトロールにスピード違反で捕まった。真っ直ぐな何もない道で前車のPontiackを100M/H前後で追いかけていた。制限速度は65M/Hである。一瞬すれ違ったパトカーが後ろで方向転換し,赤青色のランプを点滅して追って来た。通り過ぎたので助かったと思った・・がさにあらず先ず前車のPontiackを止めて私が来るのを待っていた・・・・。








9/28(金)
 今日は 楽しみにしている Monument Valleyだ。懐か しい昔の西部劇映画を思い出す。何とも強烈に印象に残っ ている。何時か行ってみたいと思っていた。
 Hotelを出て東 に行くべき所をRoseが西だと言う。この調子で当てにならな いことがある。地図をみて納得。朝日を受けて真っ直ぐな田舎 道を進む。小さいKayentaの町に入るが町の外れで左折する所を 直進して間違いに気が付く。小さい標識を見逃した。後は一本道 だ。暫く進むと彼方此方にビュートが見えて来た。目的地は近い。
 公園の入口と Goulding's Lodge への四差路に来た。まず Lodgeに行くことにする。大きな屏風岩のすぐ 下に Lodgeの建物が小さく並んでいる。あまりにも大きい岩な ので建物が小さく見えるのだ。人は少なく開店休業かと思うほど 静かだ。インデアンの子孫かと思える顔をした女の人が出てきた。 此処は Valleyの中の一軒家で風景を見るには最高の宿で、どの 案内書にも宿泊を薦めている宿である。是非泊まりたいと7月 から予約を入れるが満杯で中々取れず、4回目にしてやっと取れ た宿である。ガランとしているのも異様な感じであったが、やは りテロ事件の影響だろうか・・。チェックインし午後からの2.5Hrの Valley jeep Tourをお願いする。5HrのTourもあると薦められ るが断る。
 トラックの荷台にシートを付けて12-3人乗りに改造 したもので6人以上集まれば出発する。運転手兼ガイドはインデアン の子孫だ。最初ナバホ族の伝統的な住居のホーガンを見学した。 中で老婦人が当時の生活を再現してくれた。動物の毛を集めて紡 いで反物を編んだり、トウモロコシを平板な石で磨り潰して粉に したり、貴重な風物であった。そこを出て Valleyの中に入って 行く。途中 Visitor Centerの前を通り、凸凹の砂道を行けば目 の前に凄くデカイビュートが現れる。止まって記念写真を撮る。 更に奥に入って行くと、すれ違う車が凄い砂塵を上げて、風に流 されて全身に被る。凄い砂塵だ!口の中がギザギザする。 カメラが砂を被り此方が心配だ。2.5Hrで充分だ。 5時間もこんな状態が続けば大変だ!と思った。奥の方にはそれ なりに珍しいビュートが並んでいた。
 やっとHotelに帰りシャワーを浴 びて生きた心地に返る。夕食は夕日に映えるビュートを眺めながら ・・。心に残る素晴らしい光景だった。Hotelにはミュージアムが あり、J/Ford監督やJ/ウエインの使った道具や椅子など、また映画 のポスターなど展示してあり懐かしく見た。記念に来訪者帖に Hiroshima JAPAN と名前を残して来た。

〔Monument Valley〕

 懐かしい西部劇映画の故郷。駅馬車、黄色いリボンなどJ・フォード監督やJ・ウエイン達がここを舞台に撮影をした。一面赤茶けた土/砂漠の中にそそり立つビュート(残丘)が印象的。約2時間半のジープツアーで園内をドライブしたが色んな形の美しいビュートが見られた。凄い砂塵で口の中までギザギザするほどであったが見る価値は充分であった。園内唯一のGoulding's Lodgeは予約に苦労したがテロ事件の後だけに宿泊客は少なかった。






 The Totems                    Ford's Point


 Goulding's Lodge全景               Lodgeから眺めるビュート


 素晴らしいMonument Valley



9/29(土)
 今朝は日の出の Monument Valleyを見ようと期待して待って いたが、生憎雲が出ていて綺麗な光景は残念ながら見られな かった。
 朝食は付いてないのですぐ出発。153号から191号線を 北上する。この辺りの風景も美しい。 Moabまで150Mile程度。 右手に大きなドーム状の家の形をした岩が現れる。Church Rock と標識が出ていた。
 その近くで Roseが突然 Canyonlandsは 左手に入る道があると言う。おかしい私の計画では Archeesの 後で周ることになっている筈だが・・確かに標識にはCanyon Landsと書いてある。朝飯抜きで走って来たのでMoabで何か食 べたいと思っていたが・・ Roseの指示に従う。田舎の細い道 が続き、対向車も1-2台と少ない。ほんとにこの道で大丈夫か なと心細くなる。凡そ30’位走って渓谷らしきものが見えて 来た。
 着いた所は Needlesと看板が出ていた。誰もいない。 少し歩くと見晴台に出たが、雄大な赤茶けた岩谷の光景で目 を見張った。とても素晴らしい風景であった。来てよかった と思った。計画していた Canyonlandsを反対側から見る Pointであった。思わぬ拾い物をしたことになった。
 その帰り 道に分岐点がありこちらも覗いてみようと欲張ったが砂利道 で20M/Hの制限道であった。随分時間が掛かったが着いた所は Antickの看板が出ていたがあまり見る様な所でもなかった。
 帰り道でRoseと話した。人が余り行かないから砂利道なんだ ・・と。この寄り道は1勝1敗だった。やっと12時過ぎ Moab に着いた。
 昼飯は美味しかった Arby'sの店を探す。やはり 此処のRoast Beefのサンドウイッチは本当に美味しい。フライドポテトも 絶品である。3.75$と安い!
 腹も落ち着いたので Archeesに出かける。この町の外れにArch eesN,Pの入口、Visitor Centerがあった。周囲は赤茶けた岩山 である。坂を登りながら進むと視界が開け彼方此方に岩が林立 していた。思わずワッツ!と声が出る眺めだ。写真を撮りなが ら進む。バランスロックの前では上部の岩が今にもバランスを崩して落 ちて来そうだ。ウインドセクションのダブルアーチを見て、デリケートアーチを見 て、一番奥のデビルスガーデンまで凡そ25Mileくらい。見る所が 多い。途中で日本人らしき人を見かけたので写真のシャッターを頼 もうかと思ったが・・韓国人であった。ほんとによく分から ない。
 予定ではもう一箇所 Canyonlandsに周らなければならない。 17:00近くになっている。慌てて Archeesを出てCanyonlandsの Dead House Pointに着くと17:30。閉門は18:00となっており、 早速周辺を歩く。Guide Bookには是非見たいPointと書いてあ ったが左程の所でもないと思った。
 Moab に帰り洗車、Gas補給 スーパーで買出しをしてHotelにチェックインする。夕食は中華料理を 美味しく食べる。
 夕食後街中の土産物店を覗く。Blairが12才 の誕生日だと言うので Archeesの500ピースのジクゾーパズルを 贈る。
 アメリカに来て4日目くらいまでは時差の影響が出て、夜中 1-2時頃に目が覚め、また昼前頃に無性に眠くなる。この 克服が課題となる。また部屋に入ると車に乗った感じで部屋 が揺れるように感じた・・

〔Canyonlands N,P〕

 Archeesに行く途中Roseのお勧めでThe Needlesに寄った。幹線の191号からわき道に入って約30'赤茶けた砂岩が針のように並ぶ素晴らしい景観に出会った。またArcheesの後191号から313号に入りDead Horse Pointにも行ったがコロラド川が「ガチョウの首Goose Neck」のように曲がった景観は面白い。広大な公園を北側と南側から見たことになる。










〔Archees N,P〕






9/30(日)
 今日はCapitol Reefだけを周る予定であった。
 ホテルの朝食がな いので直ぐ出発する。Hanksvilleまでは順調に走って来た。 途中眠くなるし退屈なので Rosに何か歌を唄えと頼む。暫く考 えていたが何時も日曜日に教会で唄うものを披露した。比較的 高い声であったが綺麗な声でとても上手に唄った。 Roseの歌 は初めて聞いたが、上手だとは聞いていたが・・これほど上手 だとは思っていなかったので感激した。上手い!と褒てめやっ た。Roseは喜んでいた。
 この後道に迷いどこかの農場の入口に 入り込んだ。Roseに「お前が余りに上手い歌を唄うので調子が 狂ったわい!」と言ったら笑っていた。元の道に戻るのに30' ばかりロスした。どうも直進すべき所を左折したことが原因で あった。 Capitol Reef の入口の看板が出てきたが周囲には何もなく 一寸躊躇した。暫く進んだ所で Visitor Centerが見えた。
  中に入ってとても綺麗なスライドを見た。24号線が公園の中を突 き抜けている様で特に見るようなものはなかったが、唯一900 年前に住んでいたインデアンの描いた絵が岩肌に残っていた。 直接風雨に晒されていたが勿体無いと思った。人や馬の絵が 中々上手く描けていた。24号線から12号線に入って山間の高地 を走るようになる。高度は2500mくらいで紅葉が始まっている。 日本の紅葉と違い黄色系の濃淡で白い白樺の樹皮とのバランス が美しい。赤系の色が入れば言うことないと思うのだが・・。
 昼になり、朝から何も食べてないので食べる店を探したがそれ らしい店は何処にも見当たらなかった。Roseは「腹が減った!」 「腹が減った!」と言っていた。車に積み込んでいたバナナや りんごを食べコーラを飲んで何とかつないだ。結局Capitol Reefでの時間が予定より少なく済んだので、Bryce Canyon に早く着くことが出来た。
 直ぐ Ruby's inn にチェックインし、15時 過ぎやっと遅れの朝・昼食をとる事ができた。
 食後まだ日が高いので荷物を降ろして直ぐ Bryce Canyon に出 かけた。Ruby's innは公園の入口に近く便利がよかった。 Bryce Canyonの一番奥の Rainbow Pointまで行き、一つ一つ View Pointを見ながら戻って来た。
 Bryce Canyonは独特の風景 で風と雨で浸食された尖塔群の林立は目を見張る美しさであ る。尖塔は地層の断面をみる様で白色から茶色、茶色から白色 へと色の微妙な変化がグラデーションをかけたようで実に美しい。 ほんとに美しい公園だ。Roseに今までの所で何処が一番印象 に残ったかと聞くと、「一番は Grand Canyon,続いて Bryce Canyon,Archees,Capitol Reef・・」と言っていた。 園内一周のシャトルバスが運行されているので明日乗ろうかと思 っていたが、バスは9月末、今日が最終運行日であった。 シーズンは5/中旬~9/末ということのようだ。

〔Capitol Reef N,P〕

 公園の看板だけがあってVisitor Centerが見当たらないのでやや躊躇した。暫く走ってやっと見つけたが24号線が公園の中を走っているようだ。Visitor Centerの近くの大きな岩肌に900年前に住んでいたインディアンが描いたという馬や人の絵が印象的であった。雨に晒されて何れ風化するのは勿体無い。













〔Bryce Canyon N,P〕

 ここは他の公園と違い幻想的な美しい尖塔岩が見られる。穏やかな森や草原の中に突然現れる断崖、立ち並ぶ色も形も様々な岩の尖塔群が光によってその表情を変えていく。白色から赤茶色までグラデーションをかけたように微妙な色の変化の美しさは幻想的である。早朝のサンライズ・ポイントなど一見の価値がある。不思議な光景である。公園入口近くのRuby's innは大きな設備でお勧めの宿である。










10/1(月)
 今朝は Sunset Pointで日の出が見たい!と Roseに「5時起 床だ!」と言ったら「とんでもない!夢の中だ・・」と言う ような顔をした。昨日Roseに帰りのJALフライトのReconfamation を頼んでいたが、通じなかったと言って朝電話を掛けるので、 益々 Sunset Pointへの出発が遅れた。
 やっと車を飛ばして 着くとみんな寒そうに毛布を被ったりしてぞろぞろ引き上げ ていた。残念見逃したか!と思ったが、View Pointに行くと Bryce Canyonの白茶の尖塔が朝日に輝いて物凄く美しかった。 この世のものと思われないほど幻想的な光景であった。見に来 た価値は充分にあった。カメラマンが数名残ってその美しさを 撮っていた。尖塔の根元に遊歩道がついており数名歩いていた が、この中を歩いて見る風景もまた格別であろうと思った。
 帰って来て朝食をとり チェックアウト。出発すると Roseが「Zionの 他に何処か寄るところがあるのか?」と聞いた。その時は気が 付かず「色々途中の景色を撮るために寄る」と答えた。 89号線を南下して9号線に乗り換えてすぐZionの予定であった が9号線に入る所を間違えて直進して気が付いた。引き返そう としたら Roseがこのまま直進して Kanabまで行ってくれと言 う。「どうして!?」と聞くと、Kanabに「 Best Friends Animal Sanctuaryがあるので寄りたい」という。「此処から 30'くらい往復で1Hrだ。今日は時間もある」と言うことで立 ち寄る。
 Roseは動物好きで此処には友人と時々来ると言って いたが、友達から頼まれたと言って此処のLogoが入ったTシャ ツを2-3枚買っていた。此処には鳥や兎や馬、猫、犬など沢山 のペットがいるそうだ。
 寄り道はしたものの昼過ぎにはZionに 着いた。 公園の奥に入ろうとしたら Roseが「一般の車は進入禁止にな っているから駄目!」という。
 仕方なく Visitor Centerまで 行くと沢山の車で駐車場は満杯であった。一般の車は此処に置 いて園内は無料のシャトルバスが用意されている。まず昼飯を食べ てからと思いレストランに入った。ふと壁紙を見ると「internet/ mail15'が3$」と書いてあった。成る程此処からメールを打つ ことも出来るのだと思ったが、メールアドレスまでは持って来ていな かった。絵葉書を出すより早い!が、商売になるのかなーと。
 食後シャトルバスに乗り公園の一番奥の Temple of Shinawavaまで 行き、順次一つ一つView Pointで下車し見学して返ることにし た。この Zionもまた素晴らしい風景だ。雄大な聳え立つ岩山 の美しさ他の公園とはまた一味違う男性的な迫力と緑の木々の 女性的な柔らかさとのマッチが素晴らしい。Roseは Grand Canyon に次いで素晴らしいと言って感嘆していた。園内の中ほどに Zion Lodgeがあった。公園のど真ん中で素晴らしい環境の Lodgeであった。 何度も予約を入れたが取れなかった所だ。3ヶ月前では遅い くらいで、やはりよい所は早めの予約が必要だ。奥から見学 して来て、このLodgeに来た時 Roseがこの奥に滝があるので 行かないかと言う。「1Hr歩けば行ける」という。「エッ! 1Hr?」と聞き返した。1時間も歩く自信がなかった。それと 滝くらい!という気持ちも無くもなかった。Roseはあの太い 身体をして歩けるのかなーとも思ったが・・。Roseは残念そ うだった。 「来年は友達と歩きに来る!」と言っていた。
 Visitor Center の本屋で日本人夫婦に会った。埼玉県の人で Bryce Canyonと Zionに Trailに来たとか、LosでRent a Carを借りて来たと言 っていた。「Trailの魅力に嵌った・・何度も来ている」と。 逆に「一人でDriveですか?それは凄いですね」と励まされ た。
 Zionの素晴らしさを満喫して帰りかけて、此処にもIMAXが あることを思い出した。やはり見ておこうと・・入場料は @7.50$で Grand Canyonのものより少し安かった。内容は今一 であった。
 そこを出て今夜の宿泊地 Harricaneへと向かった。25Mile離 れた小さな町で此処にしか宿が取れなかった。Hotelを探すが 見つからず町を通り過ぎた。おかしい!見落とす筈は無いの だが・・また引き返す。看板がない!今度は番地を頼りに探 してやっと見つけた。分からない筈だ。Best Westernの看板を 下ろしていたのだ。小さな宿で泊まる人も少ないのだろうか ・・最安の44$の宿であった。夕食に中華をと考えたがこの町 にはなかったので仕方なくMacで済ませた。

〔Zion N,P〕

 巨岩群の宝庫。スケールの大きさに驚かされる。見上げるほどの赤茶けた岩肌の山、透き通った青い空、緑の木々のバランスが実に美しい。園内は自家用車乗り入れの禁止。全て無料シャトルバスが運行される。7-8ヶ所のView Pointで自由に降りることができる。15’毎にバスがやってくるので便利だ。Visitor Centerに大きな本屋があり、ポスターなど売っている。










10/2(火)
 今日はTripの最終日、 Las Vegasに帰る日だ。余り距離が ないのでゆっくり出てもよかったが、何時ものように8時に 出発した。
 この道は以前にも何度か通ったことがあるが、 何もない坂道の多い道だと思った。何と1Hr40'で着いた。 丁度 Las Vegas市内へ入るラッシュアワーで車はかなり輻輳していた が・・。早すぎると思っていたら、Roseが自動車博物館があ るというので、時間待ちには丁度よいとそこへ行くことにした が、さて駐車場があるのか疑問だった。市内に降りて駐車場を 探すのにウロウロしたが何とか無料の場所を見つけることが 出来た。
 博物館はフラミンゴの5Fにあった。入場料は呼び込みのチケットを貰 ったので無料。古い車から比較的新しいものと色々並んでい るので博物館にしては少し変わっているなーと思ったが、 展示車に値段が付いていて売ってもいた。500万$とかの値札 もあった。その後 RoseがキャンデーのM&Msに行きたいと言うので、 付きあった。全米で物凄い人気だそうでキャラクターグッズが沢山 ありみんな大きな袋を抱えていた。私も孫の土産を2-3買 った。
  その後MGMGrandにモノレールで行き、今夜のショーEFXの切符を買った。 中央付近の席で@55$であった。
 その帰りカジノでスロットマシンを やる。Roseに10$分のコインを買ってやったがすぐに終わった。 私は暫くは楽しんでRoseにも分けてやり遊んだ。
 その後昼食 にArby'sの Roast Beefが食べたくなったので Roseに店を探 させた。電話帳を繰って調べていた。やはり美味しい! 昼食後 Hotelにチェックインし、Rent a Carを返しに行くことにし、 空港までHotelのシャトルバスで迎えに来てもらうよう Roseに交渉 させた。こんな時に Roseがいると何かと助かる!私とRoseは 意思が通じるが、相手が変わると交渉も難しい。Rent a Car は明朝帰国時に返す予定にしていたが、一日早く返せたので 一日分安くなった。
 夕方の出発まで Hotelで帰国の荷造りを する。早めに出てMGMで夕食をとりショーを見る計画で、これも HotelのシャトルバスでMGMまで送ってもらった。夕食は中華レストラン で美味しく頂いた。
 EFXショーは19:30から始まった。やはり見る だけの価値があり凄い!約1Hr30'楽しんだ。場内はギューギュー の満席であった。踊りと歌と幻想的なシーンをハイテクで演出。また 3D映画(?)も取り入れていた。お客を舞台に引き出しての トークもなかなかユーモアがあって面白かった。素晴らしい。
 此処を出て Roseが次は噴水ショーを見に行こうと言い出し、30' ばかり歩いてベラッシオに行ったがこれも素晴らしいもので無料で 開放しているのは凄い!と感心した。音楽に合わせて噴水の舞 が見られた。帰りも Hotelのシャトルバスに迎えに来てもらった。 大サービスだ!楽しい Las Vegas 最後の夜であった。
  久振りのアメリカで感じたことに、従来食料品と衣類は生活 必需品であり格別に安かった記憶があったが、今回は意外にも 物価が高くなっていることを痛感した。今の日本の方が余程 安いと思った。例えば昼にサンドウィッチが10$、朝でも5-6$,夕食 で13-25$である。またTシャツでもバーゲンで10$,普通は25-35$で ある。安いのはガソリンくらいだろうか?・・・ それとアメリカのMacが不味くなっていたのには驚いた。 ハンガリーの Macも同じく不味かった。日本のMacは格別に美味し い。日本人にあった Macになっている様に感じた。日本 Macが 利益を上げている理由が分かった。

〔Las Vegas〕

 久し振りのLas Vegas は大きく変わっていた。大きなホテル、テーマ館、カジノは迷子になるほど広く凄い!の一語。その中に自動車博物館があった。変わっているのは展示されているふるい車を値段をつけて売っていることだ。またホテル名物になっている無料の出し物。海賊のバトル戦や噴水のショーなど10数分の出し物だが実に素晴らしい。MGMでEFXというショーを見たが素晴らしかった。やはりLas Vegasではショーを見ないとはじまらない。・・・







10/3(水)
 今日はいよいよ日本に帰る日だ。出発は早い。Roseが 9:44発 私は 11:25発だ。国内線と国際線の違いはあるが、一緒に出て 丁度よい。昨夜7時前に出ようかと Roseに話したら早過ぎると 一蹴された。 Roseは朝が苦手だ! 結局7時に出て来てコーヒーと 簡単なスナックで済ませ、 Hotelのシャトルバスで空港へ送って貰った。
 最初に国際線の私が降りた。色々世話になったと別れを告げ た。
 7:30国際線のロビーは閑散としていた。早過ぎる! しかし JALのカウンターは何処にあるのだろう・・と探す。一番端の方に あった。日本人夫婦が2人ベンチで待っていた。まだ早い人が いた。出発の4時間前だ!いくらなんでも早過ぎる!係りの 人に聞くと8:30から受け付けるという。暫く待つ間に少しずつ 集まって来る。それでも日本人は14-5名程度だ。やはり少な い。テロの影響が意外に大きいのだろう。 日本の旅行業界の影響は550億とか、大手のJTBで200億とか 新聞に出ていた。旅行をキャンセルした人が如何に多いことか・・ 国際線よりも国内線の方が厳しいチェックをしていると誰かが言って いたが、確かに荷物の検査はレントゲンを通すだけで成田の様に中を 開けて確認することもなかった。
  早速手続きをしてJALラウンジに入る。時間が充分あるので 退屈だ。Duty free shopも覗いたが大した物はない。仕方な くスロットマシンで遊ぶ。空港の中にまでカジノマシンが置いてある。 予定通り経由地の Losに向けて飛ぶ。機内はガラ空きだ。 フライトアテンダントがゆっくりくつろいで下さいと挨拶に来る。 Losからも乗客が乗り込んで来たが機内には充分な空席があり ゆっくり横になって寝ることが出来た。 高橋尚子がベルリンマラソンで世界最高タイムで優勝したと 新聞に出ていた。大したものだ。

10/4(木)
 成田には予定通りに着いた。入国審査もスムースに行き、荷物 もJALプライオリティサービスで一番に出て来た。通関も問題なく通過。 桂子、弘恵、里枝に帰国の連絡を入れる。予定表の曜日を一日 間違えて書いていたので、桂子が昨日帰国の連絡がなかったので 心配したそうだ。後で聞いたが何か事件に巻き込まれて、どうや って遺体を引き取りに行けばいいのか心配したそうだ。 すぐ宅配の手続きをして、リムジンで羽田に向かう。羽田で今夜の 宿に電話をして行きかたを聞く。バスが便利だと。凡そ30'で 蒲田駅に着いて、そこから10’ばかり歩いてホテルだ。やっと ゆっくり休むことができた。

10/5(金)
 いよいよ今日は広島に帰るが、朝一番のJAL便だ。Hotelを5:30 にシャトルバスが出る。眠い目をしてフロントに行くと、パンとジュース がサービスで用意されていた。ありがたかった。 バスは30’位で羽田空港に着いた。搭乗手続きをしてJALラウンジに 入る。すべて予定通りに進み 8:32広島に着いた。 リムジンバスに揺られて広島駅まで帰り、タクシーで我が家に 無事帰ってきた。 長い一日であった。






2016/06/20 タイの旅・カンボジャの旅(カンボジャの旅)

 

カンボジャの旅 総括

 カンボジャはポルポトの内戦で300万人と言う沢山の犠牲者が出て世界中から批判を 受け、未だに地雷撤去も完全に終わってなく、ボランティア活動で細々と続けられている。 悲惨なイメージが残っている。一方アンコール・ワットは世界遺産に登録され、幻想的な 美しさがあり、沢山の旅行者によく知られている。
 今回、この旅行のきっかけになったのは、北京映画の「花様年華」のシーンに出てきた アンコールワットの月光に照らされた姿がとても印象的であったからである。
 最初の訪問地のタイは、日本から近く、時差も僅か2Hr、何より物価が安く、食事も 多少辛口ではあるが美味しく、観光スポットも多く、ホテルは清潔で・・・と、とても 印象がよかった。観光お勧めの地といえよう。
  カンボジャに入国時、機上から見るシェムリアップの町は、水浸しの様相で唖然とした。 不思議な事ではなく、この時期は雨期で毎日凄い雨が降るため、路上も水が氾濫している 状況である。今年は雨が降る時期が少し早いと言っていたが、こんな年は豊作だそうだ。 2毛作から3毛作である。米は取れても安いので生活は苦しいと言っていた。
 タイよりも生活レベルはかなり低そうだ。土建屋が一日働いて僅か1US$、月に30-50$ だそうだ。日本語旅行ガイドはまだ数が少なく月に100$貰っている。現在観光客としては NO.1は日本人、NO.2は中国人、韓国人・・で日本人は毎日700人程度ビザの申請がある と言っていた。大きな観光収入源となっている。
 カンボジャの通貨はリエル(KHR=0.032円)であるが、殆ど使われてなく、観光客はUS$ か日本円が主流である。従って最低単位が1$(\125)、タイはバーツ(1THB=3円)なので 物価はタイに比べ数倍高くなる。例えば絵はがき一枚カンボジャでは1$、タイでは10THBで 価格差は4倍になる。土産物屋に入ればいきなり300US$-400US$の物を薦めて来る。タイ では2000THB-3000THBくらいだから、買い物するならタイが断然お得である。
 何故カンボジャがUS$主流になったのだろうか・・政治不信、経済不安から現地通貨より 確実なUS$ということか・・。タイのガイドさんが言っていたがカンボジャの通貨は汚くて 使い道がないので貰わないように・・と。嫌われているのである。エジプトの紙幣も薄汚れ ていて財布に入れるのも躊躇する位であるが、似た様なものかも・・。
 観光場所に行くと地雷で足を飛ばされた子供達が物乞いをしている。可哀想に思うが 「一人だけにお情けを掛けるなら、やらない方がよい」という話を思いだした。彼等は犠牲者 なのに・・、ガイドさんも自分が1歳の時に両親をポルポトに殺されたと言っていた。 みんなそれぞれに深い傷を背負って生きている。  アンコール・トムの石塔の観世音菩薩の仏顔は凄い!穏やかに微笑んでいる。173の 顔があるそうだがよくこんな石を積み上げたものだと思う。一枚岩に彫刻するのだはなく 幅60-70Cm高さ30-40Cmのブロックを積み上げて顔にしている。頭の上には蓮の花が形作ら れていたそうだが、それは殆ど落ち崩れていて見ることはできない。
 アンコール・トムやアンコール・ワットの回廊に描かれた浮き彫りも凄い。その時代の様子、 戦争に行く姿や戦い、生活の場面など、また天国と地獄の姿など克明に描かれている。 浮かし彫りの技術も大したものだ。
 タ・プロームのガジュマルの気根には不気味さを憶える。あの大きな気根で建物を押さえ 付けて立ちはだかる姿は凄い!生き物を感じるくらいである。鳥が運んで来た一つの種が 芽生え熱帯特有の高温多湿の環境の中で何百年もの間に成長して来たのであろう。凄い!と 思わずため息が出た。

〔アンコール・トムの仏顔〕
 アンコール朝の最盛期に建てられた巨大な都城アンコール・トム。その中心に建つ寺院バイヨンの石塔に微笑む173の観世音菩薩。


〔アンコール・ワット全景〕
 「アジアの至宝」と呼ばれ。アンコール遺跡群の中で最大の建造物。1143年頃に完成。完成までに30年も掛かる。
 

旅程



6/25(月)
 いよいよ出発の日。東南アジアは出発が夕刻なので集合時間には楽だ。
 当日早めに集合の要請あり。添乗員の田中悠子さんが待機。来た順に手続き開始。総勢12名のツアーだ。
 男性は3名のみで圧倒的に女性上位。4名のグループBバンコクまでは直行で約6時間弱かかる。日本との時差は2時間だ。ホテルに着いたのは23時過ぎ、暑そうだ!長い一日であった。

6/26(火)
 バスで市内観光。最初のエメラル ド寺院は黄金の輝きに度肝を抜かれた。 琴儲で東洋的な寺院の建物が美しい。 王宮も和洋折衷の豪華な建物だ。 涅槃寺は改装中で足場の中を腰をかが めて歩く。黄金の涅槃だ。
 「スリに 注意!」と日本語の張り紙がして あった。日本人の被害が多いのか? 見物中に現行犯逮捕の一幕があった。
 チャオプラヤ川を挟んでワットアルンの 塔が美しい。昼食はバイキング。タイ風 ラーメンが結構美味しかった。それと ビールが日本のものに比べ切れがよい様に感じた。
 強行軍で暑い中汗が流れ落ちる! 本殿は必ず靴を脱いで中に入るのには まいった。靴を脱いだり、履いたり・・ アユタヤの遺跡は崩れたまま。夕方の強い スコールで照明装置が故障しライトアップ が見られなかったのは残念だった。
 夕食の晴風しゃぶしゃぶは美味しかった。
 市内を走っている車は殆ど日本車。圧倒的に多い。本田は高級車とのこと。マツダ車は意外に少なかった。

6/27(水)
 今日はスコータイへ移動のため朝が早い。 6時モーニングコール。朝食はバイキングだが品数は豊富で良い。
 日本人の若い女性が 意外と多い。我がツアーは年配さんばかりだ!
 スコータイの空港は花が一杯!美しく手入れが してあった。
 今年は雨期が少し早めとの こと。雨が早い年は豊作。3毛作だ。
  ホテルまでの沿線はバナナの木でいっぱい。 一年中収穫できるそうだ。
 世界遺産に登録されているだけあって 遺跡は広い林の中にあってよく手入れが されている。
 この時期緑が凄く美しい。 静かでゆっくり遺跡を歩いていると 気分が落ち着く。
 昼食のバイキングで食べたパパイヤのサラダ はいろんなものを目の前でミックスして作 ってくれたがとても美味であった。

6/28(木)
 今日はカンボジャへ移動する。 その前にスコータイの遺跡を一つ回る。 いよいよ期待のカンボジャへ向かう。
 機上からみるシェムリアップは水浸しの感じ。 雨期で多量の雨で道路の上まで氾濫して いる。明日のアンコールワットは大丈夫 だろうか・・と心配。 到着後雨の中をアンコールワットの周辺を バスで周回する。かなり崩れ掛けているようだ。
  夕食はカンボジャの古典舞踏をみながら 取ることになる。 テーブルから離れたステージの上で 幻想的な古典舞踏がみられた。美女の しなやかな手の動きを演じた踊りと農民 の踊りを取り混ぜて5-6品の鑑賞。 美女の踊りはテンポがゆっくりとしなやか で美しい。感動的である。

6/29(金)
 今日はいよいよ日本へ帰国の日。
  その前に期待のカンボジャの遺跡見物が ある。
 アンコールワットの日の出を見る ため早朝暗い中5時にホテルを出発。 バスで5分。同じ様に早出の観光客が いっぱい。しかし待てど期待の日の出は 見られず残念。ホテルに帰り朝食。
 今日も暑い日になりそうだ。 昨日の雨が嘘のように快晴! アンコール・トムのバイヨン寺院の仏顔は凄い。 173の顔があるそうだ。穏やかに微笑んでいる。 暑い!暑い!中を数キロ歩く。汗でTシャツが ビショビショだ。
 タ・プロームも凄い!ガジ ュマルの気根で建物を飲み込んでいる様に 見える。生き物のような根が回っている。 アンコールワットも凄い。回廊の浮かし彫りは 見事。中央祭壇への急階段は48度の傾斜とか・・ 登りは良いが下りるのが怖いくらい。 いろいろ見る所は多い。

6/30(土)
 成田は予定通りに到着。 入国審査もスムーズに行く。荷物も何とか 出て来て一安心。やっと帰って来た感じ になる。帰りの宅配を頼む。 次の羽田行きリムジンに乗り70分で到着。
 羽田で時間があるので食事をする。 日本そばと生ビールの美味しいこと。日本 に帰って来たと感じる。
  後は予定通り広島へ。家に着いたのは 16時・・・   長い一日であった


カンボジャの古典舞踏


 夕食を取りながら踊りを鑑賞。華やかな衣装に身を纏い、スローテンポで手指をくねらせて踊る様は幻想的で美しい。テンポが遅いので少し長くなると飽きて来る。テンポの速い農民・土地の風俗踊りと交互に演じていた。楽器も管楽器であろうか単調なリズムであった。それにしてもしなやかな手指の動きは素晴らしい。









アンクルトム南大門


 バイヨンに続く四つの門の南に位置する門。門の上部には四面を向いた仏顔が、門の下部には三つ頭の象があしらわれている。苔や木がおい茂って時代の推移を思わせる。














南大門前の阿修羅像


 南大門の両脇に像が並んでいる。東側には阿修羅像。阿修羅は、インド神話における悪神、目を見開いて厳しい顔つきをしている。西側には54体のヒンズウー教の神々の像が並ぶ。こちらは神の像で穏やかな顔をしている。












バイオン寺院の浮き彫り


 バイオンの第1回廊は、東西160m,南北140m.高さ10m,天井は崩れ落ち、柱と壁のみが残る。壁一面には戦闘の模様や庶民の生活を描いた浮かし彫りが施されている。実によく描かれているのに感心した。












バイオンの仏顔


 アンコール・トムの中心、バイヨンに林立する四面仏顔塔。目や口元の表情から「バイヨンの微笑」と呼ばれる四面仏顔を持つ塔は、アンコールの遺跡群の中でも、この時代のものにしか見られない。54の塔に173の仏顔が刻まれている。一つ一つの石ブロックを積み上げて顔を造っていることに驚く。
 

 

 

 

 
 

タ・プロームの気根


 あえて、発見された時のままに放置されているタ・プロームの遺跡の上には、カジュマルの巨木が気根を張り巡らし、石組みを少しずつ破壊している。 タ・プロームは1186年に建立の仏教寺院。 出来た寺院の上に鳥が種を運び、芽生えて育ちにそだった感じ。この根の勢いは凄く、生き物が這い回っているようで不気味な感じすらする。










アンコールワットの浮し彫り 


 アンコール・ワットの第一回廊。一辺が約200mあり、壁面には、ヒンズー教の天地創造神話「乳海攪拌」や死後の世界観を表す「天国と地獄」、古代インドの大叙事詩「ラマーヤナ」をモチーフにした浮かし彫りで埋め尽くされている。見応えがある。











 アンコール・ワットの柱や壁には、デヴァーター(女神)の浮き彫りが随所に施されている。王宮の女官や舞姫をモデルにしたと考えられ、口元に浮かぶ優しい微笑みが特徴的。妖麗な手足の動きも表現されている。












 全身をアクセサリーで飾り立てるデヴァーター。美しいフォルムは、クメール美術独特で、装飾品に宮廷生活が垣間見られる。 デヴァーターの顔は二つと同じものはないという。












パプーオン


 11世紀半ば頃建造されたヒンズー教寺院。手前には円柱列に支えられた約200mの「空中参道」と呼ばれる橋架形参道がある。













ピメアナカス


 11世紀初頭建造の寺院。名称は「天上の宮殿」の意。王は毎夜、ここに住む九つの頭の蛇の精霊と交わったという伝説がある。途中には民族楽器を売っている露店やしつこく付きまとう物売りの子供達がいた。














2016/06/06 タイの旅・カンボジャの旅(タイの旅)

 東南アジア,この時期は雨期である。
 高温多湿とくれば相当な覚悟はしていた積もりであるが、 まるでサウナに入った様に額から汗が流れ落ちる。
  拭うハンカチも絞れば汗がしたたり垂れるほど・・ それだけに食事時のビールが一層美味しい!
 タイは見る所が多く、物価は安く食べ物も少し辛いが違和感がなくお勧め。
 カンボジャはタイに比べ物価は3倍~5倍くらい高い。土産物を買うならタイ。
  タイのエメラルド寺院やスコータイの遺跡、
 カンボジャのアンコールワットやアンコール・トムなどは素晴らしい。
  なかなかに見応えがある。

タイの旅 総括

 成田から約5時間40分(時差は2時間)、意外に近い。一眠りする間に着く。
 最近は日本からの観光客が随分と多いそうだ。
 私が旅行した印象では、お勧めである。まず物価が安いこと。物にもよるが大体日本の1/3程度の価格ではなかろうか・・食事も辛口であるがそんなに違和感はない。結構見るところも多い。
 ただ蒸し暑いのが第一の難点で、6月から雨期に入るのでその感じは強い。それでも気温は33~34℃で最高は4月に45℃程度にもなる。雨期は草木の緑が実に美しい。

 月収は平均で\60,000程度、IT関連業種や旅行ガイド100,000程度である。地方はまだ貧しい。
 生活費は一日\300~\400程度で庶民の生活は苦しい。
 車が多く走っているが殆ど日本車、トヨタ車が一番多い。次いで本田、本田は高級車として値段が高い。日本の価格より2~3倍の値段で売られている。殆どの人がローンで呻いている。

  交通ルールは滅茶苦茶、飲酒運転、バイクに3~4人乗ってもお咎めなし。交通事故での死傷者が多いそうだ。
 加害者の責任はあまり問われない。葬式代程度で済ますそうだ。警察は賄賂を受け取ってお仕舞い。
 男性の半分は事故で亡くなり、残った男の半分はオカマだそうだ。
 社会的にも認知されており、教員など公職に付く人でも問題なく、多いそうだ。

 会社では女性がよく働く、その代わり家事、炊事などはしない。子供の世話は祖母がするのが習わし・・、
 男性は最初に結婚費用出すだけで後はのらりくらり遊んでいる。
 宗教は90%が仏教、残り10%がキリスト教。みんな信心深く、お寺にはよく参り、賽銭をあげている。生活が苦しいなかからでも寄進の心がある。
 タイ全土で6000万人、首都のバンコクで800万人程度、日本人は10万人程度いるそうだ。日本と同じ右ハンドル。1バーツ=\3.-。

 アユタヤの遺跡やスコータイの遺跡など世界遺産に登録されているが、崩れ掛けて行くなかで維持管理に懸命である。時代は11世紀から13世紀頃なのでそんなに古くはない。寺院の見学で、本殿に入る時は脱帽、靴を脱ぐ習わしで、暑い中大変だった。

 南国の花は原色で美しい。
 果物も豊富で、マンゴスチンやドリアン、マンゴーなどトロピカルフルーツが安く手に入る。
 現地ガイドF々買い込んでみんなに食べさせてくれた。なかなかに美味しかった。何でも1Kgが\100円~\130程度の安さである。またスコータイのホテルで食べたパパイヤのサラダは、目の前で色んな材料を少しずつ ミックスして調味料を加え、臼の様な容器の中ですりつぶして作ってくれ、特別に美味しかった。

〔黄金に輝くエメラルド寺院〕

タイ建築の粋を集めた、タイで最も格式の高い寺。1872年に建築された本堂の豪華さは目を見張るようだ。

〔暁の寺・ワット・アルン〕

ワット・アルンはチャオプラヤ川のシンボル。高さ67mの塔は暁の寺名前のごとく、朝日に輝く。三島由紀夫の小説の舞台。


旅程



6/25(月)
 いよいよ出発の日。東南アジアは出発が夕刻なので集合時間には楽だ。
 当日早めに集合の要請あり。添乗員の田中悠子さんが待機。来た順に手続き開始。総勢12名のツアーだ。
 男性は3名のみで圧倒的に女性上位。4名のグループBバンコクまでは直行で約6時間弱かかる。日本との時差は2時間だ。ホテルに着いたのは23時過ぎ、暑そうだ!長い一日であった。

6/26(火)
 バスで市内観光。最初のエメラル ド寺院は黄金の輝きに度肝を抜かれた。 琴儲で東洋的な寺院の建物が美しい。 王宮も和洋折衷の豪華な建物だ。 涅槃寺は改装中で足場の中を腰をかが めて歩く。黄金の涅槃だ。
 「スリに 注意!」と日本語の張り紙がして あった。日本人の被害が多いのか? 見物中に現行犯逮捕の一幕があった。
 チャオプラヤ川を挟んでワットアルンの 塔が美しい。昼食はバイキング。タイ風 ラーメンが結構美味しかった。それと ビールが日本のものに比べ切れがよい様に感じた。
 強行軍で暑い中汗が流れ落ちる! 本殿は必ず靴を脱いで中に入るのには まいった。靴を脱いだり、履いたり・・ アユタヤの遺跡は崩れたまま。夕方の強い スコールで照明装置が故障しライトアップ が見られなかったのは残念だった。
 夕食の晴風しゃぶしゃぶは美味しかった。
 市内を走っている車は殆ど日本車。圧倒的に多い。本田は高級車とのこと。マツダ車は意外に少なかった。

6/27(水)
 今日はスコータイへ移動のため朝が早い。 6時モーニングコール。朝食はバイキングだが品数は豊富で良い。
 日本人の若い女性が 意外と多い。我がツアーは年配さんばかりだ!
 スコータイの空港は花が一杯!美しく手入れが してあった。
 今年は雨期が少し早めとの こと。雨が早い年は豊作。3毛作だ。
  ホテルまでの沿線はバナナの木でいっぱい。 一年中収穫できるそうだ。
 世界遺産に登録されているだけあって 遺跡は広い林の中にあってよく手入れが されている。
 この時期緑が凄く美しい。 静かでゆっくり遺跡を歩いていると 気分が落ち着く。
 昼食のバイキングで食べたパパイヤのサラダ はいろんなものを目の前でミックスして作 ってくれたがとても美味であった。

6/28(木)
 今日はカンボジャへ移動する。 その前にスコータイの遺跡を一つ回る。 いよいよ期待のカンボジャへ向かう。
 機上からみるシェムリアップは水浸しの感じ。 雨期で多量の雨で道路の上まで氾濫して いる。明日のアンコールワットは大丈夫 だろうか・・と心配。 到着後雨の中をアンコールワットの周辺を バスで周回する。かなり崩れ掛けているようだ。
  夕食はカンボジャの古典舞踏をみながら 取ることになる。 テーブルから離れたステージの上で 幻想的な古典舞踏がみられた。美女の しなやかな手の動きを演じた踊りと農民 の踊りを取り混ぜて5-6品の鑑賞。 美女の踊りはテンポがゆっくりとしなやか で美しい。感動的である。

6/29(金)
 今日はいよいよ日本へ帰国の日。
  その前に期待のカンボジャの遺跡見物が ある。
 アンコールワットの日の出を見る ため早朝暗い中5時にホテルを出発。 バスで5分。同じ様に早出の観光客が いっぱい。しかし待てど期待の日の出は 見られず残念。ホテルに帰り朝食。
 今日も暑い日になりそうだ。 昨日の雨が嘘のように快晴! アンコール・トムのバイヨン寺院の仏顔は凄い。 173の顔があるそうだ。穏やかに微笑んでいる。 暑い!暑い!中を数キロ歩く。汗でTシャツが ビショビショだ。
 タ・プロームも凄い!ガジ ュマルの気根で建物を飲み込んでいる様に 見える。生き物のような根が回っている。 アンコールワットも凄い。回廊の浮かし彫りは 見事。中央祭壇への急階段は48度の傾斜とか・・ 登りは良いが下りるのが怖いくらい。 いろいろ見る所は多い。

6/30(土)
 成田は予定通りに到着。 入国審査もスムーズに行く。荷物も何とか 出て来て一安心。やっと帰って来た感じ になる。帰りの宅配を頼む。 次の羽田行きリムジンに乗り70分で到着。
 羽田で時間があるので食事をする。 日本そばと生ビールの美味しいこと。日本 に帰って来たと感じる。
  後は予定通り広島へ。家に着いたのは 16時・・・   長い一日であった


エメラルド寺院


 王宮の敷地内にあり最も格式の高いお寺で、1782年に建てられ内部は絢爛豪華黄金の鈴が垂れ下がり、外部も黄金や宝石を散りばめた装飾で光り輝き目を見張るばかりである。名前の由来は内部に半透明の暴o来た高さ66Cmのエメラルド・ブッダが納められている。タイや中国などの様々な建築様式の建物や塔が立ち並んでいる。兎に角光り輝いて凄い1の一語。








仏教の守護神ヤック 

 
 仏教の守護神と言われる高さ10mくらいの光輝く、鬼の様な顔をした像が建物の入り口の両脇に立ちはだかっている。一風変わった像なので印象に残る。












王宮


 1782年にラマ1世がこの地に王宮と礼拝堂を作ったのが始まり、以来歴代の国王が次々と宮殿を建て増しし、今の様に様々な壮麗でバラエティに富んだ建築群となった。ルネッサンスの建物にタイの屋根を乗せた独特なものになった。











プラモンコンポピット


 アユタヤの遺跡の近くにあり、1956年に復元された。礼拝堂内部には16世紀に作られたタイ最大のブロンズ像である高さ12Mの仏像が納められている。国民の信仰を深く集め、参拝者があとを絶たない。国民は信仰心が強く、貧しくても賽銭を出して蓮の花を供えお参りする。その時貰った金箔のシールを仏像に張り付ける。









アユタヤの遺跡


 バンコクから北へ約80Kmにある小さな町アユタヤは、かってはアユタヤ王朝の都であった。スコータイ王朝に代わって1350年から1767年までの417年間、33代の王がこの地を治めた。 徳川幕府の御朱印船でアユタヤに渡った山田長政の活躍も有名な話。










アユタヤ遺跡の仏像


 華麗なる都も1767年にビルマ軍の猛撃にあい、ついに陥落。今はアユタヤには遺跡が残るのみで、かっての繁栄の面影はない。静かな廃墟に立つ時、人の世のうつろいがひときわ感慨深く感じられる。












美しい赤い花


 お寺の境内には美しい赤い花をつけた大きな木があった。この地で見る花は、熱帯性気候のせいか、一際色が鮮やかでとても美しかった。













ワットマハタート


 アユタヤ初期には仏舎利を納めるために建てられたとされている。山田長政が活躍していた時代には、パゴダの頂上に黄金の尖塔が輝いていたという。
アユタヤの遺跡のなかに残された、静かに鎮座する仏像。仏像を見ているとなんとなく心が安まる・・・ 山田長政が活躍していた時には日本人町ができ、最盛期には1,500人もの日本人が住んでいたとか。その山田長政も1630年に王位継承争いに巻き込まれ、毒殺された。旧日本人町に行けば山田長政の石碑がある。





ワット・スリ・チュム


 スコータイは13世紀にタイで最初の独立王国が生まれたところ。それまで国土の大半を掌握していたクメール人を駆逐して「幸福の夜明け」を意味するスコータイと名付けられた。ワット・スリ・チュムの正面遠方から僅かに切り開かれた隙間から微笑んだように見える仏像は神秘的で美しく印象に強く残った。眉は丸く、鼻は大きく、耳が長いのがスコータイ人の特徴だそうだ。







赤い美しい花


 ホテルの部屋から見た美しい赤い花。4階の高さまで伸びた大きな木に沢山の花が咲いているのは壮観である。木の名前は分からないが、ねむの木の葉っぱに似ている。













旅行の幾つかのスナップ


    アユタヤ遺跡                   アユタヤ遺跡


    ワットプラスリサンペット              可憐な白い花


    プラモンコンポピット                ワット・サ・スリ


    ワット・マハタート                 ワット・マハタート



2016/05/23 1100年の歴史を誇る・・・ハンガリーの旅

  •  ハンガリーは1100年の歴史を持っているが、過去様々な民族の支配を受けてきた。の歴史的文化遺産はブダペストをはじめ建築物や遺跡に名残を留めている。特に首都のブダペストはかって「東欧のパリ」とか「ドナウの真珠」とか「ドナウの女王」とも呼ばれその美しさはユネスコの世界遺産に登録されている。全くその通りで素晴らしいものであった。ドナウ河畔に建てられた国会議事堂や漁夫の砦、聖マチャーシュ教会など、またドナウに架けけられたくさり橋など何処をみても絵はがきと言う感じで目を楽しませてくれた。その上物価も安く予期した以上に素晴らしい国であった。


    (国会議事堂)
     200もの部屋を持つこの国会議事堂はドナウ河面に美しい姿を映している。19世紀後半に建てられた壮大なゴシック建築。
     残念だが今はドナウは青くない。













    (漁夫の砦)
     ドナウの見張り番、漁夫の砦。マチャーシ教会に隣接するネオ・ロマネスク様式回廊からなるこの砦は、ドナウとペスト地区が一望できる展望台となっている。














  •  今回の旅行で一番のお勧めの地であり、まだまだ多くの見るべきものがあると感じた。特にこくのある生ビールの美味しさは比類無きもので毎食の必須メニューとなった。500ccカップが僅か\120で飲めるとは羨ましい限りである。一般に物価が安く、日本の約1/3程度の感じであった。特産のカロチャ刺繍の土産物などテーブルクロスで\2000~\3000で結構いい手編みのものが入手出来た。
  •  ブダペストから車で3-40分の所にセンテンドレという小さな芸術の町がある。トルコからの侵略を免れた町でカラフルな家が沢山並んでいる。17世紀にセルビア人によって造られたそうだが博物館や美術館が多くあり、ハンガリーを代表する画家達が好んで住んでいるとか。観光客も年間150万人も訪れるそうだ。いろんな面白い土産物屋も沢山ありぶらぶら歩き回っても楽しめる。
  •  温泉王国として欧州でも有名であるが、宿泊したホテルにも温泉プールがあった。出発前に添乗員から、もし泳ぐ気があれば海水着を持参して下さいとの連絡があった。水泳の好きな桂子はこの旅行の一つの楽しみにしていた。宿泊初日は市内レストランでの食事で帰りが遅くなったが、閉店30分前にやっと滑り込んで泳いだ。25mくらいのプール(水)と15mくらいの水槽(湯船)が2つ並んであった。プールは冷水で冷たいが、後は中間温度と温水で分けてあり、ただ温水プールに浸かっているだけの人も多くいた。いい想い出になった。
  •  出国日の午前中は自由時間となり、みんなで地下鉄に乗り6駅先の中央市場まで出掛けた。駅と言っても誰もいない駅で切符の自販機だけ。これでは無賃乗車も出来るわいと思っていたが、時々一斉検札があるとか。ブダペストで一番大きい市場だけあって、大きなドーム屋根の中に1階は野菜や肉類、地下1階は魚などの生鮮食料品、2階は民芸品やハンガリー刺繍のテーブルクロスなどお土産品が沢山並べてあった。安いのでいろいろ買い込んだ。
  •  市場からの帰りは各自バラバラとなり自由にホテルまで帰った。中にはホテルまで歩いて帰った人もいたが、私たちはブダペストの銀座と言われるヴァーツイ通りを歩いて、途中昼食にマクドナルドに入った。マクドナルドの店が有るところは平和な国だと言われているが、ロシアをはじめ旧共産圏への進出が目覚ましい。味は日本の物ほど美味しくは感じなかった。フライドポテトなどしわしわで美味しくなかった。日本人と好みが違うのだろうか。残り3駅を地下鉄に乗ったが、切符売り場の女性は何だか無愛想であった。
  •  印象がよかったブダペストで有終の美が飾れなかったのは残念。フェリフェジ空港からフランクフルトへのマレブ・ハンガリー航空が出発の定刻を2時間も遅れた。添乗員をはじめみんないらいらした。フランクフルトで乗り継ぎのJALに乗り遅れる恐れがあった。万一そうなればフランクフルトで一泊ということになる。現役の吉田さんは帰った翌日の出勤ができなくなるとか・・・大変!
     結局フランクフルトでの自由時間がなくなったが、なんとか乗り継ぎ便に間にあった。        

英雄広場

  •  1896年にハンガリー建国1000年を記念して造られた広場。中央にそびえる高さ36mの塔。最頂部には天使ガブリエルの像が立ち、下には7人の族長の騎馬像が並んでいる。後ろには半円形の列柱が建てられ、その柱の間には、聖イシュトヴァーンなど歴代の王と政治家14人の像が並ぶ。ここで今回ツアーの唯一の集合写真を撮った。(\1,000)。









セーチェニー温泉

  •  ハンガリーがヨーロッパの中でも有数の温泉国であることを知っている人は少ない。温泉の歴史も日本以上に古い。16世紀のトルコの支配でさらに温泉は大ブームとなったが、本格的には19世紀末になってから。
     この写真の外観からは温泉場とは想像できないほど豪華であるが、大きなプールに、サウナ、風呂、家族用の個人風呂や子供用プールなどがある。我々が宿泊したホテルにもプールがありひと時泳いで楽しんだ。





聖イシュトバーン像

  •  ブダの丘の南側に位置する標高235mの小高い丘に漁夫の砦がある。最初に階段を上って門をくぐった所に、ハンガリーの初代国王、イシュトヴァーンの騎馬像が建っていた。初代国王だけあって市内至る所に彼の立像が見られる。












聖マチャーシ教会

  •  13世紀後半に建てられた。正式名は「聖処女マリア教会」。15世紀にマチャーシュ王がこの教会のシンボルとも言える尖塔を増築したことからこの名で呼ばれる様になった。歴代の王が戴冠式や結婚式を行っている。最初はゴシック様式であったが幾多の変遷を経て19世紀に現在の姿になった。見所は石の塔の細かい装飾やモザイク屋根、そして内部のフレスコ画とステンドグラスであり、とても美しい建物である。







くさり橋

  •  ドナウ川に架かる橋は全部で8本。その中でもくさり橋はハンガリーで最も美しい橋と言われている。橋の両端にライオンの像が置かれた華麗な橋で歴史的にも最も古い。第2次世界大戦で破壊され現在の姿に復元されたのは1964年である。










カラフルな街センテンドレ

  •  ドナウベンドの中心地センテンドレは、セルビア人が築いた絵のように美しい町。歴史的建築物が多く、毎年約150万人の観光客が訪れる。旧市街地は小さな土産物屋が沢山あり、ぶらぶら歩き回るだけでも楽しい。芸術の町としても有名で、美術館や博物館が多い。中でもハンガリーで最も人気の高い女性陶芸家、マルギットの美術館は陶器の人形から壁画まで種類も多彩で一見の価値がある。







絵皿の土産物屋

  •  センテンドレの小さな土産物屋さん。この様に壁一面に美しい絵皿を飾り見るだけでも楽しくなる。この他民族衣装を纏った人形や刺繍の手芸品などなど。値段は総じて日本の1/3程度であろうか。安いのがいい。種々異民族が共生しており、家の色も人種により異なり、町中がカラフルで面白い。









名物のパプリカ

  •  ハンガリの代表的な土産物はカロチャ刺繍とパプリカである。料理は全体的に煮込み料理が多いのが特徴。パプリカの赤味が強烈なせいか、辛いというイメージを持つ人が多いが、パプリカにもスイートとスパイシーがあって、スイートの方はこしょうや唐辛子などよりもずっとマイルド。このパプリカを使ったハンガリー料理の代表格が「グヤーシュ」と呼ばれるスープで、我々も賞味したがとても美味しかった。







名人芸のワインサービス

  •  今回ツアーの最後の地ハンガリー、その最後の夜は山の上のレストランで民族音楽ディナーショーであった。いつものことながら旅のエンターテイメントは楽しいものであり、期待も大きい。最初のワインサービスは頭の後ろの方から突然ワインが降って来たのである。テーブルに置かれたワイングラスに見事に注いでいくワザ(?)にビックリ!
     みんなウオーッ!と驚きの声をあげた。






場を盛り上げるヴァイオリン

  •  主役はこのヴァイオリニスト実に熱狂的に演奏を繰り返していた。ハンガリア舞曲第5番をはじめツゴイネルワイゼンなど馴染みの曲を演奏した。同行の伊藤庸さんは、ハンガリーに着いた最初の夜市内のレストランで同じようにヴァイオリンを演奏していた人に対しては音程が狂っていると文句を言っていたが、こちらの人の方が遙かに上手だと褒めていた。演奏の半ばで客からのチップを受け取っていた。







民族音楽ディナーショー 

  •  民族舞踏もあると期待したが女性の踊り子はこの3名のみで男性が数名、何れも中年でちょっとガッカリした。若いピチピチした可愛い娘を想像していたが残念だった。ショー自体の構成も平凡で短いものだった。確かに民族音楽とは書いてあったが、民族舞踏とは言ってなかった。最後は客を連れだしてみんなで阿波踊りのような格好で場を盛り上げていた。








その他のスナップ

  • (ヴァイタフニヤド城)
  • (聖マチャーシ教会と漁夫の砦)
  • (王様の冠)
  • (イシュトハーン大聖堂)
  • (谷村新司に似た歌手)
  • (ブダペスト美しい夜景)



2016/05/09 チェコと分離した新国・・・スロバキアの旅

  •  1993年、チェコと分離し新しい国家としてスタート。833年大モラビア帝国を建設したが、その後凡そ1100年もの間,ハンガリー王国やハプスブルグ家による支配、1918年チェコとの連邦国家という歴史を刻んできた。第2次世界大戦中はナチス・ドイツに占領され、戦後はソ連主導で社会主義国家となったが1989年の民主革命により、資本主義国家として歩んできた。ブラティスラバが首都である。
  •  1989年社会主義国家を脱皮したにも拘わらず、未だ依然として査証を必要とし、出入国の管理が厳しい。国境通過の検問で1時間半も足止めを喰った。パスポートを持って行ったまま何をしているのかなかなか返して呉れないのである。国境通過の印を押せば僅か数分で処理できる筈である。昨年バスでロシア入国時の検問で約3時間も足止めを喰ったことを想い出した。旧共産圏の嫌な風習が残っているように思った。
  •  現地ガイドの女性は定刻を30分も遅刻しながら、断りの一言もなく当たり前のような顔をしていたが、ロシアでの土産物屋の娘が「ありがとう!」の一言もいわず、無表情にものを投げ出すのと似ているように感じた。観光立国としていくにはまだまだ時間が掛かるように思った。
  •  首都のブラティスラバだけの観光であったが、旧市街地と城は、東西1Km南北は600mほどの範囲で全て徒歩で回れる。ブラティスラバ城の博物館を見学し、ドナウ川と旧市街を眺め聖マルティン教会を見て、そこから石畳の裏道を通ってミハエル門まで歩いた。見るべきものは他国に比し少ないし、入出国の煩わしさを考えればあまりお勧めの国ではないようだ。
  • (歴史博物館プラチスラバ城) 
    12世紀頃からの歴史を持ち、4つの塔が各角に建つ
    変わった風貌の城。ドナウ河畔の高い丘陵にあるため
    街全体が見晴らせる。現在博物館として利用されている。










  • (旧市街の出入口ミハエル門)  16世紀に改築され現在の塔式となった。 
     博物館、展望台として利用されている。














ドナウ河に架かる橋

  •  我々が宿泊したHotel Danubeの正面にドナウ川が流れているが、青きドナウでなく濁った色である。そこに架かる近代的な橋。橋の下の側面にはぎっしりと落書きがしてあった。橋の上の塔は展望台になっていた。












聖マルティン教会

  •  旧市街の西側、中世以来の面影を最も濃厚に残している一角に立つ教会で、建てられたのは15世紀の中頃。高さ85mの塔はもともと防衛施設として建てられた城壁の一部を流用したもの。この教会で王様の戴冠式が行われたとか。










旧市庁舎

  •  旧市街の中心にある旧市庁舎。内部は歴史博物館、ワイン博物館などになっている。中庭はアーチのある回廊が美しい。















国民劇場

  •  リストが15回もオペラを指揮したという由緒ある劇場で、現在も内外の一流演奏会によるオペラが演じられている。風格のある劇場である。













新市内の公園で

  •  通りの中庭というか公園のような所に出ると、柔らかい日射しを受けて今を盛りに美しい水仙の花が咲いていた。














ドナウ河

  •  ドナウ川に臨む小高い丘の上にあるブラティスラバ城の入り口にある展望台からみる。丁度日曜日で土産物屋は店が閉まっていたが、城内を見学して出て来たときには特別に開店してくれた。みんな喜んで買い物をしていた。みんな買い物が好きだ。










ブラティスラバ城内から

  •  ブラティスラバ城内からすぐ下にある聖マルティン教会の尖塔をみる。美しい眺めである。

宿泊したダニューブホテル

  •  ドナウ川に面した我々の宿泊ホテル。朝早くホテルの周りを散歩したが少し寒かった。ホテルの前は道路で路面電車が走っていた。














中世の面影を残した街

  •  聖マルティン教会の横を下りて行くと石畳が続き中世の面影をそのままに残した町にでる。正面奥にミハエル門が見える。道の途中にモーツアルトやリストに由緒のある建物があった。これら偉大な音楽家の住んでいた町でもある。











楽器博物館

  •  ブラティスラバ城は15世紀に建てられたがその後1811年に火災で焼失し、第2次世界大戦後に復元された。四角形の建物の四隅にそれぞれ一本ずつ塔が聳えるという独特な形。現在城内の一部が歴史博物館と楽器博物館として公開されている。写真は楽器博物館の一部で弦楽器の歴史的変遷を、優しそうなお婆さんが得意そうに説明してくれた。









2016/04/25 歴史的遺産の多い・・・チェコの旅

  • ヨーロッパ大陸の中央に位置するチェコ、1000年以上の歴史があり、王朝の興亡世界大戦、民主主義への移行、チェコスロバキアの分裂など、ドラマティックな運命を乗り越えて来た。チェコは一番長い東西の端から端まででも約400Kmという小さな国。気候は比較的に温暖で過ごしやすいとか。しかしこの時期結構寒かった。
  •  到着してガイドさんの第一声が「スリやかっぱらいが多いので充分ご注意を!」と言うもので、何度も何度もおなじことを聞かされた。本来のガイドより、そちらの話しが多いように感じた。群馬県に2年ばかりいて日本語を勉強したとか、まあまあのレベルであった。本人がイタリア旅行中に被害を受けたそうでそのせいか・・      
  •  チェコのプラハを薦める人が多かったが、主な所はプラハ城とカレル橋、旧市街地など、少し離れたところではチェスキークロムロフが見どころであろうか。我々の宿泊したCorinthia Towers Hotelは新しく出来た高層ホテルで郊外にあった。部屋からの眺めは素晴らしく遠くにプラハ城が眺望できた。朝食はヴァイキング方式であったが品数は多数で充分なものでよかった。
  •  プラハへの期待が多かったせいか、プラハ城やカレル橋もさほど感激するほどではなかった。人それぞれに感性が異なるせいもあろう。しかし期待していなかった所が素晴らしかった時には何だか得したように感じるもので強く印象に残る。これが旅の面白さかも知れない。今回の旅行ではブダペスユトが素晴らしかった。
  •  昼食はビアレストランに入った。先客のイタリア人グループが賑やかに飲んで唄って楽しそうにやっていた。我々が入るとちゃんと挨拶してくれた。ラテン系の人は陽気である。年輩の人も結構多かったが、飲むにつれダンスが始まった。ビアホールなので最初黒ビールのサービスがあった。普通のビールに比べ苦みが少なく、アメリカンコーヒーを飲んでいるような感触でもの足りなかった。
  •  しかし普通のビールは日本で飲むビールに比べこくと言うか深みの味がして格段に美味しいものであった。500ccカップでなんと\120程度の安さであり嬉しかった。
  •  昼食後バスで約200Km、チェコで最も美しい町チェスキークロムロフに向かった。その通りの美しい町で、中世の建物に挟まれた路地をたどって行くと、清流と壮大な城の景観が目に映る。大きな城で城から見渡す市街の赤い屋根と白い壁の風景もまた素晴らしかった。宿泊したホテルは昔泊まったローテンブルグの宿に似て小さな部屋であったが装備品など心がこもった雰囲気があった。 

    (チェスキークロムロフ)

プラハ城衛兵

  •  チェコプラハ城の衛兵。表情一つ変えず不動の衛兵。城内には大統領府が置かれており、教会、宮殿、博物館などいくつかの施設が一般に公開されている。衛兵交代のセレモニーは見どころである。

聖ビート教会

  •  荘厳な大尖塔が目を引くゴシック様式の教会。塔の高さはプラハ最大の100mもある。何度も改築されたため各時代の芸術性が見られる。内部の左右の壁を飾る壮大なステンドガラスは素晴らしい。
  • 聖ビート教会
  • 聖ビート教会のステンドグラス

プラハ市街地展望

  •  聖ヴルダヴァ川沿いのフラチャニの丘から町を一望する。レンガ色の屋根に白い壁、教会の天を突き刺すような青銅色の尖った屋根、実に美しい風景である。ヨーロッパの風景は何処を見ても美しい。

丘の上のプラハ城

  •  フラチャニの丘に聳えるプラハのシンボルでチェコ最大の城。城の起源は9世紀後半建てられた聖マリア教会。その後建造、改築が繰り返され、14世紀カレル4世の治世下でほぼ現在の状態となった。城内の教会や国立美術館などを見ながら黄金小路を通って下りてくる。黄金小路は錬金術師を集めて黄金と不老長寿の薬を造らせた場所とか兵士の住居とも言われている。

カレル橋

  •  マラー・ストラナ地区と旧市街を結ぶ橋でカレル4世によって1357年に造られた。長さ516m,幅9.5m、橋の欄干には、聖ヴァーツラフ像、聖ヨゼフ像など30体の聖像が並んでいる。橋は歩行者専用となっており、土産物売りの屋台や大道芸人などが出て、観光客で何時も賑わっている。橋上から眺めるプラハ城やフラチャニの丘は絶景のカメラポイントとなっている。

旧市庁舎

  •  10世紀頃に出来たプラハ最古の街。この旧市街広場に建つゴシック式の建物。旧市庁舎の塔には15世紀に作られた仕掛け付き天文時計があり、正時になると時計の横の死に神が鐘を鳴らし、時計の上の2つの窓をキリストが渡り歩くもの。15世紀に出来た物でありあまり期待するとガッカリするとの風評がある。

チェスキー城

  •  赤ヴルダヴァ川の屈曲部に13世紀頃造られた町で、中世のたたずまいがよく保存され、チェコで最も美しい町と称されている。その町中に一際目立つ塔が立っているがここがチェスキー城。かなり大きな城で、ここから眺める旧市街の眺めは抜群。清流とちまちました赤い屋根のコントラストは素晴らしい。この日は牡丹雪が舞っていてとても寒かった。

ドレスデン駅から国際列車で

  •  ヨーロッパで初めて国際列車に乗った。
    この列車はドイツからチェコ~ウイーン~ハンガリへと各国を通過している。国境越えの検問は係官が乗り込んで来てパスポートチェックが行われる。沿線の風景はとても美しくて、列車の旅もまた風情があってよい。
     車内清掃員も回ってきて綺麗に管理されているのはちょっと驚いた。

願いが叶うカレル橋

  •  カレル橋の中程にピカピカ光った銅板画があった。ガイドさんの説明ではこの像に触ると願いごとがかなうと言っていたがみんなが左手で触るのでピカピカ。本当にそうなのだろうか・・

チャスラフスカの金メダル

  •  1964年東京オリンピックの女子体操の金メダリストと言えば知らない人は少ない。チェコの妖精チャスラフスカ。当時20前後であったろうから、現在は可成りなお年。彼女が経営しているボヘミアグラスの土産物店に行った。陳列ウインドウの一角に彼女の栄光の品々が飾ってあった。金メダルの数々、日本で贈られた和服や兜など。店の宣伝にもなっている。

雪のチェスキークロムロフ

  •  チェスキークロムロフは本当に美しい町だ。翌朝部屋の窓の外をみて驚いた。雪が降り積もっていた。昨日の景色は一変。赤い屋根に白い壁ならぬ、白い屋根になっていた。それでも結構美しい眺めであった。

その他 スナップ

  • プラハ寺院
  • チェコからスロバキア国境検問
  • カレル橋からプラハ城


2016/04/11 壁が壊され統一の・・・東ドイツの旅

  • JTBの「旅物語」に参加して10回くらいになるが、ツアーの人に「お薦めの場所は?」と聞くとチェコのプラハを挙げる人が意外に多かった。       
  •  それが最初のきっかけになったが、ベルリンの壁が崩壊した東ドイツも一度見てみたいという関心があった。
     また、昨年のバルト三国は期待以上に感動が得られたし、あれやこれやで中欧4国への参加を決めた・・・。
  •  東ドイツは旧体制から新体制への復興過度期(?)、チェコは予想通り、スロバキアは唯一VISAを必要としたが、旧体勢の面影が濃い国。
  •  ハンガリーは今回の旅行で一番の収穫であった。
     ドナウ河に映える国会議事堂や対岸にある漁夫の砦の美しさに加え、こくのある美味しい生ビール(500cc)が僅か120円で飲めるという物価の安さ 期待以上に素晴らしい国であったと感じた・・

    (旅程マップ゚)

「壁が壊され統一の・・・東ドイツ」から紹介します。                         事務局

壁が壊され統一の・・・東ドイツ

  •   成田から約11時間(時差は7時間)、最初に降りたのはドイツの乗り継ぎ地フランクフルトであった。フランクフルトで約3時間待機の後、最終地ベルリンに着いたのは22時。長い初日の旅であった。1961年から1989年までおよそ30年の長い間閉鎖されていたベルリンの壁が壊され東西がひとつになったのはまだ記憶に新しい歴史的な出来事である。数々の悲劇が伝えられたベルリンの壁を一度見てみたいと思っていた。ベルリンはかっての首都であり魅惑の都市ベルリンとして繁栄していたが連合軍の大空襲で殆どの建物は破壊され、多くの市民が尊い命を奪われたところでもある
  •   翌朝最初に見たベルリン市内は意外とも思えるほど綺麗な街に驚いた。かなり復興が進んでいると感じた。しかし市内を歩いていると、カイザー・ウイルヘルム教会という丁度広島の原爆ドームの様に戦争の悲惨さを後世に伝えるため傷跡をそのままの形で残していた。また通りを一歩中に入ると古い建物の改築工事があちこちでおこなわれていて再びベルリンは首都として、新しく生まれ変わろうとしていた。中でもSONYが一際目立つ総ガラス張りの大きなビルを建設中であった。











  •   悲劇のベルリンの壁も、今や3ヶ所だけ残っていた。周囲に175Kmにわたり壁が造られていたそうだが、現在は僅かに延べ15Km程度しか残っていない。土産物屋に入るとベルリンの壁の欠片が売られていたが思ったより値段は高かった。東側からこの壁を越えて逃げようとして何人の人が命を落としたことか、思うと悲しくなる。この壁にまつわる資料を展示した小さな壁博物館が近くにあった。逃亡に使った道具とか写真が数々展示されているそうだが、残念ながら時間がなくて見られなかった。
  •   ベルリンには沢山の博物館や美術館があるが、中でもペルガモン博物館は期待していなかっただけに、その素晴らしさに驚いた。古代ローマ、アジア、イスラムなどの美術品が多数展示。中でもヘレニズム建築の傑作と言われている紀元前180年作のペルガモン祭殿は必見である。トルコにあるベルガモン遺跡から発掘された美術品がずらり。ゼウス神殿やミレトスの市場門など、復元された遺跡の精巧さも素晴らしい。





  •   世界四大文明、エジプト、メソポタミア、インダス、中国文明の中のメソポタミアの中心、首都バビロンの中央部を貫いていた行列道路の側壁を飾っていた、釉薬をかけてライオン像を焼き付けた煉瓦装飾は立体的なカラー像でその素晴らしさに目を見張った。同じように行列道路の北の端に設けられたイシュタル門は、煉瓦に釉薬をかけ青く焼かれ龍と雄牛のモチーフで飾られたものも独特な雰囲気を持っていて印象的であった。




  •   この様に素晴らしいものが沢山あったが、何時も感じることに、これらの遺跡はその土地・風土の中にあってこそより一層の実感が伴うものと思う。大英博物館でエジプトやギリシャの素晴らしい遺跡を見るのも同じで、これら遺跡は生まれた土地に返すべきだと思うのだが、いかがであろう。
  •   も一つ世界のマイセンの磁器工房を見学した。ドレスデンに近い小さな落ち着いた町にあった。時間を決めて、少人数ずつ案内してくれた。最初ビデオで会社概要を説明した後、製造工程の代表的なもの4場面の実演があった。粘土を練ってドクロを回しコーヒーカップの型を造る所、マイセン人形の細かい足の部分の手作業、花びらの一枚一枚を手造り、コーヒーカップに下絵を描くところ、フリーハンドで綺麗に描いていた。料理皿の絵付け、細かい絵に一つひとつ丁寧に釉薬をつけている所などなど。これらの手間ひまを考えると全て丁寧に心を込めて造っていることがよく分かる。高価なだけはあると充分納得できた。素晴らしいものだ。同行の数名は飾り皿など記念に買っていた。

サンスーシー宮殿前

  •  フレードリッヒ2世がベルサイユ宮殿に憧れて造った宮殿と庭園は有名。同行の仲良し芳江さんと宮殿前のスナップ。後方は芳江さんのご主人庸さん。宮殿内は靴の上に大きなスリッパを履いてそろりそろりと歩く。素晴らしい調度品がいっぱい。
     ドイツ人の若い女性ガイドさんは丁寧に説明してくれた。








ペルガモン博物館

  •  古代ローマ、アジア、イスラムなどの美術品が多数展示。中でもヘレニズム建築の傑作と言われている紀元前180年作のペルガモン祭殿は必見である。トルコにあるベルガモン遺跡から発掘された美術品がずらり。ゼウス神殿やミレトスの市場門など、復元された遺跡の精巧さも素晴らしい。

トーマス教会前のバッハ像

  •  バッハゆかりのトーマス教会。バッハが合唱長を務めていたことで有名な教会。モーツアルトも此処で演奏を行ったそうだ。祭壇の前にはバッハの墓がある。内部側面のステンドグラスは素晴らしい美しさ。教会の向かいにはバッハミュージアムがあり、バッハが生前愛用していた楽器や楽譜などが展示されていた。








トーマス教会

  •  芸術と哲学の香り高い古都、ライプチッヒにあるトーマス教会。バッハは勿論メンデルスゾーンやワーグナーも演奏し、ルソーも宗教改革時にこの教会で説教を行ったという記録が残っている。
     この地の日本人ガイドさんは早口でまくし立てよく聞き取れなかった。ひとりよがりのガイドも困ったものだ。

歴代君主の行列

  •  建物の壁面一杯に君主の行列像が描かれている。よく見ると10cm平方のタイルに描かれたものでそれを張りつめている。歴代の王様/君主が並んでいたがなかなかによく描かれていた。。そばに土産物の屋台が出ており、あやつり人形などが人気がありよく売れていた。

ゼンバーオペラ劇場

  •  君主の行列や古典巨匠絵画館の近くに美しい建物が見られたが、これがオペラ劇場であった。

ドレスデン駅舎

  •  東ドイツのドレスデン駅からチェコのプラハまで国際列車の1等車で移動した。車内のシートは2列+1列の3列でゆったり。バスの移動が多いなかで列車も悪くないと思った。途中国境越えには2名の係官がパスポートチェックに回って来た。沿線のエルベ川が作り出す荒々しい渓谷、ザクセン・スイスの風景もなかなかに美しく目を楽しませてくれた。

ツエツイリエンホーフ宮殿

  •  ポツダム会談の場所となった宮殿。古く落ち着いた雰囲気がある。ロシア/アメリカ/イギリス3ヶ国の首脳が会談しポツダム宣言をだしたが、出入り口や部屋などそれぞれの国別に用意するなど苦労があったそうだ。

悲劇のベルリンの壁

  •  東西ドイツを2分したベルリンの壁は175Kmにも及んだそうだが現在残されているのは僅か3ヶ所で延べ15Kmくらいだそうだ。後は取り壊されて、破片の一部は土産物として売られていた。市内にある小さな壁博物館では東側から逃れようとした市民の道具や写真など壁にまつわる資料が残っている。

トーマス教会のステンドグラス

  •  ヨーロッパではどんな小さな町に行っても必ず教会がある。中に入ると必ず綺麗なステンドグラスを見ることができる。このトーマス教会も側壁一杯にカラフルな絵を見ることが出来た。聖書が読めない人にも絵をみるだけで教えが分かるように描かれているそうだ。実に美しい!

マイセン磁器工房

  •  高級洋食器で有名なマイセン。18世紀錬金術師ベドガーが白陶器をヨーロッパで初めて成功させて以来その秘法は受け継がれている。ライプチッヒから2時間ばかり走ってマイセンの工場に着いた。此処では製作の工程を代表してのデモンストレーションが見られた。粘土を練って型を造る所、複雑な形状は手で細工、下絵を書き込む所、更に絵付けをする所など実に見事である。

マイセン磁器

  •  工房を出るとマイセン博物館がある。繊細に造られた美しい磁器がずらりと並んでいる。全て手作りで同じ物は二つとないと思われる。丁寧に時間を掛けて造られている。これだけ手が掛かっていることを見れば高価なことが納得できる。高級品である。同行の数名が絵皿など数点買い込んだ。
    ハンガリーのヘレンド磁器と共に世界的に有名で愛好家が多数いる。



=2016/03/28 イタリアの旅=

 
  • 最近イタリアへの旅行人気が出ている。
    ペルージャに移籍した中田の人気もあるだろう。
    しかし何と言っても偉大な芸術都市、歴史の息ずく街には間違いない。
    宗教画、彫刻、遺跡など古代ローマの文化を見る物は沢山ある・・
    ミラノ、ベネチア、フィレンツエ、アッシジ、ローマ、ナポリ、ポンペイ・・など沢山のものを見て歩いた。素晴らしい仲間との出会いもあった・・
    旅はよいとつくづく思う・・

    (旅程マップ)

旅の総括

  •  成田から直行便で13時間かかる。やはりヨーロッパは遠い。昔はアラスカ経由でまだ時間が掛かっていた事を思へば我慢しなければならないのか・・イタリアから帰って来て人から何処がよかったかとよく聞かれる。咄嗟にすぐここが・・と答えられない。 どうしてだろう・・。  
  •  エジプトやトルコやニュージランドから帰って来た時ほどの感激がないのである。イタリアは見る物が画一的というか何処へ行ってもドウオモ(大聖堂)がある。大きさは大小あるが皆おなじ様式である。見る風景もあまり変化はない・・・。食べるものも特別美味しいものもないし、また不味いものもない。これが第一印象。
    (フイレンチェ・ドウオモ)  
  •  でもベネチアには独特のムードがある。ゴンドラに揺られて甘い歌声を聞いていればそれは別世界の心地である。映画のシーンを思い出す。またウフィツイ美術館やバチカン博物館の絵画など名品が沢山ある。絵画/彫刻に関心がある人にはこの上ない所でもある。   
  •  ただ異様に思ったのは落書きが多いこと。町中の建物の壁面には必ず落書きがしてある。走っている電車にも書いてある。汚いと言う感じである。それと交通マナーが大変悪いこと。自分のことしか考えてない。自分が良ければいいという駐車の仕方とか、交差点での割り込みなど人に譲ると言う事をしない。ラテン系のいい加減さである。   
  •  それからご多聞に漏れずスリの集団。ジプシーの子供達の横行である。堂々と悪くびれた様子もなく襲いかかってくる。女、子供、老人を狙ってくるのである。今回のツアーの中でも襲われた人がいたが、幸いに被害はなかった。これはここイタリアだけに限ったことではなく、ヨーロッパ全体の問題でもある。   
  •  丁度旅行している途中でNATO軍によるユーゴへの空爆が始まった。伊大統領の特別放送があり、イタリア軍が参戦したこと。これは国を守るための措置であることなど話したそうだ。アドリア海を隔てたお隣で戦闘状態に入っていること。ミサイルで報復があるかもしれないという状態の中でやや緊張した旅であった。

ミラノ ドゥオモ(大聖堂) 

  •  町の中心にあるこの寺院は、14世紀後半に着工し、19世紀に完成したゴシック建築の最高峰。空を突き刺すかのようにそびえたつ幾百もの尖塔や大理石の彫刻群に囲まれた外観は壮大。最上部の聖母マリア像の地上からの高さは108.5mある。大理石の2245の彫像と135本の尖塔で飾られた外観は圧倒される。

     晴れた日には尖塔に囲まれた屋上からアルプスを見渡せる。







スフォルツエスコ城

  • ミラノで一番大きなルネッサンス期の建物。正面中央にあるこの塔は1452年に作られたものの複製とか。この門をくぐって中に入ると博物館になっており、1階は彫刻、2階は絵画の展示。1階にはレオナルド・ダヴィンチの天井画やミケランジェロの最後の作品「ロンダニーニのピエタ」(未完)などがある。











コモ湖遊覧 

  • 北イタリアのスイスとの国境に沿って沢山の湖があるが、アルプスの氷河の浸食によって出来たもの。ミラノから電車で1時間の位置にあり、湖畔の優雅な別荘地や糸杉の風光はとても明媚であり、このコモ湖はイタリア人の憧れの地といわれている。また絹産業の中心地でもありパリ、ミラノファッションの素材は此処で作られている。コモ湖一周の遊覧船がありお勧めである。




ミラノ・スカラ座

  • 市の中心地にあるこのオペラの殿堂・スカラ座はヴェルディもここを拠点によく活動していたそうで、オペラ劇場としては世界屈指の劇場である。内部は収容人員約4000人といわれて、4階のボックス席と桟敷になっている。スカラ座の前の広場にはレオナルド・ダヴィンチと四人の弟子の像がある。





ジュリエッタの像

  • ここベローナには、14世紀に町を2分する争いの中で悲劇的な死を遂げた恋人同士の物語。シェークスピアの「ロメオとジュリエット」のモデルとなったジュリエッタ家がある。中庭にはジュリエッタの像があり、有名なバルコニーの場を思わせる蔦の絡まったバルコニーもある。狭い場所で沢山の観光客が訪れるので何時もごったかえしている。この像と一緒に写真を撮る人は多い。





アレーナ円形闘技場

  • ローマの円形劇場と言われるアレーナ。最も保存状態のよい古代ローマの遺跡で25,000人収容を誇る。今でも毎年夏には此処でオペラが上演される。ここベローナはミラノとヴェネチアの丁度中間的な位置にある。











ベネチア サン・マルコ寺院

  • 828年にエジプトのアレキサンドリアから盗んで来た聖マルコをまつるため建てられた、5つの東洋的な丸屋根が特徴的な寺院。ベネチアのシンボル的存在であり、金をふんだんに使用していることから、別名「金色教会」とも呼ばれている。
     内部は天井から床までモザイクで埋め尽くされており、特に聖母マリアや聖マルコ等の生涯が金箔や宝石で描かれた祭壇画「パラ・ドーロ」は必見。








ベネチア ゴンドラセレナーデ

  • ヴェネチアは映画の中で何度も紹介されている。「ヴェニスに死す」「ある女の証明」「鍵」「ロシアより愛をこめて」「ムーンレイカー」懐かしいのは「旅情」などなど。ゴンドラに乗って揺られながら美しい歌声を聞きながら費やす一時はまるで夢の世界である。何とも言えない独特の雰囲気がある。また来たくなる・・・。一巡りで45分から1時間ばかり。狭い路地と言うか水路を巧みに操舵して行き交う船頭も年期が入っている。

フィレンツェ ウフィツィ美術館

  • メディチ家の財力により収集されたイタリア・ルネッサンス期の美術品の品々。そのすべてが陳列されたウフィツィ美術館は、世界最高の美術館のひとつ。









     
    「聖母の戴冠」「聖母子」「春」「ヴィーナスの誕生」「受胎告知」「聖家族」などレオナルドやミケランジェロ、ボッティチェリなど、総々たる面々の作品が並んでいる。





フィレンツェ 花の聖母教会

  • 花の聖母という優美な名称で、その名の通り花の都フィレンツエのシンボル。14世紀半ばに完成したこの建物はどこから眺めても完全に均整がとれている希有なもの。聖堂を覆う巨大なドームは天才建築家ブルネルスキの設計で芸術と技術の粋が傾注されて完成された。







フィレンツェ ミケランジェロ広場

  • フィレンツェの町を眺めるにはこのミケランジェロの広場に行くのがよい。前方下方にはアルノ川の向こうに花の聖母教会・ドウオモの美しい姿がみられる。また広場の中央には「ダヴィディ」や「黄昏」などのコピーが一緒になった記念碑が立っている。













アッシジ

  • 花を愛し、鳥を愛し、第2のキリストと言われた聖フランチェスコが創立した修道会の本拠地で、宗教美術の最高のものがここに集中している。
     15世紀に建てられた古い建物が現在も使われている。最近起こった地震で被害をうけたサン・フランチェスコ聖堂は現在修復作業中であった。

ローマ サン・ピエトロ寺院

  • 世界最大規模を誇るカトリックの総本山。現在のような大寺院の形式になったのは、1626年のこと。その始まりは聖ピエトロ殉教の地にたてた聖堂で、はるか4世紀にまでさかのぼる。
     イタリアを代表する巨匠達により120年の長きに渡り再建されてきたこの寺院は、バロック風の華やかな聖堂、ピエタ像など芸術文化の宝庫でもある。現在修復中。

ローマ トレビの泉

  •  数あるローマの噴水の中で最も大きく、バロック様式ならではの舞台的効果にあふれた噴水。「後ろ向きにコインを投げれば再びローマに戻ってこられる」というロマンティックな伝説によって、世界中から来る観光客が必ず立ち寄り、コインに願を掛けていく。
     完成したのは1762年のこと。壁面中央の勝利のアーチを背にして立つのが海の神ネプチューン。ギリシャ・ローマ神話の一場面が劇的に表現されている。






ローマ コロッセオ

  • コロッセオは「永遠の都」ローマのシンボル。この古代ローマの円形競技場は、紀元前70年に建設が始まり、完成したのは100年以上経ってから。直径188m,周囲527m, 高さ57mの4階建てで、1階はドーリア式、2階はイオニア式、3階はコリント式の円柱が240個のアーチの間に並ぶ。5万人を収容。大観衆を前に剣闘士同士や猛獣と人間による血生臭い殺し合いがあった。







ピサ ピサの斜塔

  •  斜塔は鐘楼として建てられたが、現在倒壊の危険を防止するために修復中。完成した1350年以来僅かずつ傾き続け、現在垂直線から4.5mは傾いている。想像以上の傾斜であり迫力がある。ピサの傾斜を手で支えているスナップ写真は誰しも一枚は撮る。かってガリレオがここで加速度の実験をしたのは有名。又隣の聖堂にはガリレオの振り子がある。






ポンペイ ポンペイの遺跡

  • ヴェスビオス火山の大噴火で一瞬にして死の灰に埋まり、劇的な最期を遂げた古代都市ポンペイ。紀元前8世紀にオスク人によって建設され、噴火直前には2万5千人が暮らしていた。発掘は18世紀に始められ、一つの古代都市がそのまま保存された遺跡として世界的に有名。
    火山灰が8mも堆積したとか・・酸欠で亡くなった死骸が数例展示されていた。






2016/03/14 74年のソ連歴史を閉じた・・ロシアの旅

  •  成田から直行便で10時間かかる。思ったより近い。最初の不安は意外にも早く来た。モスクワへの入国審査である。日本であればパスポートチェックはものの2-3秒でコンピューターに読み込んで終わりであるが、此処では何か書類に手書きしている。その上スタンプを数ヶ所押して一人当たり10分ばかりかかる。 どうしてだろう・・何をしているのだろう。また現金1,500$以上の所持者は申告が必要である。全員が通過するには時間がかかる。

     ロシアは寒い!着いたその夜中寒くて眼が覚める。暖房を入れようとスイッチを探すが、既に入れた状態であるが暖かくならない。翌朝聞いたら暖房は国が管理していて2-3日前に暖かくなったので一斉に切ったとのこと。旅行者には辛い・・。

     赤の広場の向に「グム百貨店」がある。
    (グム百貨店)
     大きな専門店風な店が集まっている。品物は揃っているが店員の商売気のないこと、笑顔一つ見せない無愛想なこと。街全体の雰囲気は何だか暗い。市民は背中を丸めて寒そうに歩いている。活気がないように感じた。











     赤の広場は今までTVニュース等で見て想像していたより狭かった。しかし聖ワシーリ寺院やクレムリン宮殿、イワン大帝の鐘楼やスパスカヤ塔などは威容を誇っている。独特な風景である。これらの光景が我々が宿泊した6,000人を収容できるロシアホテルの部屋から一望出来たのには感激した。思わずウーッム凄い!と声が出た。

     観光地は何処でも露店が並び民芸品のマトリョーシカ人形を売っている。ロシアの娘をかたどった木製の人形で、中をあけると一回り小さな人形が次々に出てくる。3個、5個10個、多いもので15個も出てくる物がある。値段は交渉次第である。最近は歴代政治家のマトリョーシカ人形も出ている。10個入りでUS10$,5個入りで100ルーブル程度である。

     最大の問題はエストニアからバスで再入国した時のことである。国境検問所でバスを止められ2時間も放置されたことである。理由をちゃんと説明せず、ただ「待て!」と言うだけ。運転手や添乗員が何度も何度も交渉するが駄目。後から来たバスが追い越して行く。我々だけが足止めを食っている。日本人に対する嫌がらせとしか思えない。乗客もブツブツ言い始める・・ やっと通過出来たと思ったら今度は荷物検査である。全員一人ひとり検査である。結局3Hrばかり掛かって入国出来た。これにはウンザリ! この日はホテルに着いたのが0時近くであった。

     もう一つ異様に思ったのは、ホテルのレストランの給仕が食事の最中に物を売りに来ることである。クロスの下にキャビアとか蟹缶とかイクラなどを隠し持ってこっそりと売りに来る。チーフもぐるで見て見ぬ振りをしている。彼らのアルバイトである。少ない給料では生活していけない彼らの僅かの稼ぎであろう。同行の髭の高橋さんは日本人を馬鹿にして食事中に売りに来るなんて失礼だと憤慨していた。

     サンクトペテルブルグは川が多く橋の数も多い。この風情が何とも言えない落ち着いたしっとりとした雰囲気を醸し出している。美しい街である。別名雨の都と言われる位雨がよく降るそうで我々が滞在中好天気に恵まれたのはほんとに珍しいことだと言っていた。私が今回の旅行で楽しみにしていたのは、この街にあるエルミタージュ美術館の見学であった。半日の時間は取ってあったが10時開門では2時間しかない。しかし午後のモスクワ行きを控えておればその前に昼食をとる時間も必要である。結局1時間半程度の駆け足になった。冬の宮の玄関を入って最初に眼に付くのは階段に沿って壁面の金箔の装飾の凄さその絢爛さに眼を見張るばかりである。270万点に及ぶ収蔵品があると聞くが大したものだ。沢山の素晴らしい絵画をみたが一つ残念なのは保守管理が余り良くないことである。直射日光を受けて反射して見難いものもあったし絵の保存への影響が心配である。

     も一つ驚いたのは、新聞などでは見ていたがマクドナルドの進出である。町中の至る所に店が出ている。広告も派手で眼に付きやすく結構人が入っている。バルト三国でも同様で世界的に拡大している。

    イワン大帝の鐘楼

    • 我々が宿泊したロシアホテルの部屋から正面に見えた鐘楼は朝日に輝くと圧倒的な美しさである。高さは約80mで完成当時はモスクワで一番高く、約30km四方を見渡わたせる軍事的な監視塔の役割もしていたとか。クレムリンの中央に建っており、白色の胴体に金色の屋根はスッキリして美しさをましている。







    聖ワシーリ寺院

    • 赤の広場のシンボル、聖ワシーリー寺院。広場の南端に立ち、丸いネギ坊主の塔を持つカラフルな寺院で、美しいロシア・ロマネスク様式の建物は、近くにあるゴシック様式のスパスカヤ塔と不釣り合いであるが不思議な美しさを醸しだしている。正式名はパクロフスキー寺院だが民衆に尊敬された修道士ワシーリーの墓があるためそう呼ばれている。不思議なことに9つの丸屋根はどの角度から見てもも8つにしか見えない。内部は博物館になっている。


    スパスカヤ塔

    •  聖ワシーリー寺院の近くにあり、クレムリンの東側にある正門。当初はフロロフスキー門と呼ばれていたが、1658年門の上に救世主イエスのイコンがとりつけられてから救世主(スパスカヤ)塔と呼ばれるようになった。白い石像や彫刻が施されクレムリンの中でも一番美しいと言われている。1625年に大時計が付けられ、1935年にルビーの星が載せられた。






    ノヴォデヴィチ女子修道院

    •  16世紀の初頭に建てられた女子修道院。中には教会があり金色に輝いている。この修道院は歴史的事件の舞台となっている。修道院正面前に美しい池があるが、池で泳ぐ白鳥の姿を見てチャイコフスキーが「白鳥の湖」を書いたと言われている。この角度から撮った写真が最も美しい。フルシチョフやスターリンの夫人が此処に眠っている。







    赤の広場入口門

    •  赤の広場に入る入口の門である。この門に立てば赤の広場の向こうに聖ワシリー寺院がクッキリ浮き上がって見える。この門の前にはモスクワの地理原点があり、ここを起点に距離が測られる。赤レンガで作られ白く縁取りされたデザインはとても美しい。








    グム百貨店内

    •  赤の広場を挟んでレーニン廟の向かいに立つ3階建てのロシア最大の百貨店。内部は細かく仕切られた店が並んでいる。天井はガラス張りのアーケードで、真ん中に噴水を配している。東西の建物は渡り廊下の橋が架かっている。店員は若い女性が多いが愛想笑いの一つもなく無愛想で、商売気がないことに寂しさを感じる。








    アルハンゲリスキー寺院

    • 1508年イタリア人アレヴィス・ノーヴィが建築したものでイタリア・ルネッサンス様式を取り入れている。寺院には14-18世紀の皇帝の46の棺が安置されている。










    ロシアホテル全景

    •  我々が宿泊したホテルで6,000人を収容できる最大級のホテルである。部屋の正面にクレムリン宮殿が見え場所はよかったが、夜中に寒さで眼が覚め、暖房を探したがスイッチはなく持参の衣類を被り辛うじて暖を取った。 翌朝聞くところによれば暖房は国家が管理しており、数日前に一斉にカットされたそうだ。旅行者にはなかなか辛いことだ。日本の駐在員は暖房器具を日本から送りそれで生活をしているとか・・厳しい!




    ロシアの歌姫

    •  午後の便でサンクトペテルブルグを出発の日、お昼に入ったレストランはとても素敵で可愛いロシア娘がバンド演奏をバックにロシア民謡など歌ってくれた。お客の手拍子も加わり雰囲気は最高に盛り上がった。隣の席には遠くブラジルから来た団体さんがいてサンバなどを演奏してもらった。食事は大変美味しく大きな壷に入った赤株のスープや肉やきのこのサワークリーム煮などは食べきれない量であった。最後のデザートは時間がなくて食べられなかったのは心残りであった。




    エルミタージュ美術館

    •  世界の三大美術館に入ると言われるエルミタージュは300万点を収蔵。大理石宮殿の冬宮と3つの離宮と劇場からなっている。冬宮の表玄関にあるバロック様式の階段は大理石と金箔の飾りで眼を見張るほどの美しさである。小エルミタージュはエカテリーナだけしか入れない隠れ家(エルミタージュ)だったところからその名が生まれた。旧エルミタージュにはイタリア絵画が展示されダヴィンチやラファエロ、ミケランジェロの傑作がある。只残念なのは保守管理が充分でないこと・・と感じた。



    • 美術館内部

    • (絵画の一部)















2016/02/29 中世そのままの街並み・・・エストニアの旅

     
  •  エストニアの首都タリンは美しい街である。展望台から旧市街地を見下ろすと、緑の樹木の中にレンガ色の三角屋根の塔や向こうには教会の尖塔が見え真っ青い空の色との調和が何とも言えない美しさを表現している。これらの街風景は世界遺産に登録されている。本当に美しい眺めである。旧市街地は石畳の道を歩けば街角の屋根越しにそびえ立つ教会の尖塔が見られたり、石と煉瓦の建物など見る物がすべて美しい。(世界遺産の旧市街地展望)
  •  この美しいタリンに2日滞在できるのはとても幸せである。しかしこの時期は北欧からの観光客がどっと押し掛けて来て、残念ながら我々の宿泊予定としている町中のホテルが先客でキャンセルされたのは残念だった。JTBはそのお詫びに@¥5,000を返してくれた。バルト海を挟んだ対岸のヘルシンキからは船や飛行機で20-30分で来られる近さである。リトアニア、ラトビアと歩いて来たバルト三国の中では一番観光客が多く街も活気があった。長い冬の中で過ごして来た北欧の人達にはやっと春が来た感じで動き始めているそうだ。
  •  北上してくると段々日がながくなる。白夜と言うか夜の10時過ぎでもまた明るい。夕食は町中のレストランでと言うことでバスで出掛けた。レストランに着いたところで同行の女性グループの一人が指輪がない!と騒ぎ出した。ホテルを出たときにはあったので何処かで落としたに違いないと女性の友達と添乗員がバスを降りた所まで引き返し、見事バスを降りた所の路上で見つけた。奇跡と言うか白夜のお陰と言うか・・こんなこともあるのかと感心した。
  •  バルト三国でマツダ車が多いのに驚いた。日本車の中ではトヨタ車に勝とも劣らない多さであり、とても嬉しかった。多くは私が昔開発した626カペラである。15-6年前になろうか・・健在で走っている姿をみて感動した。おそらくドイツかフィンランドあたりから販売したもの思われる。日本車の中で本田、日産車は時々で、三菱は殆ど見かけなかった。
  •  今回の同行ツアー客の中で最高齢者は81才の男性。71才、65才の男性。女性の高齢者は70前後(?)だろうか・・。みんな高齢だがとても元気である。半数にあたる12名の女性グループがいたが水泳とか趣味のクラブの人達。夫婦は4組、男性の一人旅が2名、女性の仲間同志が一組であった。感心したのはこの女性同志の人で70才前後と思われるが、いずれもご主人を亡くされていて旅が唯一の生き甲斐とされている。感心したのは現地のバスの運転手さんとガイドさんに日本のお土産を持参されたこと。東急ハンズのミニチュア鯉のぼりで結構かさばる荷物でありながら14-5個持って来て全員に配られたことである。ちょっとした親善大使で、なかなか出来ないことである。
  •  それからご多聞に漏れずスリの集団。ジプシーの子供達の横行である。堂々と悪くびれた様子もなく襲いかかってくる。女、子供、老人を狙ってくるのである。しかし今回のツアーでは幸いにも襲われた人がいなかった。

カドリオルグ公園

 北方戦争に勝ってエストニアを占領したロシアのピヨートル大帝が造った公園。大帝の妃の名前をとってカドリオルグ公園と呼ばれる。地元の人はエカテリーナに対応するエストニア女性の名を使っている。離宮の建設が開始されたのは1718年、イタリアの建築家による後期バロック様式の宮殿で完成まで5年かかり、その間にピヨートル大帝は亡くなってしまった。
(カドリオルグ公園)















アレキサンドルネフスキー寺院

 タマネギの形をした屋根がひときわ目立つロシア正教寺院。ロシア皇帝アレクサンドル3世の命で1900年に完成した。内部は正教の寺院らしく多数のイコンで飾られている。教会を入ってすぐ右手の壁には、日露戦争で犠牲になったロシア艦隊を記念したプレートが掛けられている。当時は沢山のバルトの人が徴用され日本人と戦って命を落とした。そのせいでもあるまいが高橋さんが近づいたら制止された。






世界遺産 旧市街地展望

  • 海抜48mの此処トーンベアの展望台から眺める下町の景色は素晴らしい。タリンの観光はまずこの展望台から・・と言われているほどすばらしい眺めである。白い壁に赤茶けた煉瓦色のとんがり屋根が周囲の木々の緑と真っ青い空の色とあって何とも言えない美しさ。
  • エストニアの首都タリン。展望台から旧市街を見下ろせば、三角屋根の塔と教会の尖塔の向こうにバルト海が見えた。世界遺産にも登録されており中世の街並みは訪れる人を数百年のかなたへと誘う・・



美しい荘園 パルムセの館

 完全に修復された18世紀の貴族の館。美しいアンサンブルを形成している庭園には、修道士の時代から伝わる池、鍛冶屋、蒸留所などが配置され、館内には今世紀初頭の家具やオルゴールが並べられている。現在館は公園の情報センター及び博物館となっている。庭にはタンポポの黄色い小さな花が咲き、落ち着いた美しい庭である。






歌の原・野外大音楽堂

エストニア最大級のイベント、「歌の祭典」が開かれる野外音楽堂。公式には15万人の聴衆を収容出来ると言われているが、1988年の祭典には独立への期待と熱意が高まる中でエストニア各地から30万人が集まり、革命の引き金にもなった。祭典は5年に一度開かれる。民族衣装を身にまとった人々が各地に伝わるフォクリングを聞かせてくれる。

トーンベアの大聖堂

 エストニア本土で最も古い教会で、1219年建設が始まった。トーンベアと言う地名はこの大聖堂に由来する。現存する白亜の建物は15~17世紀の建築様式が混在している。











エストニア~ロシア国境検問所

 忌まわしいロシアの国境検問所。エストニアからロシアのサンクトペテルブルグ゙にバスで向かったが、このロシア入国検問所で理由なく2hrも停車を食った。添乗員やバスの運転手が何度も理由を尋ねたが「待て!」と言うだけで許可しなかった。後から来た他のバスは追い越して行き、我々にはその理由が説明されなかった。日本人に対する嫌がらせとしか思えない。ロシアは観光立国にはまだ時間がかかりそう!







タリン市街地

 タリンが初めて地図上に登場したのは12世紀。9世紀頃には既に交易の拠点になっていた。ハンザ同盟の一員だった500年前と変わらないたたずまいを残している。商人達が住んでいた古い家が並ぶ石畳の小道。見上げれば青空にくっきり映える教会のとんがり屋根・・。世界遺産に登録されているタリンの旧市街には古きよきヨーロッパの薫りが溢れている。











2016/02/15 ドイツの面影を残す・・ラトビアの旅

  •  ラトビアはバルト三国の中では最も大きい国であり、その首都リガは最大の都市である。旧市街に残る聖堂や教会には、800年のリガの歴史が刻まれている。リガ大聖堂の中にあるパイプオルガンは6,718本のパイプが使われており出来た当時としては世界に並ぶものがなかったと言われる。丁度閉館日であったがわざわざ日本から来たと言うことで特別に中に入れて貰った。荘厳なパイプオルガンの音色は腹に滲み心が洗われる感じがした。        
  •  リトアニアからバスでラトビアに着いた夜は中心街の有名なレストランでラトビアの民族音楽や踊りを見ながら食事をした。可愛い3人の娘が民族衣装を纏い3人の青年と組んでリズミカルな踊りを披露してくれた。ヴァイオリンの伴奏で10曲近い踊りを汗をかきながら連続して踊ってくれた。最後は我々も一緒にと言うことで6名の有志が飛び入りした。とても楽しい一時であった。生き生きとした3人の娘の表情が印象的であった。
     
    (民族舞踏を踊る娘たち)   
  •  4ヶ国を一時期に旅行すると各国の通貨が異なり計算に困惑する。土産物店で値段を見ながら日本円に換算して、安いか高いか判断しなければならない。その意味からすればリトアニアは物価が安く、0が一つ足りないのでは・・と言う感じで躊躇した。しかしラトビアはバルト三国のなかでは一番物価が高いと感じた。1Lat=\180.-であるがリトアニアの約3倍くらい高い感じであった。                 
  •  ラトビアは今まで査証を必要としていたが今年から廃止された。観光立国で行くなら出来るだけ入出国は簡単な手続きが望ましい。またバルト三国の中ラトビアだけが時差が1時間ずれていたがこれも三国一様に修正された。これらは大変喜ばしいことである。
     しかし今回ラトビアを出国するとき一寸したトラブルが発生し、国境で50’の足止めを食った。理由はラトビア入国時にパスポートに検印がないとのこと。確かに入国時に係官がパスポート持って行き、返って来た時には何も検印がないことにおかしいとは思ったが・・・
     今更言われても此方の落ち度ではない。結局添乗員の吉田さんが泣きを入れて許して貰ったとか・・、吉田さんも詳しいことは話してくれなかったが相当高額の金を要求されたようだ。みんなで勘ぐるに入国係官と出国係官で示し合わせて・・・と。おかしいことだ。          
  •  どの観光地/場所に行っても街頭物売りが多い。多い時にはバスを降りると14-5人にとり囲まれる。なかなかに執拗である。一寸した日本語で1,000円とか言ってくる。 琥珀のネックレスなど1000円と言われても良い品物かどうか迷ってしまう。とても買う気持ちにはなれない。しかし絵葉書など15ー6枚入って1us$と言えばこれは安い!。
    ガイドブックとか地図などは安い部類だろう・・ 中には買い得な物もある。  
  •  また今回の4ヶ国とも観光場所に行けば街頭演奏家がいること。一人で静かに演奏しているが気が付けば日本のメロディーであったり、先方も気を遣っていることに思わず嬉しくなる。何処の国の人かいち早く見極めて演奏しているのには感心した。

聖ペテロ教会

  •  1209年に創建された教会。尖塔の高さが120mに達する威容はリガのランドマークとも言える。塔の上部は第2次大戦で破壊され、戦後に復元された。高さ72mの展望台までエレベーターがあり、リガの町を一望することができる。

聖ヤコブ教会

  • ラトビア議会と隣接して建つ教会。鋭くとがった高さ80mの尖塔が目を引く。現在の建物は15世紀に改築されたもの。ゴシック様式の建物は15~17世紀に掛けて増築された。
     尖塔の中程に突起物が見られるが、かってここには「哀れな罪人の鐘」が吊されていて、罪人が処刑の日に鐘を鳴らして市民に知らせていた。鐘は1915年にロシアに持ち去られた。

夕食レストランにて

  •  ラトビヤに着いた夜は市中の有名レストランで食事をとった。ここはラトビアの民族音楽と踊りが出し物で、食事の前に軽く飲み物をとりながら踊りを見た。ステージは古い漁船を改造した物で、伴奏は軽やかな、しかもしっとりとしたヴァイオリンで場の雰囲気を盛り上げてなかなか良かった。

ブラックヘッドのギルド 

  •  市庁舎広場にリガで最も美しい建物と言われたブラックヘッドのギルドがある。現在この建物は2001年のリガ創立800年祭に向けて急ピッチで再建が進められている。
     これが完成すれば更なる魅力が加わろう。

ブレーメンの音楽隊

  •  思わぬ所で思わぬ銅像を見た。小学校の時音楽の教科書に載っていた「ブレーメンの音楽隊」の像である。馬、犬、猫、鶏が背中に載った物である。聖ペテロ教会の前に建っていた。ブレーメンとはこの土地の名前の様だ。

リガの街

  •  人口80万人を越えるリガはラトビアの首都であると共にバルト三国最大の都市でもある。古くから商工業や貿易の中心地として栄えて来た。ダウガヴァ川の対岸からリガの旧市街を望むと聖ヤコブ教会や大聖堂、聖ペトロ教会などの尖塔が古都の空に浮かび上がっている。

美しいデザインの家

  •  市街を歩いているとカラフルな美しいデザインの建物と出会う。見応えのある美しい家並みである。

リガドームのパイプオルガン

  •  リガ大聖堂の重厚なパイプオルガンは1883年に作られたものだが、木彫りの彫像で装飾されたフレームは16世紀以来のものが慎重に保存され、そのまま使われている。パイプは6,718本を数え、長い物は10mにも達する。造られた当時は世界に並ぶ物がない最大級のものだった。丁度休館日であったが日本から来たと言うことで特別に入れて貰った。
     荘厳なパイプオルガンの音色は心に滲みるもので印象的であった。

マロニエの白い花

  •  この時期、バルト三国何処へ行っても街路樹のマロニエが白い花を付けてとても美しかった。大きな木に白い大きな房は緑の葉とコントラストがあって目を引く。

名産品の琥珀

  •  バルト海からリガ湾にかけて産出される琥珀は、世界で珍重されている装飾品。リトアニアとラトビアでは身体を癒す力があると信じ、身につけている人も多い。琥珀は5~4000万年前の松ヤニが長い年月と酸化などの作用を経て凝固したもの。中には当時の昆虫や木の実などを含んだまま凝固したものもあって、特に珍重されている。琥珀は石とは違うので触ってみても冷たくない。


2016/02/01 ロシアとバルト三国の旅

  •  今回はJTB初めての新設コースであり、我々が最初のツアー客であった。
    ロシアになってから初めてであるがソ連の時代に色々の風評は耳にしていた。
    その期待と不安を持って参加した・・・。
     また、リトアニア、ラトビア、エストニアと言ういわゆるバルト三国など名前は聞いたことがあってもどんな国であるか興味もあった。
     結論はロシアにはまだまだ不安な要素があるが、逆に後者のバルト三国は
    期待以上に素晴らしい国であったと感じた・・

    (旅程マップ゚)

「森と湖に囲まれた国・・・リトアニアの旅」から紹介します。
                         事務局

森と湖に囲まれた国・・・リトアニアの旅

  •  リトアニアは1991年ソ連から独立した。9年前である。リトアニアの首都ビリュニスとカウナスに滞在した。いずれの街も美しくていいところである。モスクワからは時差2時間、飛行機で2時間半で着く。人なつっこく陽気な国民であり、若い女性に美人が多いのに驚く。ガイドブックにはつらつとした笑顔の写真が飾ってあるが全くその通り・・・。
     森と湖が多く風景も美しい。その上物価も安く予期した以上に素晴らしい国であった。
    (リトアニアの若い娘)
  • 今回の旅行では最も南に位置しており暖かい、気候と言い国民性といいロシア/モスクワと対象的な国である。
    ヴィリュニスの聖ペトロ&パウロ教会は17世紀バロックを代表する建築物であり内装に30年もの時間が掛けられたと言う細かな装飾と2000以上の彫刻は素晴らしい。  
  • ヴィリュニスからバスで約40分走った郊外にトラカイ城がある。「森と湖に囲まれた中世の古城・・」と言われている赤レンガの古城が水面に映える、ほんとに美しい風景。まるでお伽話の中に出てくる美しいお城とでも言うか思わず立ち止まって綺麗!と唸るくらいである。内部は現在歴史博物館として使われ6000点以上の資料が集められている。此処でも子供達の屋外授業の集団に出会った。みんな可愛い顔をしてにっこりと挨拶してくる。
    (リトアニアの子供達)     
  • リトアニアは琥珀の名産地で各国に輸出している。松や植物の樹脂が長い年月の間に化石となり、金色と茶色が混じった神秘的な光を放つ。中には虫を飲み込んだ珍しい物も見られる。琥珀博物館を見学したがほんとに綺麗な琥珀が展示されていた。記念のお土産に一つ買った。    
  • この時期は緑の芝生の中に小さな黄色い花が咲いている。遠くからみれば黄色い絨毯を敷きつめた様でとても美しい。タンポポの花である。やがて白い胞子が空を飛び次々に増えて行く。またマロニエの白い花も今を盛りと咲いている。街の中が花で美しい。
  • リトアニアで忘れてはいけないのが、第2次世界大戦の時ナチスに追われたユダヤ人がポーランドからリトアニアに逃れて来て彼らに日本通過のヴィザを発給し6000人を救ったと言われる杉原千畝氏の偉業である。彼の功績はリトアニアと日本を結ぶ絆となって今も生きている。当時の日本領事館跡をみることが出来た。現在は当時の隣人であったイエドヴィガさん(79才)が住んでいる。近々政府が出資して記念館を作ると聞いた。
    (日本領事館跡)   
  • バスでラトビアに向けて走り、国境近くに「十字架の丘」がある。無数の十字架で小山が出来ている。19世紀ロシアによって数千人のリトアニア人が殺された。彼らを忘れないためにその家族が十字架を立てたのが始まり。ソ連はこれを破壊しようとしたが却って逆効果となりそのまま黙視。「十字架の丘」と呼ばれ、今では世界各地からキリスト教徒が訪れ新たな十字架を立てて行く。1993年にはローマ法王パウロ2世も此処を訪れたとか。
    (十字架の丘)
  • ラトビアの国境近くで我々のバスが止められた。国境に着いたかと思ったが、実は交通検問でスピード違反を取り締まっていた。お気の毒にも運転手は捕まり調書を取られた。郊外の直線路で障害物はなく快調に走っていたが、警官はスピードガンで測定していた。

聖ペテロ・パウロ寺院

  • 建物は1668年から7年かけて造られたが内装にはその後30年掛けて仕上げられた。中に入った途端素晴らしい彫刻の数々にに圧倒される。2000以上の漆喰彫刻には一つとして同じ物がないといわれている。製作にはイタリアから招かれた彫刻家たちがあたり、数百人もの地元の職人が手助けしたと言われる。

大聖堂

  • ネオ・クラシカル様式の巨大な聖堂。リトアニア初代大公ミンダウガスが1251年に建立した。現在の建物は18世紀後半に再建された物。地下には16世紀に在位した国王と王妃の棺が安置されている。画像はケディミナス大公の像。
    大聖堂のすぐ手前にある鐘楼は高さ53m、基礎の部分は13世紀の城壁の一部で、ビリュニスで最も古い建物の一つである。

聖アンナ教会

  •  16世紀後半に建てられた教会。ビリュニスにあるゴシック様式の建築の傑作中の一つ。
     正面から見ると塔が3本あるのが特徴。建設には33種類の違った形の煉瓦が使われており、ヨーロッパでは他に類を見ない。
     1812年ナポレオンがビリュニスに入った時、この教会を見て「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」と語ったのは有名な話。

トラカイ城

  •  ビリュニスから25km郊外のトラカイにある城。城は湖の島の上にポッカリと浮かんで見える。森と湖からなるリトアニア有数の観光地。おとぎ話に出てくるお城の様にとても美しい。此処でも小学生の団体と出会ったがみんなニコニコとして挨拶をする。
  •  島には橋を渡って行く。堀の跡に架かる跳ね橋や、壁の中の細い螺旋階段、銃眼などをみると、戦のために造られたことが分かる。現在は城壁、本丸ともに博物館として使われ、6000点以上もの資料が集められている。熱心なガイドさんが一つ一つ丁寧に時間を掛けて説明するのには草臥れた。

カウナス城

  • カウナスはビリュニスに次ぐリトアニア第2の都市。ポーランドに占領されたビリュニスに代わって首都だった時期もある。カウナス城はネリス川に面した土手にある古城の跡。13世紀に建てられた城砦で、城を取り囲んでいた壁は厚さ2m、高さ13mもあった。元は4つあった塔も今はネリス川の氾濫で流された。今残っているのは修復された塔と城壁の一部のみ。

ビリュニス市街地

  •  ビリュニスの旧市街地にはタリンやリーガの様な判然とした境界はない。旧市街には裏道と呼ぶに相応しい細く曲がりくねった石畳の道がある。そこに軒を並べる家々はカラフルな色で塗られ、カソリックの町らしい柔らかな曲線が続いている。

夜明けの門

  • ビリュニスの市街を取り囲んでいた城壁には10の門があった。夜明けの門は現在残っている唯一の門である。16世紀のルネッサンス様式で造られその後何度も改修された。2階は小さな礼拝所になっている。ここにある聖母のイコンは奇跡を起こす力があると今も信じられている。

杉原千畝の像

  •  第2次世界大戦中多くのユダヤ人の命を救って「日本のシンドラー」と呼ばれた、リトアニアの日本領事だった外交官、故杉原千畝さんの記念碑。ユダヤ人難民がナチスの迫害から逃れるためにはシベリア・日本経由で脱出するしかなく、それには日本のビザが必要だった。杉原は独断でビザを発給し、6000人のユダヤ人が命を救われた。
 


2016/01/18 ペルーマチュピチュの旅

  • 今回は遠い遠い南米ペルーの旅であった。
    成田を出てロスアンジェルスで乗り換え待ち時間も含めるとなんと21時間以上も掛かる。
    自宅を出て最初の目的地まで30hr掛かってやっとである。
    日本から見ると地球の裏側に位置する。
    ペルーにはナスカの地上絵や謎の空中都市マチュピチュの遺跡や3800mを越える高地に琵琶湖の12倍もある神秘のチチカカ湖がある。
    一度は訪れてみたいと長い間胸に秘めていた国でもある。
    何れもインカ文明の素晴らしさを充分満喫出来る旅であったが・・・。
    高地による高山病に倒れていくツアー同行者の姿を見るにその厳しさを感じた
    4000mの高地ツアーは並の旅行ではない・・

    (旅程マップ)

旅の総括

  •  ペルーは日本の約3.4倍の面積を持つ国である。その国は海岸部の乾燥地帯と中央部のアンデス山脈の高原地帯とアマゾン源流の熱帯雨林地帯で構成されている。
     人口は2400万人とも言われているが、40%が先住民のインディオと白人の混血である。
     歴史的な発祥は3000年前にさかのぼる。その後紀元前200年頃にティワナコ文明が発生、13世紀になってインカ文明が台頭し、一大帝国を樹立。しかし1533年スペイン兵によって滅ぼされる。以後1820年に独立、1980年に民政が実現した。
     この素晴らしいインカ文明の未だ解明されていない謎が人々を引きつけている。
  •  最近のペルーは日系のフジモリ大統領やテロのよる日本大使館占拠事件など記憶に新しいが、小さい頃からの想いは幻の空中都市マチュピチュやナスカの謎の地上絵などである。
     一度は訪れて見たい国でもあった。何れも世界遺産として登録されている。 やはり期待に違わず見る価値は充分にあった。しかしアンデスの高地は聞きしに勝る厳しい所で、ツアー同行者が次から次ぎに高山病で倒れて行ったのには驚いた。
  •  インカ時代の中心地クスコが3,320m、チチカカ湖が3,890m、クスコからプーノへの高原道路は何と4,335mの最高地点を通過する。日本では経験出来ない高度の旅行である。空気が希薄で呼吸が苦しくなってくる。
     初めての体験でもあった。此処は若くて元気のよい時に旅行する所だ。
  •  さてペルーの現大統領フジモリ氏は9年の政権を担って来たが、最近退陣を表明された。色々噂が出ているようだが、評判を聞いて見ると大衆層の支持はかなり厚い。
     元々大学の教授であり教育改革で立候補して支持されたが、業績はかなり上げている。
     農村を含めて各地に学校を立て教育費も無料で南米一の識字力を持った国にした。また特にテロ対策には力を入れ成果を上げており国民から評価されている。観光立国として力を入れているが、テロによる日本大使館占拠事件以後観光客はバッタリ激減し国の経済は大きな痛手を受けた. 昨年当たりから観光客も増えて来て生活も上手く循環するようになったと喜んでいた。
      ペルーは貧富の差が激しく、金を持っている人は想像できないくらいの豊満で、逆にその日の生活にも事欠くひとも多い。フジモリ氏が下層階級に厚い政策をとっているのでブルジョア層から反対の狼煙が上がっていると聞く。農村を含め至る所にフジモリ打倒の看板が書かれているのが目に付く。
  •  ナスカの地上絵は未だ謎に包まれている。地上ではその存在が分からないが、飛行機から見る絵は広大な大地に規則正しい図形が描かれどの様にして書かれたものか・・・と思う。
     最近は進入禁止になっているが心ない4輪駆動車の轍の跡などがつき、図形を壊している所も見られる。滅多に雨の降らない場所であるが最近エルニーヨ現象で一部が破壊したとも聞く。
     描かれてから1500年もの間誰にも知られずにひっそりと眠っていた絵は段々と風化して行くことは避けられそうにないと感じた。

    (ナスカの地上絵宇宙人)

      幻の空中都市「マチュピチュ」はまさしく山と山、峰と峰の合間の台地に出来た神殿遺跡である。2700mもの高地に当時最大1500人位の人が住んでいたと聞く。段々畑、水汲み場、太陽の神殿、神聖の広場、倉庫・・・など都市形態をなしている。よくもこんなものをと驚く。インカ文明の石組の素晴らしさも所々に見ることが出来る。鉄の道具もない時代に石の面を出して隙間もなく積み上げて行く技は素晴らしい。ペルーで300年に一度起きると言われる大地震にもびくともしないで耐え抜いて来た。
     4000mの所にあるシルスタニの遺跡も素晴らしい。プレインカやインカ時代の王や貴族の墓が数基残っている。上広がりの丁度コップの形をしており1m平方の石を高さ6-7mに積み上げた直径3m位の円形。入り口が真東に向いている。中に金銀とミイラが入っていたそうだ。
     バスから降りてそこまで100mくらい登ることになるが、4000mではその100mも息苦しくて登れない人もいた。頂上にはウマヨ湖があり中央にあるウマヨ島は真平らな台地になっており此処でまつり事が行われていた。壮大な古代のロマンを感じる眺めであった。 神秘のチチカカ湖などなど・・・  ペルーは見るところが沢山ある。日本から見ると地球の反対側にある遠い国であるが、親日的であり人々の笑顔は明るい。

    (幻の空中都市マチュピチュ)

ペルー政庁舎

  •  リマ市内の中心部にあるマヨール広場の西側にペルー政庁がある。フジモリ大統領が執務している所。警備が厳しく鉄塀に囲まれて近ずくことは出来なかったが、決まった時間に行われる衛兵の交代式が一つの見物になっている。だが当日は残念ながらその交代式も見ることは出来なかった。9年間の長期政権への批判が高まり、先日退陣を表明しているが下層階級には厚い支持があるようだ。

ハチドリの地上絵

  •  リマから飛行機で1時間半程度でイカ空港に着く、そこで遊覧用の12-3人乗りの軽飛行機に乗り換えて約2-30分砂漠の中を飛ぶと台地の上に描かれた地上絵が突然現れる。宇宙人、ハチドリ、コンドル、サル・・などなど。片言の日本語でパイロットが説明してくれる。右ハチドリ羽根の下・・見たか?てな具合。右に旋回、左に旋回真下によく見える様に旋回を繰り返す。最初は見る方に神経を集中しているがその内気分が悪くなりみんなおとなしくなる。不思議な絵だ。一見の価値あり。

サンタカタリナ修道院

  •  アレキバ観光の最大の見所。1579年に開設された女子修道院。1974年から一般公開される様になったが内部の修道女の居室や台所、洗濯場などそのままに残されている。内部は広くいくつかの美しい中庭を結んで迷路の様な回廊が張り巡らせてある。名家の次女が入門する習わしになっていたとか、外界と閉ざされた厳しい生活・・。写真は大きな鉢状の桶が並ぶ洗濯場。

クスコ全景

  •  リマから空路約1時間のクスコはインカ時代の中心地として栄えた所。標高3,300mの高地に何故首都を築いたか不思議である。現在のクスコはスペイン人によって築かれたが、あちこちにインカ時代の堅牢な石組みが見られる。街全体が茶色の屋根で覆われている。住民の大部分はインディオである。此処まで来ると誰でも少なからず高山病の症状が現れる。

インカの石組み

  •  インカの石組みの技術は素晴らしい。石と石の合わせ面は一分の隙がないほどぴったりと築かれている。12角の石があるが、12面綺麗に揃っている。鉄の道具もなかった時代によくもこれだけの物が出来たことと感心する。スペイン人はこの技術を認めようとはしなかった。300年周期で来ると言われる大地震にスペイン人が建てた建造物は崩壊してもインカ建造物は耐えて来たと言われる。

サクサイワマンの要塞跡

  •  スペイン人の侵攻を防御するために造られた何段もの石組み。高さ9m、360tonの巨岩を如何にして運んで来たか、岩と岩は隙間のない精密な造りである。この技術は素晴らしい。前の広場は現在市民の憩いの場となっている。現在でも発掘、遺跡の修復作業が続けられていた。

マチュピチュの遺跡

  •  幻の空中都市と言われるように、峰と峰の間に築かれた居住区。下界からは決して見えない。当時1500人の人が住んでいたと言われているが、段々畑でジャガイモやトウモロコシを栽培し糧としていた。太陽の神殿、水汲み場、倉庫・・など都市形態をなしている。遺跡の面積は40平方Kmに及び全体を歩くには優に2時間は掛かる。1911年アメリカ人によって発見されたとしているが、末裔たる土地のインディオ達は早くからその遺跡は知っていたと言われる。霧に包まれたマチュピチュの姿は哀愁の風情が漂っている。

インディオの民族舞踏

  •  マチュピチュ見学を終えて帰ってきた夜は「フォルクローレ・ディナーショー」を見ながらの夕食であった。色鮮やかな民族衣装を纏った可愛いインディオ娘たちがケーナ、サンポーニャ、チャランゴなど民族楽器による哀愁に満ちた音楽に合わせ踊る姿は素晴らしかった。また踊りの後は人気バンドの演奏でアンデスの雰囲気を充分満喫出来た。

アンデス幹線4,435m

  •  クスコからプーノに向けてアンデス山脈を越える幹線道路が走っている。大部分は凸凹道で決してよい道とは言えない。途中最高地点は4,335mを越える。生まれて初めての高地走行の体験である。今までは北米のロッキー山脈越えの3,984mが最高であったが、それを遙かに越える道路である。記念標識を背景に写真を撮った。此処でもインディオ達が露店を開き民芸品を売っていた。 息が苦しい!しかし近くの学校のグランドで子供達がサッカーをして遊んでいるのには驚いた。

コカの葉

  •  コカインの原料である。現地では煎じてコカ茶として飲用する。何処へ行っても高山病の予防飲料として飲ませてくれる。普通の番茶と同じ味で飲むのに抵抗はない。現地で飲むのは問題ないが、葉っぱをポケットに入れて持ち帰るのは厳禁である。麻薬所持罪で逮捕される。中にはちょっとと言って持って帰る人がいるのだろうか・・添乗員が厳しく忠告していた。

ウロス島のインディオの子供達

  •  標高4,000mに琵琶湖の12倍もある神秘のチチカカ湖がある。この湖上に葦の茎を束ねて浮かしたウロス島がある。50の浮島にインディオ達が200人分かれて住んでいる。チチカカ湖で魚を捕ったり、観光客を相手に民芸品を売って生活している。子供達のためにちゃんとした学校も用意されている。葦の上はマットの様にふわふわして歩きにくい。2畳位の狭い小屋の中で家族が生活していた。



2016/01/04 ヒマラヤ・ネパールの旅

    • 日本から約10Hr! 時差3h15'バンコク経由で日本から約10Hr! 時差3h15'バンコク経由で「白く輝く神々のヒマラヤ!」ネパールに行って来ました!
      •  長年の念願の地! やっと実現・・
         長い間の政情不安で、ツアーの催行もままならず・・
         東西2,800kmのヒマラヤ大山脈には、8,000mを越える巨峰が14も、その半分の8座がネパールにあるのだ!
         白く輝くその姿は美しいのなんの・・神々しさを感ずる。
         カトマンズのナガルコットやポカラのサランコットの丘、カスキコットの丘
         展望台からの眺望は素晴らしい!これぞヒマラヤ!!
         更に、世界の最高峰エヴェレストは遊覧飛行で目の前に!・・
         また、山だけではない・・世界遺産が3つもあるのだ。
        「古都バクタプル」「カトマンズの市街地」「パタンの市街地」など!
         ヒンズー教と仏教が上手く調和した国・・見応えあり!
         全行程お天気に恵まれて、こんな素晴らしい旅はない!
         今回も新しい発見・驚きがあった。・・!
         期待通りの素晴らしい所だった・・やはり旅は楽しい!


        (旅程マップ)

      旅の総括

      •  ネパールは以前から行ってみたい国の一つとして注目していた。
        ネパールといえばヒマラヤ山脈、冠雪の高山、高地のイメージがあり11月と云えば寒いのでは・・と考えがちだが、それは杞憂に過ぎず、緯度からみれば奄美大島と同緯度であり、気温も23℃くらい、標高もカトマンズで1300m~1400m、ポカラで800m位で思うほど寒くはないのだ。 山を見たり、写真を撮ったりするにはベストシーズンを選ぶ必要があるが6月~9月は雨期であり避ける。日本のベストシーズンで考えては失敗する。行くなら10月~5月の乾期を狙うべきだが、雲が少なく写真を撮るなら11月~2月がベストであろう。今回は全ての日程で快晴に恵まれて、美しいヒマラヤの山々を堪能でき、写真も思う存分撮ることが出来た。

         ネパールといえば直ぐにヒマラヤ・エヴェレスト・・と山のイメージが強いが、今回のツアーでは山だけではなく世界遺産を3つも見ることが出来た。カトマンズの古都バクタプル、パタン市街地、カトマンズ市街地など古い寺院や人々の生活風景など見るべき物が沢山あるのだ。ガイド本には世界遺産としての説明が少ないが、この他野生動物の王国チトワン公園などもあり、山あり世界遺産あり、大自然あり・・またヒンズー教と仏教が上手く融合した文化、人々の生活風景など旅する人にとってはとても面白い国だとあらためて感じた。

         日本からの直行便はロイアル・ネパール航空のみで、他は自国の首都を経由してネパールの首都・カトマンズに入る便が多い。今回はタイ航空だったのでバンコク経由となった。バンコクからカトマンズ、カトマンズからポカラと飛行機を使うが、ちょっと心得ておけば2倍楽しい空の旅ができる。往きは何れも「右側窓席」復路は「左側窓席」をリクエストすることだ。ヒマラヤの美しい光景を楽しめるのだ。みんなよく知っていて誰もがリクエストするので早めにチェックインしないと望みは叶わない。エヴェレストを見るならカトマンズやポカラからは遠すぎて見えない。別料金を払ってヒマラヤ遊覧飛行で見に行くことになる。 これは目の前に見られて素晴らしい。少し高いがそれだけの価値は充分にある。

           ネパールの風習でとても興味を持ったのが「生き女神・クマリ」のことである。出発前にNHKの世界遺産シリーズで少しの予備知識はあったが・・今の時代にこの様な風習があることに驚いた。実際にクマリの館に行き生き女神の少女・クマリに会うことが出来たが、なかなかキリリとした理知的で美しい少女であった。 並みの少女ではクマリになれない!選ばれる条件は32項目もあり、全てに合致しなければならない。この条件が凄い!身体の全ての部分が健康で、目、口、耳、顔、動作、歩き方・・ex 手は軟らかく繊細、ライオンのような胸、ほら貝のような頬、青又は黒色の目、牛のようなまつげ、すずめのような低い声、・・この他に強い意志、何事にも怖がらない・・心理的要素も加えられる。聞いただけであり得ない!と思うが・・。 選ばれた少女は親元を離れクマリの館に住み神としての修行をし、学校には行かず、祭事の時以外は外に出ることもない。この生活は聖性のある間続き、初潮を迎えると次のクマリに交替する・・という不思議な風習である。
         ネパールで、も一つ意外に思ったことに、女性がとてもよく働くこと。畑を耕したり野良仕事や稲刈り、脱穀・・など外で働いているのは殆ど女性である。此処はイスラム圏ではないので女性が外に出て働く。男性が働いている姿を見るのは稀で、何時も街角や広場で屯してお喋りしている。何時何処で働いているのだろうかと思う。話に聞けばネパールでは「一妻多夫」だとか・・一人の妻が複数の夫を持って、全て妻が仕事を命じているそうだ。実権は女性が持っているのだ。不思議な国だ。イスラム圏では一人の男が4人の妻を持つことが出きるそうだが、ここネパールでは逆の形になっている。世の中知らないこと面白いことが色々あるものだ・・

         ネパールの国教はヒンズー教である。全体の8-9割がインドから伝わったヒンズー教、北のヒマラヤ 山地ではチベットから来たチベット仏教、またインドから来た仏教など色んな宗教が混在。このようにヒンズー教と仏教がうまく融合されて人々の生活が行われている。しかしヒンズー教はインドでもそうだが根強くカースト制を踏襲している。ネパールでも人々は生まれながらにして職業的身分が決まっているという。 我々からみれば悲しい一面を持っているように思える・・
         少し話題を変えて・・日本の代表花はサクラ!サクラは日本人の心の故郷とも云われているが、実はこのサクラの故郷はネパールであった!サクラは本来秋に咲いていた。ネパールのこの「ヒマラヤザクラ」は今が満開である。このヒマラヤザクラと日本のサクラは16個の染色体を持つ野生種で、遺伝的に非常に近いことが調べて分かったのだ。ネパールでは秋、日本では春に咲くのはどうしてか?それは気候の違いで、ネパールは亜熱帯性で温度差が少なく穏やか、日本では四季があり一年の温度差が30度もあり厳しい。従って日本に来て寒い冬の間は葉を落として休眠する様に性質が変わったのである。因みにネ パールでも3000m以上の所では寒いので4月頃に花が咲くのだそうだ。日本ではサクラの木の下で「花見」を楽しむが、ネパールではそのような習慣はないそうだ。「花見」は日本独特の文化で4月に咲くサクラは、卒業、入学、就 職など人生の節目と関わりが深く、日本人の心の故郷的花になっているのだろう・・日本のサクラの原種が ネパールにあったとは知らなかった!驚き!
        もう一つネパールで驚いたことに、絵葉書がとても安い!一枚10ネパールルピー(\16)、日本までの航空切 手が25ルピー(\40)とこれも安い!今まで旅先で買った中では一番安い、世界一の安さである。通常絵葉書は       一枚\50-70、切手が\100-150であるから1/3から1/4の値段である。何故こんなに安いのだろう・・。僅か10日 ばかりで確実に日本に届いていたから本物だ。旅先で絵葉書と切手の値段を見ればその国の物価水準が分かる と思っているが・・特筆すべき安さである。因みに音楽CDが400NR(\640)、野球帽が150NR(\240)・・これら も安い。しかしビール大瓶330NR(\528)、紅茶100g350NR(\560)・・こちらは観光価格になっており日本より高 い!

          お気に入りの絵葉書

         ヒマラヤの展望台としてよく知られているのは、カトマンズのナガルコットの丘、ポカラのサランコット の丘などであるが、我々がハイキングしたポカラのカスキコットの丘は超お勧めである。約2Hrのハイキング であるが、登り口までバスで30'、そこからゆっくり歩きながら途中の民家や田畑で働く人を見たり、通学の 子供たちに出会ったり・・人々の生活風景を楽しみながら1-1.5Hrも歩けばカスキコットの丘に着く。そこは  美しい綺麗なお花がいっぱい咲き、白いヒマラヤが真近に見られてまるで桃源郷の世界!一休みしてネパール の美味しいミルクティを啜り・・こんな幸せはないと思う。こんな景色もあったのか!素晴らしいスポット である。
         今回のJTB旅物語 S961-84「ゆったりヒマラヤ・ネパール紀行8日間」は素晴らしい内容で、価格をあわせ 考えれば Value for Money は秀逸である。是非お勧めメニューである! 企画内容が良く吟味されており、時間的にも多少のゆとりがあり、見るべき所は全てみて、日本食も2回、美味しいチベット料理、綺麗なリゾ ートホテル、併せて現地 C & K Nepal旅行社の親切で行き届いたサポート・・。時期的にもよく全行程快晴に 恵まれて・・これ以上の旅はない! 大大満足の旅であった。関係者の方々に感謝!感謝!である。このホームページを読まれた方々に是非お勧めしたい!
         今回の旅もまた面白かった!いろいろ想像を越える環境の中での文化や大自然の雄大さに触れることが でき、考えさせられたり刺激を受けることができた。やはり世界を歩き新しい文化を見て体験して感じること ができる喜び・・・これが生きているという実感に繋がるのである。やはり旅は楽しい!

      世界遺産風景(カトマンズ・バクタブル・パタン)

      • 世界遺産・カトマンズ市街地風景
         カトマンズはネパールの首都。人口は100万人を越えネパール最大の都市である。気候は温暖で冬でも雪が降ることは稀だという。冠雪の山々、高地と聞けば寒いところというイメージがあるが、11月でも半袖で充分だ。意外や意外・・。標高1400mの盆地にあり、2000年以上の歴史を持つ古都パタンとバクタプルの町には古い寺院や建物が集まっており、世界遺産にも登録されて見るところが沢山。

        〔スワヤンブナート〕
        カトマンズの町から少し離れた丘の上に大きな白いストウバーが見える。スワヤンブナート寺院だ。此処には真言宗でも使われる密教の法具いわゆる巨大な金剛杵が安置されている。伝説ではカトマンズが湖であった当時文殊菩薩が利剣で山を切り開き、湖水とともに湖に住む悪い大蛇を一掃し、その跡に肥沃なカトマンズ盆地が出来た。文殊菩薩は小高い丘の上に大日如来への奉納としてストウバーを建立したという。
         ストウバーに描かれた「四方を見渡すブッダの智慧の目」が世界の平和を見守っている・・・・


        〔ダルバール広場〕
         ダルバールとはネパール語で「宮廷」を意味する言葉。王宮前の広場として中心部であった。パタンやバクタプルにも同様のダルバール広場があり、3人の王が美しさを競って造っただけあってどの広場も見事な宮殿や寺院が建ち並んでいる。


        世界遺産・バクタブル市街地風景
         バクタプルはカトマンズから東へ約12Km離れた所にある古い町。15世紀から18世紀にかけてマツラ王国の首都の一つとして最盛期を迎えたネワール文化とともに発展した。赤茶のレンガ造りの建物が並び、中でもニャタポラ寺院の五重塔が一際高く聳えている。寺院に囲まれたトウマディ広場には人々が集まり憩いの場のように話をしながらくつろいでいた。周囲の家の窓辺の彫刻など繊細な模様で美しい。道端の土産物屋にはアクセサリーやお面など・・。此処も世界遺産である。


        世界遺産・パタン市街地風景
         パタンは、カトマンズの南にある古都。昔マツラの3王国があった頃に首都として栄えた町。タルバール広場の王宮や見事な建築物にその面影を残している。長い仏教の歴史をもち、紀元前3世紀にアショーカ王が建てたというストウバーが残っている。今でも住民の80%が仏教徒だという。美しいネワール建築の建物が並び、彫刻、絵画など芸術に優れたネワール族が住んでいる。世界遺産に登録されている。

        〔パタンのタルバール広場〕
         この広場にある建物は17-18世紀に掛けて造られた物。東側に旧王宮、西側に幾つもの寺院が並んでいる。中でも目を引くのがユニークなデザインの石造りのクリシュナ寺院。4階建てで4階にブッダが祀られている。この辺りは観光客や地元民で物凄い賑わいであった・・



      可愛いネパールの子供たち 

      •  旅先で出会う子供たちは可愛い!とても無邪気で純真な眼差しで見つめてくる。外国人が珍しいのかあちこちから集まってくる。珍しさから写真を撮ってくれという・・。いい表情だ!ちょっと大きい子たちは胸の前で両手をあわせ「ナマステ!」と挨拶する。観光地化が進めば写真を撮って貰うことがお金になることを覚えるだろう・・。何時までも純真な心でいて欲しい

    よく働くネパールの女性たち 

    •  ネパールの主産業は農業であり、狭い山間の斜面にも段々畑が多く見られる。働いている人は大方女性であり、鍬を持って畑を耕したり、肥料を負い駕籠で運んだり、お米の脱穀作業などをしている姿をよく見かけた。またマーケットや露天商なども殆どが女性で、女性がとてもよく働くのに驚いた。この国では男は何処で何をしているのかと不思議に思う・・

    何時もぐうたらネパールの男たち

    •  どの国を旅しても男たちの姿は何時も路端や居酒屋の様なところに屯してくちゃくちゃお喋りをしていることが多い。イスラム圏でもその姿は変わらないが、女性が外で働く姿はよく見かける。ここネパールでも野良仕事やお米の脱穀作業などをやっているのは殆どが女性である。男性は何をしているのだろう・・と思う。何時もぐうたらな姿である。ネパールの女性はとてもよく働いているという印象であった。